残額
六百二十四リーヴル。
布に包んで、腰に巻いてきた。
歩けば、腿の同じところに当たる。
十一年、そこには鍵束があった。
重さは違う。
当たる位置だけが同じだった。
門を出て、畑沿いの道を四半刻ほど行く。
分かれ道に出た。
右がベルヌ。
月の初めは、十一年ずっと右だった。
今日は左に折れた。
左の道を歩くのは、はじめてになる。
同じ領のうちなのに、足がどこも覚えていない。
道幅が右の半分ほどしかない。轍が浅い。
通る荷が少ない道なのだと、それでわかる。
息が白い。日が上がれば消える白さだった。
鞄を持ち替えた。
右手で持つと、腰の布が鳴らない。
右手で持つことにした。
うしろから車輪の音がした。
振り返るより先に、薪の匂いが来た。
「乗るかね」
荷馬車だった。
御者台の男が、顎で荷台を示した。
「継立まで、いくらでしょう」
「二ソル」
「では、お願いいたします」
荷台の隅に座った。
薪の束が、膝の高さまで積んである。
布を解いて、小銭を出した。
十一年、この布から出したのは十八リーヴルだけだった。
ほかの額を出すのに、指が少し迷った。
「継立には昼前に着く」
「昼前なら間に合います」
「王都かね」
「王都まで参ります」
「そりゃ遠い」
男は、それきり訊かなかった。
荷が揺れるたび、樹皮の粉が落ちる。
屋敷では、あと七日は薪を出さない。
あと七日を数える者は、もうわたしではない。
継立の宿は、街道の角にあった。
馬を替える場所なので、人より馬の数のほうが多い。
帳場の男が帳面から顔を上げた。
「王都行きの乗合は、いつ出ますか」
「明日の朝。夜が明ける前に出る」
「幾らでしょう」
「三リーヴル。四日で着く」
「途中の泊まりは」
「宿代は別だ。一晩八ソル」
「食事は」
「それも別さ。パンと汁で六ソルってところだね」
勘定した。
馬車が三リーヴル。
宿は三泊で一リーヴル四ソルになる。
食は四日で同じだけかかる。
これに今夜の宿と、さっきの荷馬車を足す。
六リーヴルを見ておけば足りる。
六百二十四から六を引く。
着いたときには、六百十八になっている。
「今夜、お願いできますか」
「八ソル。前払いだよ」
「お渡しします」
「荷は、それだけかね」
「これだけです」
「積み賃は要らんよ。膝に置ける荷なら」
「では、膝に置きます」
「お名前は」
「……リディアと」
男は家名を訊かなかった。
帳面には、名だけが残った。
部屋は屋根裏だった。窓がひとつある。
小さな暖炉に、火が入っていた。
十一月の八日に、火のある部屋へ入った。
何年ぶりかは、出てこなかった。
外套を椅子の背にかけた。
裏地の温みは、とうに無い。
これは借りたものだ。
返しに行く道は、まだ引けていない。
卓の上で布を解いた。
銀貨を五枚ずつ重ねる。四つで一列にする。
列が並びはじめると、指が勝手に速くなる。
六百二十四。
合っている。
包み直して、腰に戻した。
金物が、腰骨の下に当たる。鍵束より下に当たる。
火の粉が一度だけ跳ねた。
薪が崩れて、それきり静かになった。
戸が二度鳴った。
「湯をお持ちしました」
「痛み入ります」
「朝はお早いのでしょう」
「夜明け前の乗合です」
「暗いうちにお起こしします」
「そう願います」
女中が桶を置いて下がった。
湯気が窓に当たって、白く曇った。
曇りが引くまで、椅子に座っていた。
乗合馬車は六人乗りだった。
膝がぶつかる。
四日、この距離で座ることになる。
向かいに縫子の女がいた。膝に籠を抱えている。
「王都は、はじめてかね」
「今度がはじめてで」
「どこに泊まるの」
「まだ決まっておりません」
「決めずに来る人がいるのねえ」
女はマノンと名乗った。
冬のあいだだけ王都へ出て、春に領へ帰るのだという。
「お里はどちら」
「北の領です」
「北のどこ」
「……小さいところです」
「聞いても分からないと思っているのね」
「そういうわけでは」
「いいのよ。訊いたわたしが悪いわ」
マノンが籠の蓋を開けた。
糸を一巻き取り出して、また戻した。
「宿に長く居ちゃ駄目よ」
「といいますと」
「一晩八ソル。三十日で十二リーヴルになるでしょう」
「なります」
「部屋を借りれば、五リーヴルで済むわ」
「五リーヴル」
「商会街の裏よ。屋根裏で煮炊きはできないけれど」
