↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/13

残額

六百二十四リーヴル。


 布に包んで、腰に巻いてきた。

 歩けば、腿の同じところに当たる。


 十一年、そこには鍵束があった。


 重さは違う。

 当たる位置だけが同じだった。


 門を出て、畑沿いの道を四半刻ほど行く。

 分かれ道に出た。


 右がベルヌ。

 月の初めは、十一年ずっと右だった。


 今日は左に折れた。


 左の道を歩くのは、はじめてになる。

 同じ領のうちなのに、足がどこも覚えていない。


 道幅が右の半分ほどしかない。わだちが浅い。

 通る荷が少ない道なのだと、それでわかる。


 息が白い。日が上がれば消える白さだった。


 鞄を持ち替えた。

 右手で持つと、腰の布が鳴らない。


 右手で持つことにした。




 うしろから車輪の音がした。


 振り返るより先に、薪の匂いが来た。


 「乗るかね」


 荷馬車だった。

 御者台の男が、顎で荷台を示した。


 「継立つぎたてまで、いくらでしょう」

 「二ソル」

 「では、お願いいたします」


 荷台の隅に座った。

 薪の束が、膝の高さまで積んである。


 布を解いて、小銭を出した。


 十一年、この布から出したのは十八リーヴルだけだった。

 ほかの額を出すのに、指が少し迷った。


 「継立には昼前に着く」

 「昼前なら間に合います」

 「王都かね」

 「王都まで参ります」

 「そりゃ遠い」


 男は、それきり訊かなかった。


 荷が揺れるたび、樹皮の粉が落ちる。

 屋敷では、あと七日は薪を出さない。


 あと七日を数える者は、もうわたしではない。




 継立の宿は、街道の角にあった。


 馬を替える場所なので、人より馬の数のほうが多い。

 帳場の男が帳面から顔を上げた。


 「王都行きの乗合のりあいは、いつ出ますか」

 「明日の朝。夜が明ける前に出る」

 「幾らでしょう」

 「三リーヴル。四日で着く」

 「途中の泊まりは」

 「宿代は別だ。一晩八ソル」

 「食事は」

 「それも別さ。パンと汁で六ソルってところだね」


 勘定した。


 馬車が三リーヴル。

 宿は三泊で一リーヴル四ソルになる。

 食は四日で同じだけかかる。


 これに今夜の宿と、さっきの荷馬車を足す。


 六リーヴルを見ておけば足りる。


 六百二十四から六を引く。

 着いたときには、六百十八になっている。


 「今夜、お願いできますか」

 「八ソル。前払いだよ」

 「お渡しします」

 「荷は、それだけかね」

 「これだけです」

 「積み賃は要らんよ。膝に置ける荷なら」

 「では、膝に置きます」

 「お名前は」

 「……リディアと」


 男は家名を訊かなかった。

 帳面には、名だけが残った。




 部屋は屋根裏だった。窓がひとつある。


 小さな暖炉に、火が入っていた。


 十一月の八日に、火のある部屋へ入った。

 何年ぶりかは、出てこなかった。


 外套を椅子の背にかけた。

 裏地の温みは、とうに無い。


 これは借りたものだ。

 返しに行く道は、まだ引けていない。


 卓の上で布を解いた。


 銀貨を五枚ずつ重ねる。四つで一列にする。

 列が並びはじめると、指が勝手に速くなる。


 六百二十四。


 合っている。


 包み直して、腰に戻した。

 金物が、腰骨の下に当たる。鍵束より下に当たる。


 火の粉が一度だけ跳ねた。

 薪が崩れて、それきり静かになった。


 戸が二度鳴った。


 「湯をお持ちしました」

 「痛み入ります」

 「朝はお早いのでしょう」

 「夜明け前の乗合です」

 「暗いうちにお起こしします」

 「そう願います」


 女中が桶を置いて下がった。


 湯気が窓に当たって、白く曇った。

 曇りが引くまで、椅子に座っていた。




 乗合馬車は六人乗りだった。


 膝がぶつかる。

 四日、この距離で座ることになる。


 向かいに縫子ぬいこの女がいた。膝に籠を抱えている。


 「王都は、はじめてかね」

 「今度がはじめてで」

 「どこに泊まるの」

 「まだ決まっておりません」

 「決めずに来る人がいるのねえ」


 女はマノンと名乗った。

 冬のあいだだけ王都へ出て、春に領へ帰るのだという。


 「お里はどちら」

 「北の領です」

 「北のどこ」

 「……小さいところです」

 「聞いても分からないと思っているのね」

 「そういうわけでは」

 「いいのよ。訊いたわたしが悪いわ」


 マノンが籠の蓋を開けた。

 糸を一巻き取り出して、また戻した。


 「宿に長く居ちゃ駄目よ」

 「といいますと」

 「一晩八ソル。三十日で十二リーヴルになるでしょう」

 「なります」

