鍵束
鍵は十九本ある。
輪に通した順を、指だけで言える。
金庫。酒蔵。お父様の書斎。蔵の錠が二つ。厨房の食料棚。馬具部屋。裏の納屋。客間の飾り棚。表門。離れ。
あとは各階の物入れが七つ。
いちばん小さいのが、自室の抽斗の鍵だ。
輪の重さは量ったことがない。
歩くと、腿の同じところに当たる。当たる位置で下げ方が合っているとわかる。
昨夜、それを外した。
今朝もう一度、腰に戻している。
窓の外は白かった。霜だ。畑の縁まで白い。
薪を出すまで、あと八日。
扉が鳴った。
「お嬢様。おはようございます」
「入ってください」
ハンナが紙を胸の高さに持って入ってきた。
「大工の受取でございます」
「お父様は」
「書斎においでです」
「では、わたしが持ってまいります」
「わたくしがお持ちいたしますが」
「今日は、ほかにも申し上げることがありますので」
ハンナが顔を上げた。それから紙を差し出した。
「十六リーヴル。北の納屋の屋根でございます」
「大工の判は入っておりますね」
「昨日のうちに」
折らずに持った。折り目のついた紙は、あとで額のところが読みにくくなる。
「ハンナ。もうひとつお願いがあります」
「うけたまわります」
「金庫を開けます」
「旦那様がお求めでございましたが」
「わたしが開けます。中を数えて、紙に書きます」
「……立会いでございますか」
「お願いできますか」
「かしこまりました」
ハンナが背をわずかに伸ばした。
この人に何かを頼んだのは、思い出せるかぎりではじめてだった。
書斎の扉は開いていた。
お父様は窓のほうを向いて立っていた。
卓の上には何も出ていない。この部屋はいつもそうだ。
「大工の受取をお持ちしました」
「ああ」
「十六リーヴル。北の納屋の屋根です」
「そこへ置け」
「ご署名をいただきます」
お父様が卓に着いた。
抽斗からペンを出すのに少しかかった。どこにあるかを探す手つきだった。
インク壺は乾いていた。わたしが持ってきたものを開けた。
署名は短い。ひと息で終わる長さだ。
書き終えて、砂を振った。振り方は正しかった。
「これで通ります」
「……前は、お前の名で通ったな」
「親方が代替わりしたそうです」
「そうか」
紙を受け取って、乾くまで持っていた。
「お父様」
「なんだ」
「鍵をお返しします」
お父様の目が、卓の上に落ちた。
「金庫のか」
「全部です」
窓の桟が鳴った。風だ。
それが止むまで、お父様は何も言わなかった。
「……いつだ」
「明日の朝に」
「……明日か」
「帳簿もご一緒に置いてまいります」
お父様はまだペンを持っていた。
置く場所を探しているように見えた。
「家のことは、どうする」
「覚書を書きます。今日じゅうに」
「覚書」
「どこに何の掛があるか。給金の日と額。蔵の在庫。冬に要るもの」
「……そんなものがあったのか」
「ありません。ですから、これから書きます」
お父様がペンを置いた。
置いた場所は、結局もとの抽斗ではなかった。
「家の物は」
「置いてまいります」
「持参金は」
「わたしのものです」
言ってから、続けた。
「借りたものは返します」
お父様が顔を上げた。
目が合った。合ったのは何年ぶりか、すぐには出てこなかった。
それから逸れた。
「……もう行け」
「失礼いたします」
扉を閉めた。音を立てないように閉めた。
昨夜のお父様と、同じ閉め方になっていた。
金庫は書斎の隣の小部屋にある。
鍵を差して二回まわす。二回目が固い。
十一年、ずっと固い。
「お嬢様。数え上げは」
「わたしが数えます。ハンナは書いてください」
「わたくしの字でよろしいのですか」
「立会いですから」
銀貨を五枚ずつ重ねた。四つで一列にする。
列が四つと、端が三枚。
「八十三リーヴル」
「八十三」
「それから小銭。十二ソル」