「川の向こうは」
「倍。あちらは貴族街だもの」
「部屋を借りるときは、何を訊けばよろしいでしょう」
「まず水よ」
「水」
「井戸が中にあるか、外まで汲みに出るか。冬はそれで暮らしが変わるわ」
「ほかには」
「洗い場と、前金の月数。三月ぶん先に取る大家がいるから」
「三月」
「五リーヴルの三月で十五。持って行かないと話にならないの」
「戸に錠はついておりますか」
「安いところは、掛け金だけね」
掛け金。
十九本を輪に通していた家から来て、はじめに覚えるのがそれになる。
膝の上で数えた。
部屋が五。
パンと汁で一日六ソルなら、三十日で九。
「冬は、火に幾らかかりますか」
「炭で月に二リーヴル」
「二リーヴル」
「けちると指が動かなくなるわ。縫子はそれが一番こたえるの」
洗濯と、灯りと、繕いの糸で二。
五と九と二と二。
月に十八リーヴル。
顔を上げた。
窓の外を、刈り跡の畑が流れていく。
十八。
十一年、月の初めに置いてきたのと同じ額だった。
六百十八リーヴル。
暮らしに十八。返しに十八。
月に三十六が出ていく。
三十六が十七回で、六百十二。
残るのが六。
一年と五ヶ月。
返しのほうは三十四回で終わる。二年と十ヶ月。
合わない。
終わるより先に、こちらが尽きる。
六百十八を十八で割れば、三十四回と端数が六。
屋敷で出したときは、端数が十二だった。
道中の六リーヴルが、そこから減っている。
回数は減っていない。
それだけ確かめて、指を止めた。
「マノン。字の書ける者に、仕事はありますか」
「読み書き?」
「帳付けです」
「あるにはあるわ」
「どちらでしょう」
「商会街ね。冬は年の締めで人が要るもの」
「幾らになりますか」
「日で二リーヴルは出るわね。冬のあいだは」
日に二リーヴル。
月に十八日働けば、三十六になる。
三十六が入って、三十六が出る。
差引は零だ。
零でいい。
持参金は減らない。
三十四回、そのまま置ける。
——足りる。
六百十八。三十四回。端数の六。
向かいの籠の中で、糸巻きが転がった。
マノンはもう舟を漕いでいた。
わたしも一度、瞼が落ちた。
落ちた拍子に、数が飛んだ。
頭から数え直して、同じところへ戻した。
四日のうちに、これを三度した。
二日目の宿で、同じ卓に着いた。
「あなた、パンだけなの」
「これで足ります」
「汁をお取りなさい。三ソルよ」
「今日はこれで」
「そういう倹約は、冬に負けるわ」
「……覚えておきます」
マノンが自分の椀をこちらへ寄せた。
「半分。返さなくていいわ」
「では、いただきます」
汁は塩が強かった。
塩は一樽で四リーヴル。今月から上がっている。
誰の勘定でもない値を、わたしはまだ覚えている。
「冬の王都は、どんな具合ですか」
「川が凍る前が一番寒いのよ」
「凍る前」
「風が水の上を渡ってくるの。凍ってしまえば、あれが止むわ」
「そのころ、火はいくらになりますか」
「上がるわ。上がってから買う人が多いのよ」
「では、先に買います」
「あなた、そういうところは早いのね」
マノンが匙を置いた。
置いてから、こちらを一度だけ見た。
「若いのに、なんだかお年寄りみたいだわ」
返す言葉を探した。
探しているあいだに、マノンはもうパンをちぎっていた。
三日目の昼、朔日のことを考えた。
次は十二月の朔日になる。
ベルヌの帳場までは、王都から馬車で四日。
行って戻れば八日かかる。
月に一度、八日を道に使うわけにはいかない。
本館で納められるなら、それでいい。
マルタンは、帳面を月末に本館へ送ると言っていた。
受けるところが同じなら、道を短くしても差引は変わらない。
変わらないはずだ。
はずだ、で納めたことは、十一年に一度もない。
「マノン。ハルヴァ商会は、どちらにありますか」
「川のこちら側よ」
「商会街の」
「真ん中。石の門があるから、すぐ分かるわ」
「どなたでも入れますか」
「表の窓口ならね」
「奥は」
「奥は、用のある人だけ」
マノンが籠を膝の上で抱え直した。
道の脇に、里程の石が過ぎていく。
「手紙は、どうやって出すものですか」
「宿に頼めば、馬車の便に載せてくれるわ」
「幾らかかりますか」
「先の遠さによるの。北の領なら四ソルは取られるでしょう」
「四ソル」
「急ぐの?」
「宛先が決まってからです」
