お姉様は金遣いが荒いから
「お姉様は金遣いが荒いから」
ミレーユがそう言ったとき、わたしは燭台の蝋を数えていた。
三本。昨日と同じだ。
「婚約なんて向いてないでしょ?」
朝の食堂は寒い。暖炉にまだ火は入っていない。この家では十一月の半ばまで薪を出さない。そう決めたのはわたしだった。
窓の外に亜麻の畑が見える。刈り取りは先週終わった。刈られたあとの土は、何も書かれていない紙に似ている。
「ミレーユ」
お母様が名を呼んだ。窘める声だった。力はなかった。
妹は気にしない。
「だってお父様。去年の秋にお姉様が使ったお金、覚えていらして?」
「……いや」
「毎月きちんと出ていくのよ。決まった日に、決まった額」
「そうなのか」
「何に使っているのか誰も知らないの。おかしいでしょう?」
わたしは燭台から目を上げなかった。
説明はできる。三十秒あれば足りた。
けれど説明すれば、お父様の名前が出る。
「お姉様。何に使っていらっしゃるの」
妹がこちらを見ていた。悪気はない。この子にはいつも悪気がない。
「家のことです」
「それはわたしにもわかるわ」
「では、それで」
ミレーユが小さく息をついた。
「ほらね。いつもそう。お姉様は何もおっしゃらないのよ」
言わないのではない。
言えないのだと、この子はたぶん一生知らない。
「セドリック様はわたしと年も近いし」
妹の声が明るくなった。話題を変えるのが早い。
「先月の茶会でも、ずっとわたしとお話ししてくださったの。お姉様はあの日いらっしゃらなかったでしょう」
「ええ」
「どうして?」
「帳簿の締めでしたので」
ミレーユが目を丸くした。
「茶会より帳簿なの?」
「月末でしたから」
「変なお姉様」
妹は笑った。声に棘はない。だから始末が悪い。
「ね、お姉様。お譲りになって」
譲る。
その言葉を頭の中で書き取った。貸方でもない。借方でもない。どちらにも計上できない語だった。
お父様が咳払いをした。
「リディア」
「はい」
「ミレーユの言うことにも一理ある」
わたしは頷いた。
「お前ももう二十二だ」
「存じております」
「セドリック殿は……その、ミレーユとのほうが話が合うようだ」
窓の外で鴉が一羽、土に降りた。
誰から聞いたのだろう。
セドリック様とわたしは月に一度お会いする。話が合うかどうかを確かめられるほど、言葉を交わした記憶がない。
「セドリック様は、なんと」
「まだ話しておらん」
「では、わたしから申し上げます」
お父様の手が止まった。
「……いいのか」
「よろしいのですね?」
「いや、その」
「では、そのように」
お母様が紅茶に口をつけた。冷めているはずだ。わたしが席に着く前から、そこにある。
誰も淹れ直させない。この家でそれは長女の仕事だった。
「今年の亜麻は」
お父様が言いかけた。
そのまま止まった。
「……いや、いい」
「収量でしたら、昨年より二割落ちております」
「そうか」
「三年続けてです」
答えはなかった。
誰も何も言わない。窓の外で、鴉が土をつつく音だけが残った。
この家では、数字を出すと会話が終わる。
十一年かけて覚えたことのひとつだった。
「リディア。あなたの持参金はまだ残っているのでしょう」
「残っております」
「それなら心配はないわね。ミレーユ、仕立て屋はいつ呼ぶの」
お母様はそれ以上訊かなかった。
訊かれたのは残っているかどうかで、いくら残っているかではない。
残高は六百四十二リーヴル。はじめは三千あった。
お母様はどちらの数も知らない。
「お前は家のことをよくやってくれている」
そう言って、そこで言葉が切れた。
続きがあるのだと思った。
なかった。
わたしは息を吸った。
「わかりました」
三人が同時にこちらを見た。
ミレーユの口が少し開いていた。もっと何か言われると思っていたのかもしれない。
「え……いいの?」
「ええ」
「本当に?」
「二度は申しません」
妹が笑った。
「やっぱりお姉様は物分かりがいいわ」
物分かり。
それも、どちらにも計上できない語だった。
「お姉様」
立ち上がりかけたわたしを、ミレーユが呼び止めた。
「怒らないの?」
少し考えた。
「怒って、帳尻が合いますか」
妹は答えなかった。
答えを求めた問いではなかったのだと、そのとき気づいた。
廊下に出ると、侍女頭のハンナが待っていた。手に紙を持っている。
「お嬢様。塩が明日から上がるそうです」
「いくら」
「一樽で四リーヴルになると」
「これまでは三リーヴル十二でしたね」
「よく覚えていらっしゃいます」
覚えているのではない。
数字は勝手に残る。忘れようとしても残る。
「二樽で止めてください。冬に入ればまた上がります」
「かしこまりました」
「薪は」
「まだでございますか」
「十一月の半ばに」
