確認なさらないのですね
三十六回。
月に一度、三年。セドリック様とお会いした回数だ。
数えていたわけではない。数えなくても残る。
今日で三十七回になる。
そのうち、わたしから伺うのは今日がはじめてだ。
書付は二通ある。昨夜のうちに書いた。
同じ文が二枚ずつ。違うのは、名を書く場所が空いていることだけだ。
封はしていない。
読んでいただくものだから。
「お嬢様。馬車を回しました」
ハンナが階段の下で待っていた。
「北へ一刻半でございます。坂はございません」
「日のあるうちに戻ります」
「昼はいかがなさいます」
「向こうで茶をいただきます」
「では、少しだけ」
包みが手に押しつけられた。断る間がなかった。
「お姉様」
階段の上からミレーユの声がした。手すりに顎を載せている。
「今日でしょう。セドリック様」
「ええ」
「わたしもご一緒しましょうか」
「一刻半かかります」
「……道が長いのね」
妹は少し考える顔をした。それから思いついたように身を乗り出した。
「ねえお姉様。日取りのお話もしてくださる?」
「日取り」
「婚約の。早いほうがいいでしょう?」
「それはお父様がなさることです」
「そうよね。でも、お姉様がおっしゃるほうが早いでしょ?」
わたしは書付を持ち直した。
「今日は、解く話だけを持ってまいります」
「解く、って。なんだか大げさな言い方ね」
妹が手すりから離れた。足音が軽い。
その足音が、途中で戻ってきた。
「セドリック様に、わたしがよろしく言っていたと伝えてね」
馬車は荷馬車より速い。
道は北へ向かう。橋を一つ渡って、あとはまっすぐだった。
刈られたあとの畑が続く。土の色ばかりで、目に留まるものがない。
膝の上で包みを開けた。茹でた卵が二つ入っていた。
一つだけ食べて、残りは戻した。
「ラントのお屋敷は久しぶりで」
御者のギーが背中越しに言った。
「わたしもです」
「お嬢さんが伺うのは、はじめてでしょう」
「はじめてです」
「向こうさんはいつも来られますな」
「月に一度」
ギーはそれきり黙った。
橋を渡り終えるあたりで、この人はいつも話をやめる。
道の半ばで、申し上げることを三つに分けた。
書面のことと、品物のことと、ミレーユのこと。
順番も決めた。頭の中で三度、並べ直した。
多くも少なくもないと思った。
門を入ると、匂いが先に来た。
落ち葉を焼いているのではない。煙突からだった。
この家はもう薪を出している。
薪はひと冬で三十リーヴルかかる。
うちは十一月の半ばまで出さない。そう決めたのはわたしだ。
客間に通された。
椅子が四脚。卓が一つ。暖炉に火が入っている。
数え終えてから、椅子に座った。
「リディア嬢」
扉のところでセドリック様が一度足を止めて、それから入ってきた。
「手紙をもらって驚いたよ」
「急なお願いをいたしました」
「いや。……君から手紙をもらったのは、はじめてだった」
その言葉を、頭の中で書き取った。
三年で一度。回数にすると、そういうことになる。
「道は寒かっただろう」
彼は自分の椅子に行かなかった。わたしの椅子の背に手をかけて、火のほうへ少し寄せた。
「これでいい?」
「ありがとうございます」
「茶を頼んである。砂糖は入れないんだったね」
「入れません」
三年のあいだに覚えていただいたことだ。
茶が来た。湯気がまっすぐ上がっている。
わたしは膝の上の書付を卓に置いた。
「これを、お持ちいたしました」
彼は茶に手を伸ばしかけて、止めた。
指が卓の縁で一度だけ動いた。
「婚約を解く書面です。二通ございます」
「……そうか」
「ご了承いただけますでしょうか」
「ミレーユ嬢のことは、伯爵閣下から伺っている」
三日前、わたしから申し上げますと言った。
お父様は頷いた。それから、待たなかった。
「……さようでございましたか」
「僕がお願いした話ではないんだ。それは、言っておきたい」
「存じております」
「秋の茶会で話しただけだ。楽しかった。それだけのことだった」
嘘ではないのだと思った。
この人は嘘をつくほど手数をかけない。
「ああ、そうだね。書けばいいんだね」
セドリック様が書付に手を伸ばした。
端を持って、卓の上で位置をまっすぐに直した。それだけだった。
紙は一度も開かなかった。
「ペンをもらえるかな」
「持ってまいりました」
鞄から羽根ペンと没食子のインクを出した。乾かすための砂も持ってきた。
「用意がいいね」
「書き損じたときのためです」
彼が笑った。感じのいい笑い方だった。
「どこに書けばいい」
わたしは紙の端を指した。
「二枚目の、下の行です」
ペン先が紙に触れた。
茶の湯気が細くなるまでのあいだに、署名は終わった。
「二通目も、同じところに」
「ああ」
二枚目は早かった。
彼はペンを置いて、書付をこちらへ滑らせた。
砂は振らなかった。
「確認なさらないのですね」
言ってから、自分の声の高さを確かめた。
責めたようには聞こえなかったと思う。