「出すほうの宛先が決まらないなんて、聞いたことがないわ」
マノンが笑った。
笑われるところだと分かったので、わたしも少し笑った。
窓口。
三分で済む場所が、王都にもあるということだ。
訊きたいことは、もうひとつある。
あと何回か。
十一年、毎年ベルヌで訊いた。
答えは一度も返らなかった。
総額と残りの回数は、本館の控えにある。
その控えが、着いた先にある。
馬が替えられていく音を、宿の窓から聞いた。
三度目の付け替えだった。
四日目の夕方、王都に入った。
壁と屋根と、また壁。
目の届くところに、畑がない。
人が多い。
数えはじめて、途中でやめた。
ベルヌでは、塩屋も豆屋も、わたしが来る日を知っていた。
ここでは誰も、わたしが来たことを知らない。
角を折れたところで、匂いが来た。
焦げた、甘い匂いだ。
一度、通り過ぎたことがある。
台の上で、栗が焼けていた。
「ひと袋、いただけますか」
「二ソル。焼きたてだよ」
「では、それを」
「お嬢さん、こっちは初めてだね」
「今日、着きました」
「なら、道を訊きな。この町は真っ直ぐが一本もないから」
小銭で払った。
紙の包みは、手のひらより少し大きかった。
道中に見た六リーヴルを、歩きながら締めた。
荷馬車が二ソル。宿は四泊で一リーヴル十二ソルになった。
馬車が三リーヴル。食は四日で一リーヴル一ソル。
二日目の汁の三ソルは、別に立てた。
返さなくていいと言われたものだ。それでも書かないと、合わない。
締めて五リーヴル十八ソル。
栗の二ソルを足すと、ちょうど六リーヴルになった。
見たとおりだった。
宿は、商会街の外れに取った。
「一晩八ソル。湯は下でございます」
「一晩で結構です」
「先にいただきますよ」
「ここに出します」
「お一人で」
「一人です」
「お荷物はそれだけ」
「ほかにございません」
「珍しいこと」
「朝のパンは、別に三ソルで」
「では、つけてください」
「明日はどちらへ」
「ハルヴァ商会へ参ります」
「あそこは朝が早うございますよ」
「朝は何刻から開きますか」
「日の出には、もう人が入っております」
「では、そのころに参ります」
女将は鍵を渡してよこした。
一本きりの鍵は、指のあいだで軽かった。
部屋は二階だった。
戸を閉めて、鍵をかけた。
かけてから、内側へ一度引いた。掛け金だけの部屋ではない。
窓の下を人が通る。足音が絶えない。
屋敷では、日が落ちれば足音は一つも通らなかった。
腰の布は解かなかった。
寝ているあいだも、そこに当たっている。
紙の包みを開けた。
湯気が上がって、すぐ消えた。
ひとつ食べた。
値の割に、皮が厚かった。
残りは明日にする。
手帖を出した。
百三十二行の下に、白い頁がある。
日付を書いた。千百十四年十一月十二日。
その下に、二ソル。
十一年、この手帖に十八リーヴル以外の額を書いたことがない。
書いた字を見た。
ほかのどの行より、大きい。
消せない。
直せば、二重線と署名が残る。
残したままにした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話は、分かれ道を左へ折らせるところから決まりました。十一年ずっと右だった道です。左の道は同じ領のうちにあるのに、彼女の足が一歩も覚えていない。それだけ書けば家を出たことになるだろうと思って、見送りも追っ手も出しませんでした。誰も追ってこないのが、この人にはいちばん正しい別れ方でした。
暮らしの月々を組んだら十八リーヴルになったのは、計算していたら勝手にそうなりました。部屋と食と炭と、細々したもので十八です。書き終えてから気づいて、しばらく手が止まりました。彼女が毎月置いてきたのと同じ額で、これから一人ぶんの冬が買えるらしい。数字にそういう趣味の悪さがあるとは思っていませんでした。
腰の布は、鍵束のあった場所より少し下に当たります。同じ位置にしなかったのは、あれの代わりにはならないからです。重さで釣り合うものではないので。
栗は第二話の市で一度通り過ぎたものです。あのとき買えた額でした。買わせるまでに五話かかりました。
次話、彼女は石の門をくぐります。
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