 「部屋を借りれば、五リーヴルで済むわ」

 「五リーヴル」

 「商会街の裏よ。屋根裏で煮炊きはできないけれど」

 「川の向こうは」

 「倍。あちらは貴族街だもの」

 「部屋を借りるときは、何を訊けばよろしいでしょう」

 「まず水よ」

 「水」

 「井戸が中にあるか、外まで汲みに出るか。冬はそれで暮らしが変わるわ」

 「ほかには」

 「洗い場と、前金の月数。三月ぶん先に取る大家がいるから」

 「三月」

 「五リーヴルの三月で十五。持って行かないと話にならないの」

 「戸に錠はついておりますか」

 「安いところは、掛けかけがねだけね」


 掛け金。


 十九本を輪に通していた家から来て、はじめに覚えるのがそれになる。


 膝の上で数えた。


 部屋が五。

 パンと汁で一日六ソルなら、三十日で九。


 「冬は、火に幾らかかりますか」

 「炭で月に二リーヴル」

 「二リーヴル」

 「けちると指が動かなくなるわ。縫子はそれが一番こたえるの」


 洗濯と、灯りと、繕いの糸で二。


 五と九と二と二。


 月に十八リーヴル。


 顔を上げた。


 窓の外を、刈り跡の畑が流れていく。


 十八。


 十一年、月の初めに置いてきたのと同じ額だった。




 六百十八リーヴル。


 暮らしに十八。返しに十八。

 月に三十六が出ていく。


 三十六が十七回で、六百十二。

 残るのが六。


 一年と五ヶ月。


 返しのほうは三十四回で終わる。二年と十ヶ月。


 合わない。

 終わるより先に、こちらが尽きる。


 六百十八を十八で割れば、三十四回と端数が六。

 屋敷で出したときは、端数が十二だった。


 道中の六リーヴルが、そこから減っている。


 回数は減っていない。


 それだけ確かめて、指を止めた。


 「マノン。字の書ける者に、仕事はありますか」

 「読み書き?」

 「帳付けです」

 「あるにはあるわ」

 「どちらでしょう」

 「商会街ね。冬は年の締めで人が要るもの」

 「幾らになりますか」

 「日で二リーヴルは出るわね。冬のあいだは」


 日に二リーヴル。

 月に十八日働けば、三十六になる。


 三十六が入って、三十六が出る。

 差引は零だ。


 零でいい。


 持参金は減らない。

 三十四回、そのまま置ける。


 ——足りる。


 六百十八。三十四回。端数の六。


 向かいの籠の中で、糸巻きが転がった。

 マノンはもう舟を漕いでいた。


 わたしも一度、瞼が落ちた。


 落ちた拍子に、数が飛んだ。

 頭から数え直して、同じところへ戻した。


 四日のうちに、これを三度した。




 二日目の宿で、同じ卓に着いた。


 「あなた、パンだけなの」

 「これで足ります」

 「汁をお取りなさい。三ソルよ」

 「今日はこれで」

 「そういう倹約は、冬に負けるわ」

 「……覚えておきます」


 マノンが自分の椀をこちらへ寄せた。


 「半分。返さなくていいわ」

 「では、いただきます」


 汁は塩が強かった。


 塩は一樽で四リーヴル。今月から上がっている。

 誰の勘定でもない値を、わたしはまだ覚えている。


 「冬の王都は、どんな具合ですか」

 「川が凍る前が一番寒いのよ」

 「凍る前」

 「風が水の上を渡ってくるの。凍ってしまえば、あれが止むわ」

 「そのころ、火はいくらになりますか」

 「上がるわ。上がってから買う人が多いのよ」

 「では、先に買います」

 「あなた、そういうところは早いのね」


 マノンが匙を置いた。

 置いてから、こちらを一度だけ見た。


 「若いのに、なんだかお年寄りみたいだわ」


 返す言葉を探した。

 探しているあいだに、マノンはもうパンをちぎっていた。




 三日目の昼、朔日のことを考えた。


 次は十二月の朔日になる。


 ベルヌの帳場までは、王都から馬車で四日。

 行って戻れば八日かかる。


 月に一度、八日を道に使うわけにはいかない。


 本館で納められるなら、それでいい。


 マルタンは、帳面を月末に本館へ送ると言っていた。

 受けるところが同じなら、道を短くしても差引は変わらない。


 変わらないはずだ。


 はずだ、で納めたことは、十一年に一度もない。


 「マノン。ハルヴァ商会は、どちらにありますか」

 「川のこちら側よ」

 「商会街の」

 「真ん中。石の門があるから、すぐ分かるわ」

 「どなたでも入れますか」

 「表の窓口ならね」

 「奥は」

 「奥は、用のある人だけ」


 マノンが籠を膝の上で抱え直した。

 道の脇に、里程りていの石が過ぎていく。


 「手紙は、どうやって出すものですか」

 「宿に頼めば、馬車の便に載せてくれるわ」

 「幾らかかりますか」

 「先の遠さによるの。北の領なら四ソルは取られるでしょう」