「十二ソル」
硬貨を戻す音で、額はもう一度確かめられる。
数え違えたときは、音のほうが先に合わなくなる。
奥に印章がある。家の判だ。
これは名義そのものだが、押す権限をわたしは持っていない。
十一年、一度も押していない。
「印章がひとつ。奥様の首飾りがひとつ。地代の証書が三枚」
「三枚でございますね」
「日付を書いてください。千百十四年十一月七日」
「……承りましてございます」
書き終えた紙に、二人で名を書いた。
ハンナの字は、思っていたより角が立っていた。
「お嬢様。これは、どなたへお渡しするものでしょう」
「明日、お父様に」
「では、それまでは」
「ハンナが持っていてください」
紙が胸の高さに上がった。
いつもの持ち方だった。
自室に戻って、卓に紙を四枚並べた。
一枚目に掛を書く。
塩屋。薪。油。パン。大工の請負。どこに、いくらの掛が立っているか。
二枚目に人を書く。
名簿と給金の額。日は毎月二日。厨房の子は先月から数に入っている。
三枚目に暦を書く。
薪は十一月の半ば。年の締めは十二月。地代の受けは春と秋。
四枚目には、決まっていないことを書いた。
婚礼の客名簿。ラント家へ回した書面の行方。それから来年の亜麻。
書きながら、昨日思っていたことが違っていたと分かった。
名義を返す、と考えていた。
書き出してみると、返すものが無い。
塩屋の掛はオルグレン家に立っている。わたしの名では立っていない。
薪も油も同じだ。大工の受取に要るのはお父様の署名で、わたしの署名ではない。
給金の袋を分けるのも、名簿を直すのも、紙の裏づけがあってしていたことではない。
わたしが握っていたのは鍵だけだった。
あとは、誰も代わりにやらなかったというだけのことだ。
だから返上は、口で言えば済んでしまう。
——これからは決めません。
それを言って、決めていた中身を書き置く。
手続きは、それで終わりだ。
四枚が埋まった。
上から読み返して、抜けを二つ足した。井戸の浚いと、屋根の雪下ろしの手配。
これを見れば、誰が座っても回る。
冬のあいだは持つ。
——足りている。
そう思えた。
十一年。十九本。百三十二行。
終わるのは、はじめの二つだけだ。
どの紙にも入らない行が、ひとつある。
月の初めの十八リーヴル。
家の掛ではない。人の給金でもない。暦の行事でもない。
書く欄が無いのではなく、引き継ぐ相手がいない。
あれはわたしが引き受けたものだ。
持参金の残りは六百二十四リーヴル。
月に十八を出せば、三十四回で端数の十二が残る。
三十四回。二年と十ヶ月。
そのあとのことは、まだ書けない。
書けないものを四枚目に入れるのは、順序が違う。
ペンを置いた。
字が二重に見える。昨夜から眠っていない。
目を閉じて、十まで数えてから開いた。まだ二重だった。
昼を過ぎて、ミレーユが来た。
「お姉様。お父様が変な顔をしていらしたわ」
「朝にお会いしました」
「何かおっしゃったの?」
「明日、鍵をお返しすると申し上げました」
「鍵?」
「家中の鍵です」
妹は卓の紙を見なかった。腰のほうを見た。
「それ、貸してくださる?」
「重いですよ」
輪を外して渡した。
ミレーユが両手で受けた。受けた瞬間に手首が下がった。
「……本当に重いのね」
「十九本ありますので」
「お姉様、これ毎日つけていらしたの?」
「十一年」
「よく歩けたわね」
妹が輪を指に引っかけて、少しだけ振った。
金物の音が部屋に散った。散り方が、わたしが歩くときと違った。
「ねえ。どれがどれなの」
「申し上げましょうか」
「いいわ。覚えられないもの」
ミレーユが輪を返した。
返すときだけ、両手だった。
「明日、出ていくの?」
「はい」
「どこへ?」
「まだ決めておりません」
「……そうなの」
妹が少し考える顔をした。
