百三十二回目
※EP2をEP1として先に公開してしまっておりました。未読の方はEP1もぜひどうぞ
受領証は百三十一枚あった。
抽斗の底で、束は指二本ぶんの厚みになっている。一枚が薄すぎて、増えたことは手では分からない。だから数える。月の初めの朝に、出かける前に。
「お嬢様。荷馬車の支度が整いました」
扉の向こうでハンナの声がした。
「今参ります」
束を戻して鍵をかけた。窓の外はまだ暗い。
廊下に出ると、息が白かった。白くなったのは今朝がはじめてだ。
「お帰りは日暮れまでに」
「二刻で着きます。市を見て、二刻で戻ります」
「塩は」
「二樽。わたしが見てまいります」
「明日は給金日でございます」
「存じております」
ハンナが玄関の戸を開けた。外の冷たさが、先に入ってきた。
それから、包みをひとつ差し出した。
「道々、召し上がってください」
「ありがとうございます」
「朝のうちに、何も召し上がっておられません」
訊いているのではない。
この人も数えているのだと、そのとき思った。
荷馬車は遅い。
道は十一年変わらない。橋を二つ渡って、坂を三つ越える。左手に亜麻の畑が続いて、それが途切れたところでベルヌの屋根が見えてくる。
刈られたあとの畑は、朝のうちだけ白い。霜だ。日が上がれば消える。
「今朝は冷えましたな」
御者のギーが背中越しに言った。この人も十一年、同じ席に座っている。
「霜が降りました」
「畑にゃ早い。亜麻はもう刈っとりますから構いませんが」
「三年続けて落ちています」
「収量で」
「ええ」
ギーは何も言わなかった。手綱を持ち直しただけだった。
この道の途中で、この人はいつも話をやめる。橋を二つ渡り終えるあたりで。
揺れる荷台で、わたしは膝の上の包みを持っていた。開けなかった。帰りに食べると決めていたからだ。
市はもう立っていた。
冬支度の市だ。塩、薪、干した豆、油。荷を下ろす音と、人の声が重なっている。
塩屋の前で足を止めた。
「二樽ください」
「一樽で四リーヴル。今月から上がりました」
「三リーヴル十二に八ソル足して、四リーヴル」
「よくご存じで」
「昨日、屋敷で聞きました」
主人が樽を叩いて数を確かめた。
八リーヴル。硬貨を数えて渡す。荷馬車に積んでもらう手筈をつけた。
「オルグレンのお嬢さん」
豆屋の女が声をかけてきた。
「今月も来なさったね」
「ご無沙汰しております」
「ご無沙汰も何も、先月会うたよ」
女が笑って、笊の豆をひとすくい持ち上げた。
「うちの豆は要らんかね」
「今月は塩だけです」
「毎月そう言いなさる」
「毎月そうなんです」
女がまた笑った。
この人はわたしが来る日を知っている。塩屋も、豆屋も、パン屋も知っている。月の初めに来る娘だと。
屋敷の誰も知らない。
市の外れへ歩いた。
両替商の帳場には看板が出ていない。
ハルヴァ商会の取次だと知っている者だけが、この戸を押す。
「オルグレン家」
マルタンは帳面から顔を上げずに言った。十一年、この人はいつも先に家名を言う。
わたしは布の包みを解いて、硬貨を卓に並べた。
「十八リーヴル」
「十八。たしかに」
指が速い。数え直しはしない。
マルタンが羽根ペンを取って、受領証を書いた。日付、額、家名。それから自分の名。砂を振って、乾かして、こちらへ滑らせる。
「今月分」
「ありがとうございます」
「帳面は月末に本館へ送ります。いつも通りで」
「はい」
受領証を畳んで、懐に入れた。それから訊いた。
「あと何回でしょう」
マルタンが帳面を繰る音がした。
「うちに残っとるのは月々の受けだけです。総額は本館の控えでして」
「そうでしたね」
「毎年お訊きになりますな」
「……いけませんか」
マルタンが少しだけ笑った。詫びるような笑い方だった。
「来月は年の締めです。本館から人が来ますので、少し混みますよ」
「早めに参ります」
「そのほうがよろしい」
紙一枚。三分。十八リーヴル。
それが今月だった。
「市、寄っていかれますか」
帳面を閉じながらマルタンが言った。
「塩は買いました」
「他は」
「他は要りません」
彼は頷いた。それ以上は訊かない。
十一年、この人は一度も訊かなかった。何のための金なのかも、誰の借りなのかも。
訊かれたら、答えられない。
だから助かっている。
帳場を出ると、市の音がまた戻ってきた。
毛織の襟巻きが台に並んでいる。銀の匙が日を返して光っている。焼いた栗の匂いが、どこからか流れてきた。
どれも買える額だった。さっき置いてきた分で。
わたしは前を見て歩いた。
帰りの荷馬車で包みを開けた。パンは冷たくなっていた。それでも一つ残さず食べた。