 「四ソル」

 「急ぐの?」

 「宛先が決まってからです」

 「出すほうの宛先が決まらないなんて、聞いたことがないわ」


 マノンが笑った。

 笑われるところだと分かったので、わたしも少し笑った。


 窓口。


 三分で済む場所が、王都にもあるということだ。


 訊きたいことは、もうひとつある。


 あと何回か。


 十一年、毎年ベルヌで訊いた。

 答えは一度も返らなかった。


 総額と残りの回数は、本館の控えにある。

 その控えが、着いた先にある。


 馬が替えられていく音を、宿の窓から聞いた。

 三度目の付け替えだった。




 四日目の夕方、王都に入った。


 壁と屋根と、また壁。

 目の届くところに、畑がない。


 人が多い。

 数えはじめて、途中でやめた。


 ベルヌでは、塩屋も豆屋も、わたしが来る日を知っていた。

 ここでは誰も、わたしが来たことを知らない。


 角を折れたところで、匂いが来た。


 焦げた、甘い匂いだ。

 一度、通り過ぎたことがある。


 台の上で、栗が焼けていた。


 「ひと袋、いただけますか」

 「二ソル。焼きたてだよ」

 「では、それを」

 「お嬢さん、こっちは初めてだね」

 「今日、着きました」

 「なら、道を訊きな。この町は真っ直ぐが一本もないから」


 小銭で払った。

 紙の包みは、手のひらより少し大きかった。


 道中に見た六リーヴルを、歩きながら締めた。


 荷馬車が二ソル。宿は四泊で一リーヴル十二ソルになった。

 馬車が三リーヴル。食は四日で一リーヴル一ソル。


 二日目の汁の三ソルは、別に立てた。

 返さなくていいと言われたものだ。それでも書かないと、合わない。


 締めて五リーヴル十八ソル。


 栗の二ソルを足すと、ちょうど六リーヴルになった。


 見たとおりだった。




 宿は、商会街の外れに取った。


 「一晩八ソル。湯は下でございます」

 「一晩で結構です」

 「先にいただきますよ」

 「ここに出します」

 「お一人で」

 「一人です」

 「お荷物はそれだけ」

 「ほかにございません」

 「珍しいこと」

 「朝のパンは、別に三ソルで」

 「では、つけてください」

 「明日はどちらへ」

 「ハルヴァ商会へ参ります」

 「あそこは朝が早うございますよ」

 「朝は何刻から開きますか」

 「日の出には、もう人が入っております」

 「では、そのころに参ります」


 女将は鍵を渡してよこした。

 一本きりの鍵は、指のあいだで軽かった。


 部屋は二階だった。


 戸を閉めて、鍵をかけた。

 かけてから、内側へ一度引いた。掛け金だけの部屋ではない。


 窓の下を人が通る。足音が絶えない。


 屋敷では、日が落ちれば足音は一つも通らなかった。


 腰の布は解かなかった。

 寝ているあいだも、そこに当たっている。


 紙の包みを開けた。

 湯気が上がって、すぐ消えた。


 ひとつ食べた。

 値の割に、皮が厚かった。


 残りは明日にする。


 手帖を出した。


 百三十二行の下に、白い頁がある。


 日付を書いた。千百十四年十一月十二日。

 その下に、二ソル。


 十一年、この手帖に十八リーヴル以外の額を書いたことがない。


 書いた字を見た。


 ほかのどの行より、大きい。


 消せない。

 直せば、二重線と署名が残る。


 残したままにした。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


 この話は、分かれ道を左へ折らせるところから決まりました。十一年ずっと右だった道です。左の道は同じ領のうちにあるのに、彼女の足が一歩も覚えていない。それだけ書けば家を出たことになるだろうと思って、見送りも追っ手も出しませんでした。誰も追ってこないのが、この人にはいちばん正しい別れ方でした。


 暮らしの月々を組んだら十八リーヴルになったのは、計算していたら勝手にそうなりました。部屋と食と炭と、細々したもので十八です。書き終えてから気づいて、しばらく手が止まりました。彼女が毎月置いてきたのと同じ額で、これから一人ぶんの冬が買えるらしい。数字にそういう趣味の悪さがあるとは思っていませんでした。


 腰の布は、鍵束のあった場所より少し下に当たります。同じ位置にしなかったのは、あれの代わりにはならないからです。重さで釣り合うものではないので。


 栗は第二話の市で一度通り過ぎたものです。あのとき買えた額でした。買わせるまでに五話かかりました。


 次話、彼女は石の門をくぐります。


 ☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次話の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。