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では、お返しします

食堂までは四十二歩ある。


 廊下を二十七、階段を十一、角を曲がって四つ。

 十一年、この数は変わっていない。


 今朝は、これを何度も歩くことになる。


 置く順は昨夜のうちに決めた。

 帳簿と、覚書と、金庫の紙。それから鍵。


 鍵をいちばん後にした理由は、自分でもうまく言えない。


 鞄はひとつだけ玄関へ出した。

 入るものが少なかったので、詰め直しはしなかった。


 抽斗を開けた。

 中のものを取って、懐に入れた。


 抽斗の鍵は輪に戻さなかった。

 昨夜のうちに抜いてある。


 扉が鳴った。


 「お嬢様」


 ハンナが紙を胸の高さに持っていた。


 「昨夜の紙でございます」

 「お預かりします」

 「皆様、もうお済みでございます」

 「奥様は」

 「おいでです」

 「では、参ります」


 卓の上の積みを見た。三十六冊ある。

 六冊ずつなら六度で足りる。


 「お手伝いいたします」

 「わたしが運びます」

 「六度もお歩きになります」

 「わたしが運びます」


 ハンナは二度目には返さなかった。

 扉を押さえて、そこに立った。


 六冊を抱えた。

 両手が塞がると、腰の輪は歩くたびに勝手に鳴る。

 押さえる手が無い。


 鳴らせたまま廊下へ出た。




 食堂の扉は開いていた。


 ミレーユの声が先に来た。


 「——だから春がいいと思うの。ね、お母様」

 「春はお客様が多いのよ」

 「多いほうがよろしいでしょう?」


 三人とも座っていた。皿はもう下げてある。

 お父様のカップにだけ、まだ中身が残っていた。


 暖炉に火は入っていない。あと七日ある。


 「お邪魔いたします」


 腕の六冊を卓の端に置いた。

 冊の背が触れて、低い音がした。


 誰も顔を上げなかった。


 「お父様。セドリック様は年内にいらっしゃるの?」

 「呼んでおく」

 「ほら。お父様がそうおっしゃるんだもの」

 「そう慌てるものではない」

 「慌ててないわ。訊いただけ」


 妹が椅子の上で座り直した。


 「お母様。昨日の襟、見てくださったでしょう」

 「見たわ」

 「お姉様も見てくださったのよ。ね、お姉様」

 「拝見しました」

 「なんておっしゃったと思う?」

 「……なんとおっしゃったの」

 「お似合いですって」


 ミレーユが笑った。

 お母様も笑った。お父様の口の端も動いた。


 火の入らない部屋で、そこだけが寒くなさそうだった。


 わたしは廊下に戻った。




 二度目を置いたとき、ミレーユが振り向いた。


 「お姉様。それ、まだ運ぶの」

 「家の帳簿です」

 「まだあるの?」

 「あります」


 妹はもう前を向いていた。


 三度目。


 置くたびに積みが高くなる。背の揃わないところを、置きながら直した。


 「お母様。客名簿って、どなたから書くの」

 「近いかたからよ」

 「近いって、住んでいるところ?」

 「……そうねえ」

 「ねえお父様。近いって、どっち」

 「両方だ」

 「両方って言われても困るわ」


 四度目。


 「お姉様。近いって、どっちのこと」

 「ご親戚が先です」

 「ほら、お姉様はすぐお答えになるのよ」

 「そういう子だ」


 お父様がそう言った。

 言ってから、カップに手を伸ばした。伸ばしただけで、持ち上げなかった。


 「ねえお姉様。セドリック様、あの日なんておっしゃってた?」

 「日取りのお話はございませんでした」

 「そうじゃなくて。わたしのこと」

 「よろしくと申し上げました」

 「それで?」

 「こちらこそ、と」

 「それはもう聞いたわ」

 「ほかにはございません」


 妹が唇を少し尖らせた。

 尖らせたまま、すぐ戻った。


 「まあいいわ。ご本人に訊くもの」


 五度目のとき、お母様が扇を持ち替えた。


 「リディア。そこは食卓ですよ」

 「じきに終わります」

 「食卓に紙を積むものではないわ」

 「あと一度で終わります」


 お母様はそれ以上言わなかった。

 言ってしまえば、あとは自分の用が済むらしい。


 「そういえば、リディア。お茶のことはハンナに言ったの」

 「昨日、伝えました」

 「薄くなっていたわ」