セドリック様が紙を見た。ようやく、まっすぐに。
それから顔を上げた。
「君が書いたものだろう」
「はい」
「なら、間違いはないよ」
返事をしなかった。
薪が崩れて、火が低くなった。低いままだった。
開かれなかった紙。まっすぐな署名。振られなかった砂。
茶に口をつけた。もう冷めていた。
「三つ、申し上げておくことがございます」
彼は姿勢を直した。聞く顔になった。聞く顔はできる人だ。
「贈っていただいた品は、お返しいたします」
「そんなことは」
「三年前の耳飾りと、一昨年の手袋です。目録を三枚目に付けました」
三枚目も、まだ開かれていない。
「いいよ。持っていてくれ」
「わたしの分は、こちらで数えましたので」
「……律儀だな」
褒めているのだと、口調でわかった。
「二つ目です。ラント家からの結納の品は、こちらで包んでございます。二十四リーヴルと伺いました」
「そんな話は聞いていないよ」
「三年前に、伯爵家の帳簿へ入れました」
彼は少し驚いた顔をした。
驚くところが、そこなのだと思った。
「三つ目は」
「うん」
「ミレーユのことは、この紙に書いておりません」
セドリック様が顔を上げた。
「別の話ですから。日取りも、お父様同士でお決めください」
「……そうか。そうだね」
「この書面にも、お父様がたの署名が要ります。記録院へ出せるのはそのあとです」
「ああ。父に回しておくよ」
「二通目は、そのままお持ちください」
彼は書付を揃えて、卓の隅へ寄せた。
揃えるとき、紙の角だけを見ていた。
「来月も、伺うつもりでいたんだ」
思い出したような言い方だった。
「毎月の五日に。三年、そうしていたから」
「四日でした」
「……そうだったかな」
「三年、四日でした」
彼が困った顔をした。
困らせるつもりはなかった。ただ、そこは動かない数字だった。
「夕食を出すよ。父ももうすぐ戻る」
「日が落ちますので」
「そうか。……無理は言えないな」
「リディア嬢」
名を呼ばれた。
三年で、この人はわたしの名を呼び捨てにしたことがない。
「君は、これでいいのかい」
火が低い。
三年ぶんを数えた。三十七回。
どの回にも、貸したものがない。借りたものもない。
説明はできる。三十秒あれば足りた。
けれど説明すれば、お父様の名前が出る。
「はい」
「そうか」
彼は二度目を訊かなかった。
立ち上がるとき、思い出した。
「ミレーユから伝言がございます。よろしく言っていた、と」
セドリック様の顔が少し動いた。
嬉しいのを隠せない人だった。
「……ありがとう。伝えておいてくれるかい。こちらこそ、と」
「承ります」
門まで送ってくださった。
「気をつけて。日が落ちるのが早い」
「一刻半で戻ります」
「そうか。……遠かっただろう」
「道は平らでした」
彼が頷いた。それから思い出したように言った。
「父にも見せておくよ」
「お願いいたします」
馬車が門を出た。
振り返ると、セドリック様はまだ立っていた。
こちらが角を曲がるまで、そうしているつもりなのだろう。
感じのいい人だ。
三年、ずっとそうだった。
滞りなく済んだ。
声を荒げた人はいない。泣いた人もいない。
書面は二通そろった。署名も入った。
三年ぶんの貸し借りは、これで差引ゼロになる。
——合っている。
そう思えた。
三十八回目は、たぶんない。
屋敷に戻ったら、帳簿を出さなければならない。
今日のことを書く欄は、どこにもない。
貸方でも借方でもないものが、あの家には多すぎる。
いちど、全部を締めてしまったほうがいい。
膝の上の紙を見た。
名前のところだけ、黒く光っている。
指で触れた。乾いていない。
親指の腹に、墨がついた。
袖で拭いた。
薄く、残った。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話は「紙を開かない持ち方」から作りました。書類を端だけ持って、卓の上で位置をまっすぐ直して、それで扱った気になる持ち方です。会議で何度か見たことがあって、たぶんあれをやる人に悪気は無いんだろうな、とずっと思っていました。今回それをそのまま人にしました。
セドリックには嫌なことを一つも言わせないと決めていました。椅子を火に寄せるところと、門でこちらが角を曲がるまで立っているところは、どちらも書いていて自分でも困りました。いい人なんです。いい人なので、砂を振らないんです。書き終えた紙に砂を振るのは、その紙を大事に扱う最後の一手間なので。
目録の三枚目は、本文で開かれることが最後までありませんでした。書きながら「そこ、開いて」と何度か思いましたが、開いてしまうと話が三話で終わってしまうので黙っていました。作者が一番じれったい思いをした回かもしれません。
次話、リディアは十一年分の帳簿を締めます。
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