「毎月、よう続きますな」
ギーが背中越しに言った。
「十一年になります」
「わしもです」
それきり、二人とも黙った。
橋を二つ渡るあいだ、車輪の音だけが続いた。
屋敷に着いたのは日暮れの少し前だった。
「お帰りなさいませ」
勝手口でハンナが待っていた。
「塩は蔵へ入れました。二樽、たしかに」
「ありがとうございます」
「明日の給金は、袋に分けてございます」
「名簿と突き合わせます。夕食のあとに」
「お先に召し上がってくださいませ」
「先に済ませます。そのほうが早い」
ハンナが何か言おうとして、荷を持ち直した。
階段の下でお父様と行き合った。
「どこへ行っていた」
「ベルヌです」
「こんな時刻まで」
「市が立っておりました。塩を二樽」
お父様が頷いた。それで終わりだった。
行き先は訊かれた。
用向きは訊かれなかった。
二階に上がって、抽斗を開けて、手帖を出した。
頁をめくる。数字が縦に並んでいる。日付と、額と、立会人の名。百三十一行。
最後の行の下に、今日の日付を書いた。
十八リーヴル。
立会人、マルタン。
それから、行の頭に番号を振る。
「百三十二」
声に出して確かめた。誰もいない部屋でそうするのは、癖のようなものだった。
「……ええ。合っております」
ペンを置いて、指の関節を揉んだ。
——数えたものは、なかったことにしません。
百三十二行。
あと何行あるのかは、まだ知らない。
階下で鋏の音がした。
仕立て屋が来ている。足音が二つぶん。それから階段を上がってくる音。
「お姉様、見て。生地が届いたの」
返事をする前に扉が開いた。ミレーユが布を胸に当てている。淡い青だった。冬の生地にしては薄い。
「きれいでしょう?」
「お似合いです」
「二十二リーヴルですって。お父様が出してくださるの」
わたしは頷いた。
二十二リーヴル。
今日わたしが置いてきたのは、十八だった。
「お姉様は、何かお買いになったの?」
「塩を」
「塩?」
「二樽」
ミレーユが笑った。
「変なお姉様」
妹は布を光に透かして、色の出方を確かめている。仕立て屋に教わったのだろう。手つきだけは一人前だった。
「セドリック様には、もうお話ししたの?」
「明後日、お会いします」
「わたしから言いましょうか」
「いえ」
「どうして?」
「わたしが決めたことですから」
ミレーユが布から目を上げた。
「……ふうん」
それから、思い出したように言った。
「お姉様のドレスも、ついでに見てもらう? 仕立て屋、まだ下にいるわ」
「いえ。今のもので足ります」
「三年目でしょう」
「四年目です」
「あら。昨日もそう言われた気がするわ」
布を持ったまま出ていく足音は軽かった。扉が閉まって、鋏の音だけがまた階下から上がってくる。
便箋を一枚引き寄せた。
セドリック様に、お会いする日を決めなければならない。
書いたのは一行だけだった。
明後日の午後、お時間をいただけますか。
「ハンナ」
扉の外に声をかけた。すぐに足音が来る。
「これを、ラント家へ」
「明日の朝でよろしいですか」
「今夜のうちに」
「かしこまりました」
封をして渡した。
ハンナは受け取って、一度だけ表を見た。それから頭を下げて出ていった。
抽斗から受領証の束を出した。
百三十一枚の上に、百三十二枚目を載せる。
指二本ぶん。
朝と、同じ厚みだった。
※EP2をEP1として公開してしまっておりましたため、差し替えしております
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話は「三分」を書きたくて作りました。窓口で硬貨を数えて、紙を一枚もらって、終わり。それだけのために片道二刻の道を十一年通っている人の話です。書いていて、手続きが早く終わるほど嫌な気持ちになりました。たぶんそれで合っています。
両替商のマルタンは、名前だけ先に決まっていた人物です。何のための金かを十一年訊かない人を出したかった。訊かない優しさと、訊かない無関心の区別がつかないまま書いたので、彼が親切なのかどうかは自分でもよく分かっていません。
市で襟巻きと銀の匙を並べた場面は、最初は無かったものです。書き終えてから戻って足しました。買えたはずのものを並べておかないと、置いてきた額の大きさが出ないと思ったので。焼いた栗は、書いている時間が夕方で、単純に自分が食べたかっただけです。
次話、リディアは婚約者に会いに行きます。
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