 「伝えたとおりです」


 五度目の階段で、手すりに手をかけた。

 昨日の眠りが、まだ戻っていない。膝の運びが半拍遅れる。


 六度目には、覚書と金庫の紙も一緒に持った。

 紙は軽い。冊の上に載せれば、往復が一度で済む。


 置いた。


 卓の端に三十三冊。

 その上に今年の分を三冊載せた。まだ締めていない。


 六度運んで、五度戻った。

 四十二歩を十一度。四百六十二歩。


 誰も立たなかった。




 紙を四枚出した。


 一枚ずつ置く。掛と、人と、暦。最後が決まっていないことだ。


 置きながら隅を揃えた。

 揃えなくてもよかった。


 「なあにそれ」

 「家の覚書です」

 「読むの?」

 「どなたかが」

 「四枚もあるの?」

 「四枚で足りました」


 ミレーユが匙で受け皿の縁を撫でた。


 「ねえ。春の客って何人くらい呼ぶものなの」

 「四十人はお呼びしましたね」

 「四十人!」

 「三年前の秋に」


 妹が指を折った。折りかけて、途中でやめた。


 「多いのか少ないのか、わからないわ」

 「多いほうです」

 「じゃあ多くていいわ」

 「ミレーユ。人が増えれば要るものも増えます」

 「なあに、要るものって」

 「椅子と皿と、それを洗う手です」

 「そんなの、あるでしょ?」


 妹は答えを待たなかった。

 もうお母様のほうを向いていた。


 「お母様。庭の卓って、いくつあるかしら」

 「あるだけ出せばよろしいのよ」

 「あるだけって、いくつ?」


 お母様は窓のほうを見た。それが返事だった。


 金庫の紙を、覚書の上に載せた。


 お母様が顔を上げた。

 この朝、はじめてわたしを見た。


 「金庫を開けたの」

 「昨日、ハンナと」

 「わたしの首飾りは」

 「ございます」

 「そう」


 お母様はまた扇を見た。


 お父様がカップを置いた。

 置いてから、持ち直した。中身はもう冷えているはずだ。


 窓の外の霜が、畑の縁から消えかけている。

 日が上がってきた。




 卓の上を見た。


 三十六冊。四枚。一枚。


 それから、腰の輪を外した。


 これまでも外したことはある。掛け直すつもりで外していた。

 今日は違う。


 留め金だけは、指の熱を吸わない。

 金物は金物のままだ。


 輪を卓に置いた。


 十八本が、いっぺんに鳴った。


 ミレーユの肩が跳ねた。


 「では、お返しします」


 礼をした。


 誰も何も言わなかった。


 暖炉に火は入っていない。だから薪のぜる音もない。

 窓の桟が一度だけ鳴った。風だ。


 ミレーユの匙が、受け皿に触れたまま止まっている。

 お母様は扇を開かない。

 お父様はカップを口まで運ばない。


 三人とも、わたしを見ていない。

 卓の上を見ている。


 お父様が椅子を引いた。


 引いただけだった。


 風がやんだ。




 「……ねえ。これ、どうするの」


 ミレーユが先に言った。


 「お決めください」

 「わたしが持つの?」

 「どなたでも持てます」

 「重いのよ。知ってるわ。持ったもの」


 妹が笑った。笑ってから、輪のほうへ手を伸ばしかけた。

 届く前に引いた。


 「順を申し上げます」

 「いいの。ハンナが知ってるでしょ」


 扉のところでハンナが立っている。

 目を伏せたままだった。


 「お姉様」

 「はい」

 「よかったわね」


 妹の声は明るかった。


 「これでお姉様も楽になるでしょ?」


 わたしは何も申し上げなかった。


 「ねえ、そうでしょう?」

 「……そうですね」


 「お父様もそうおっしゃってたのよ。ねえ」

 「言っておらん」

 「言ったわ。昨日の晩に」

 「……そうだったか」


 お父様は窓のほうを向いた。


 「お姉様。落ち着いたらお手紙をくださる?」

 「宛先が決まりましたら」

 「決まっていないの?」

 「まだです」

 「じゃあ、決まったら教えて」

 「そういたします」


 ミレーユが満足そうに頷いた。

 頷いてから、もうお母様のほうを向いていた。


 「お母様。春なら、庭が使えるでしょう?」

 「使えるわ」

 「ほらね」


 お父様は何も言わなかった。

 カップの中身は、まだ減っていない。


 「片づけは食後にさせましょう」


 お母様が扇を膝に置いた。