「……お嬢様のお部屋も、でしょうか」
「同じです」
ハンナが何か言いかけて、やめた。
この人はときどきそうする。十一年、ずっとそうだ。
「給金は明後日です。名簿は昨日のうちに直しました」
「厨房の子が増えましたが」
「あの子の分も入れてあります」
「もうひとつ、ございます」
ハンナが声を落とした。
「旦那様が、金庫の鍵をお求めでした」
「いつ」
「一昨日でございます」
「お渡ししましたか」
「お嬢様にお伺いを立てると申し上げました」
「それでよろしいです」
お父様が金庫を開けたがるのは、決まって金の話があるときだ。
十一年、それだけは変わらない。
「旦那様は、なんと」
「何も。そのままお戻りになりました」
ハンナが少しだけこちらを見た。
「……お嬢様」
「はい」
「よくお休みくださいませ」
わたしは頷いた。
それが返事になっているのかは、自分でもわからなかった。
腰の鍵束が歩くたびに鳴る。
家中の扉が全部ここにある。金庫も、酒蔵も、お父様の書斎も。
十一年、一度も外したことがない。
自室に戻って、抽斗の鍵を開けた。
帳簿は三冊ある。日記帳と、仕訳帳と、元帳。
お父様はどれも開いたことがない。お母様もだ。ミレーユは帳簿が三冊に分かれていることを、たぶん知らない。
十月分の勘定を締める。
羽根ペンの先を整えて、没食子のインクに浸した。書き損じても消せない。訂正は二重線を引いて、横に自分の名を書き添える。だから間違えられない。
項目を上から落としていく。
薪代と塩と蝋。使用人の給金。ミレーユの新しいドレスの仕立て代が二十二リーヴル。
最後の一行だけ、名前を書かない。
十八リーヴル。
月の初めに出ていく金だ。
書き終えて、手が止まった。
ペン先にインクが溜まって、紙に一滴落ちる。
二重線を引いて、横に自分の名を書き添えた。
差引を書いた。
合っている。
ペンを置いて、指の関節を揉んだ。右手の中指に硬いものができている。十一歳の冬からずっとある。
窓の外はもう暗い。畑は見えない。
部屋には蝋の匂いだけが残っていた。
扉が鳴った。
「お姉様、まだ起きてる?」
返事をする前に開いた。ミレーユは昔からそうだ。
「明日、仕立て屋を呼ぶの。付き合ってくださる?」
「明日は用がありますので」
「何の用?」
「ベルヌへ」
「ベルヌ? 何をしに」
わたしは帳簿を閉じた。
「月の初めですから」
「……よくわからないわ」
妹が部屋を見回した。目が止まる。
「お姉様のドレス、それでもう三年目でしょう」
「四年目です」
「どうして新しくなさらないの。持参金、残っているのでしょう?」
残っている。六百四十二リーヴル。
明日には六百二十四になる。
「必要がありませんので」
「変なの」
ミレーユは笑って、扉を閉めた。
足音が遠ざかっていく。
わたしは机の上の帳簿に手を置いた。
——今月も、無事に納めた。
そう思えた。
思えることが、たぶんわたしの持っているもののすべてだった。
明日から十一月だ。
朔日。市の立つ日。いつもの道を歩く日。
——わかりました。
今朝わたしが最初に口にした言葉は、それだった。
拒む言葉ではない。十一年、いつもそうだった。
燭台に目をやった。
朝に三本あった蝋は、まだ三本ある。
どれも同じだけ短くなっていた。
※EP2をEP1として先に公開してしまっておりましたので内容を差し替えしております。EP1を未読の方は、ひとつお戻りくださいませ
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
リディアの右手の中指にあるペンだこは、この子を作っているとき一番最初に決まったものでした。顔立ちよりも先に指の硬さが決まったキャラクターは、自分でも初めてです。
この家の暖炉に十一月半ばまで火が入らないのは、薪代を抑えるためにリディアが決めた規則です。本文では理由を書きませんでした。書かなくても、彼女ならそうするだろうと思ったので。
「怒って、帳尻が合いますか」という台詞は、書くつもりのなかったものでした。ミレーユに「怒らないの?」と言わせた瞬間に勝手に出てきてしまって、この子はこういう返し方をするのかと少し驚いています。手が止まったのはそこだけでした。
侍女頭のハンナは、当初いない予定の人物でした。廊下を歩かせたら勝手に立っていたので、そのまま書きました。彼女が言いかけてやめた言葉が何なのかは、まだ決めていません。たぶん最後まで言わせないと思います。言わなかった人がひとりいるほうが、この話には正しい気がして。
タイトルの「百三十二回」が何なのかは、次話でわかります。
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