「人に訊かれたら、なんて言えばいいの」
「お好きなように」
「困るわ。わたしが困るのよ」
妹はそれ以上訊かなかった。
困る理由を訊いて、それで足りたようだった。
「あのね。襟が仕上がったの」
「生地の残りで作らせたものですね」
「見てくださらないの?」
「夕食の前に伺います」
「約束よ」
扉は開けたまま出ていった。
わたしが閉めた。
夕方、廊下でお母様に会った。
「リディア。客名簿はできて」
「今朝お渡ししました」
「読んでおくわ」
「お母様。明日、鍵をお返しします」
「あなたが持っていたの」
「家中の鍵です。帳簿もご一緒に」
「あなた、どこかへ行くの」
「出てまいります」
「……そう。冬に出るのは寒いでしょうに」
お母様が扇を持ち替えた。
持ち替えて、それから廊下の先を見た。
「ハンナに言っておいてちょうだい。このごろお茶が濃いの」
「伝えます」
お母様が歩いていった。
絨毯で足音が消えるまで、そこに立っていた。
消えてからも、しばらく立っていた。
夜になった。
ハンナが茶を持ってきた。今夜は蝋を替えに来たのではない。
「お嬢様。明日の刻限は」
「朝食のあとに」
「皆様が食堂におられますが」
「そのほうが早いので」
「……かしこまりました」
盆を置いて、ハンナは下がらなかった。
「金庫の紙は、抽斗にしまってございます」
「ありがとうございます」
「鍵は、明日わたくしがお運びいたしましょうか」
「わたしが持っていきます」
「左様でございますか」
間があいた。
廊下のほうで、どこかの物入れが軋んだ。
「お嬢様。お伴いたします」
言い切ってから、ハンナが目を伏せた。
「……いえ。差し出がましいことを申しました」
「ハンナ」
「はい」
「この家には、ハンナが要ります」
ハンナは何も返さなかった。
「明日から、給金の袋を分けるのはハンナです」
「わたくしの字は汚うございます」
「読めれば足ります」
「……そのようにいたします」
ハンナが一度だけ深く頭を下げた。
出ていく音がした。
扉が閉まるのが、いつもより遅かった。
蝋を一本立てた。今夜は一本で足りる。
抽斗を開けて、手帖を出した。
百三十二行。最後の行の下は、まだ空いている。
卓の上で、輪の留め金を起こした。
いちばん小さい鍵を抜く。
抽斗の鍵だ。
これだけは、家の扉を開けない。
留め金を閉じた。
十九本が、十八本になった。
十八。
腰に戻した。
金物が腿に当たる。十一年、この冷たさには慣れなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話は「返すものが無いことに気づく回」です。鍵は物なので渡せます。帳簿も置けます。ですが名義のほうは、そもそも彼女の名でどこにも立っていませんでした。十一年ぶんの権限を返上しようとして、返上すべき紙が一枚も出てこない。書きながら、これは返上ではなく、ただ手を離すだけの話だなと思っていました。
鍵の本数は先に十九本と決めて、あとから内訳を全部並べました。物入れが七つあるので数が合います。ミレーユに一度だけ持たせたのは、重さを地の文で説明したくなかったからです。あの子の手首が下がるところだけ書けば足りると思って、そうしました。書いていて、この姉妹が同じ物に同時に触れたのは、たぶんこれがはじめてだと気づきました。
ハンナに立会いを頼む場面は、書く予定のなかったものです。金庫を数えるなら誰か要るなと思って呼んだら、彼女が背筋を伸ばしてしまいました。十一年、この人は一度も頼まれていなかったので。そのあとの「お伴いたします」は、勝手に出てきて勝手に取り消されました。止められませんでした。
次話、彼女は卓に鍵束を置きます。
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