 「……もう食後だったわね」


 それから、はじめて卓の端の積みを見た。


 「リディア。これ、どこへしまうものなの」

 「蔵に棚がございます」

 「蔵ね」

 「梯子が要ります」

 「……ハンナに言っておくわ」


 お母様はそれきり、卓の上を見なかった。




 卓から扉まで、九歩ある。


 一歩目で、ミレーユがまた話しはじめた。

 庭に卓を出すか出さないかの話だった。


 二歩。

 三歩。


 声は続いている。

 わたしの足音は、その下に入っている。


 四歩。

 絨毯の縁を越える。ここで足音が変わる。


 五歩。六歩。


 板張りの上を歩く音が、自分の後ろから追いついてくる。


 七歩目で、後ろから呼ばれた。


 「リディア」


 足を止めた。

 振り返らなかった。


 「お前は昔から、勝手に背負う子だった」


 ミレーユの声が止まった。

 止まったのは話の切れ目だったからだと思う。


 勝手に、と聞こえた。


 そのとおりだ。

 誰にも頼まれていない。頼まれていないことを十一年した。


 「申し訳ございません」


 お父様は何も返さなかった。


 八歩目を数え損なった。


 扉に手をかけたとき、九歩だったのかどうか、もう出てこなかった。




 廊下にハンナが立っていた。


 「お嬢様」


 それだけだった。

 あとが無かった。


 わたしは玄関のほうへ歩いた。

 ハンナが半歩あとをついてきた。


 背中で、食堂の声が続いている。

 ミレーユが笑っている。庭の話がまだ終わっていないらしい。


 鞄はかまちのところに置いてあった。

 持ち上げると、思っていたより軽かった。


 「お嬢様」


 二度目だった。

 ハンナは紙を胸の高さに持っていない。持つものが無いからだ。


 手が、仕着せの前で行き場を探していた。


 「ハンナ」

 「はい」

 「給金は来月の二日です」

 「二日でございますね」

 「厨房の子の分が増えています」

 「名簿にございました」

 「では、お願いします」

 「……間違いなく」


 ハンナが深く頭を下げた。

 下げたまま、しばらく上げなかった。


 顔を上げて、外套がいとうを差し出した。


 「霜が降りております」

 「お借りします」

 「お持ちくださいませ」


 袖を通した。裏地に湯たんぽの温みが残っている。

 朝のうちに温めておいたのだと、それでわかった。


 この家で、寒いだろうと思った人がひとりいた。


 戸を開けた。

 外の冷たさが、先に入ってきた。




 持ってきたものは、全部置いた。


 合っている。


 門までの石畳は、雨のあとに敷き直させたものだ。

 三年前になる。歩くと目地のところで踵が鳴る。


 振り返らなかった。

 窓のどれが食堂かは、数えれば出る。


 数えなかった。


 門を出た。


 刈られたあとの畑が続いている。土の色ばかりで、目に留まるものがない。

 霜はもう消えていた。


 懐のものを、上から押さえた。


 百三十二行。

 書いていない頁のほうが、まだ多い。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


 この話は物音だけで持たせようと決めて書きました。冊の背が触れる音と、輪の落ちる音。台詞を減らすほど場が持ってしまうのが自分でも意外で、書きながら何度も削りました。削るたびに部屋が広くなっていく感じがして、それは少し気味が悪かったです。


 歩数は先に決めていました。自室から食堂まで四十二歩、卓から扉まで九歩。四十二のほうは十一年ぶん歩いた道なので、彼女は数えられます。九歩のほうは途中で数え損ないました。この子の数が飛んだのは、たぶんこれがはじめてです。書いていて、手が止まったのはそこだけでした。


 お父様の台詞は、第一話を書いていたころからありました。置く場所をずっと探していて、ようやくここに来ました。あれがどういう意味だったのかは、まだ書きません。リディアは責められたと受け取っています。受け取り方を訂正できる人は、あの部屋に一人もいませんでした。


 卓の上に置かなかったものが、ひとつだけあります。書き忘れではありません。


 次話、彼女は残りを数えます。


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