買うか、買わないか
ボーヴェ商会から、二通目が届いた。
昨日は三行だった。今朝は七行になっている。文面は丁寧だが、行が増えた分だけ踏み込んでいた。「オルグレン伯爵家の掛けの引き受けにつき、弊商会にて然るべきご相談に応じる用意がございます」——数字は一つも書かれていない。然るべく、の三字が数字の代わりに座っていた。
四月十六日。裁定日まで、十二日。
朝の帳場で番頭に見せた。ボーヴェだけではなかった。仲買を専らにする商会からも一通、昨夜の窓口に直接来た者の名が受けに残されていた。
「増えておりますね」
番頭は束を棚に戻しながら言った。
「裁定日が定まりますと、値が先に動き出します。掛けを持っている先が、自分で取り立てるより他人に渡したほうが早いと判断すれば、話が来ます」
「薪屋や大工も、手放す可能性があるのですね」
「裁定を待たずに手元に入るのでしたら、悪い話ではございません」
番頭はそれ以上言わなかった。この人は、訊かれていないことを言わない。
目録を開いた。百十四の小計を指で辿りながら、昨夜から残っている問いを繰り返した。
まとめられる者が、この建物の四階にいる。
その人に頼むのか。頼まないのか。一晩経っても、答えを出していなかった。
午後、番頭に声をかけられた。
「四階からお呼びでございます」
帳面を閉じて立ち上がった。階段を上がる。二十二段と十一段と五段。合わせて三十八。足は一つも迷わなかった。この数だけは、もう数え損なわない。
会頭室に入るのは三度目だった。
一度目は正体を明かされた日。二度目は裁定院へ行く朝。三度目の今日、卓の上に証文も帳面も無かった。代わりに、封を切った手紙が二通、端を揃えて置かれていた。
会頭は窓際に立っていた。左手が窓枠に添えてある。わたしが入ると、枠から手を離して卓のほうへ歩いた。
「座ってください」
椅子は二脚。向かい合わせに座った。
「ボーヴェの手紙は、ご覧になりましたか」
「今朝、帳場で拝見いたしました」
「うちにも来ています。こちらは宛先が会頭名です」
卓の手紙に目を落とした。文面は帳場に届いたものと変わらなかった。ただ宛先が「ジェレド・ハルヴァ殿」になっている。
「仲買からも一通、今朝の窓口にも一人。帳場と合わせますと、二日で七つの問い合わせが来ております」
七つ。昨日の三つと合わせた数を、もう頭の中で出していた。同じ数だった。
「掛けに買い手がつく前に、お話ししたいことがあります」
会頭の声はいつもの商談の声だった。高くも低くもなく、要点だけを先に置く。
卓の二通から、視線がわたしのほうへ移った。呼吸ひとつ分だけ、止まった。
「うちでも、買えます」
うちでも、買えます。
主語は「うち」だった。この人は私事になると主語を商会にすり替える。
「ハルヴァ商会が、掛けをお買いになるということでしょうか」
「はい。百十四リーヴルです。目録の小計が正しければ。額面で買い取りますので、掛けの先——薪屋も大工も仕立て屋も——は全額を受け取れます」
百十四。二月には八十だった掛けが、利と修繕と食料の推計を加えて百十四に膨れている。その数字を、この人は目録を見ずに出した。帳場の目録を検めたか、番頭から聞いたか。どちらにしても、数を違えない人だった。
「ボーヴェが先に買えば、ボーヴェが裁定で向き合います。仲買が買えば、仲買が向き合います。うちが買えば——」
「会頭が向き合われます」
「はい」
間が一つ落ちた。
会頭の左手が、卓の縁に移っていた。指が一本ずつ、木目のほうへ軽く置かれている。
「会頭。それは商会のご方針としてお決めになるのでしょうか」
訊いた。この人がどちらの主語で答えるかを、知りたかった。
一拍だけ、止まった。
「——いいえ。これは商会の方針ではありません」
声が変わった。静かなまま、奥のほうが少しだけ深くなった。
「私に決める権限はあります。ですが、私は決めません」
「うち」が消えた。「私」が二度出た。
「リディアさん。決めるのは、あなたです」
数字が、一瞬だけ消えた。百十四も二百六十八も、頭のなかから音もなく退いた。
決めるのは、あなたです。
十一年の手帖に、その言葉を受け取った行は一つもなかった。
婚約者を譲れと言われた。帳簿を締めろとは誰にも言われず、自分で背負った。家を出たのも自分で決めた。だがそれは、「あなたが決めてよい」と場所を渡されて決めたのではなかった。決める場所が、ほかに無かっただけだった。
今、この人は場所を渡している。
「わたしが、ですか」
「あなたの家の掛けです。あなたが目録を作っています。妹君の嫁入りもかかっています」
妹君。その一語に、指先のペンだこが疼いた。
「買うか買わないかを、目録を作っていない者が決めるべきではありません」
その言い方は、この人の信念だった。帳簿に嘘はつかせない。帳簿を作った者の判断を、外から上書きしない。
「ボーヴェが買った場合と、ハルヴァ商会がお買いになった場合で、家への影響は変わりますか」
「額面は変わりません。取り立ての方針が——」
会頭はそこで短い間を置いた。
「うちは、取り立てません。これまでも、そうでした」
取り立てない。六年、証文を凍結したまま動かさなかった手が、取り立てないと言っている。その六年のあいだ、わたしは七十二回の十八リーヴルを出し続けていた。取り立てなかったのは会頭の判断だった。だがその判断が、わたしの七十二回を止めることはなかった。
「ボーヴェは」
「ボーヴェは取り立てます。額面どおりに。仲買も同じです。それが掛けの売買というものです」
「取り立てないのであれば、裁定の場で何をなさるのですか」
「百十四を家の帳面のなかで返す道を作ってもらいます。潰すための金ではありません」
「道を作る、とは」
「薪を運んだ人と、屋根を直した人と、パンを焼いた人への借りです。返す計画を立ててもらい、それを待ちます」
待ちます。一語が静かに落ちた。
「六年、待ちました。同じことです」
同じこと。六年、凍結したまま証文を動かさなかった。取り立てもせず、返金もせず。それを再びやると言っている。ただし今度は、証文ではなく家の全部の掛けを抱えて。
窓の外に、四月の陽が高く射していた。冬の低い光ではなかった。砂の乾きが早い季節になっていた。
わたしはこの商会の帳場にいる。
元帳も控えも、毎日この目で検めている。掛けの買い取りが帳面に載れば、その動きも検められる。帳面に載ったものは数えられる。数えられるものは嘘をつかない。
ボーヴェの帳面はわたしには見えない。仲買の帳面も見えない。だがこの商会の帳面なら、見える。数字が合っているかどうかを、わたしが確かめられる。
それを信じるというのかは、わからなかった。だが数えられるということなら、わかった。
「会頭」
「はい」
「買ってください」
短い間があった。
「よろしいのですか」
「わたしが決めろとおっしゃったのは、会頭です」
会頭の左手が、一瞬だけ止まった。卓の木目に置かれた指が、わずかに白くなった。
「……わかりました」
声は静かだった。「そういうことになっています」でも「うちとしては」でもなく、はっきりと「わかりました」だった。
階段を降りた。三十八段。足は一度も迷わなかった。
帳場に戻ると、番頭が検めの席にいた。顔を上げずに言った。
「お戻りでございますか」
「はい。番頭さん。ハルヴァ商会で、オルグレン家の掛けを買い取ることになりました」
番頭の指が帳面の上で一拍止まった。
「……承知いたしました」
驚いた顔はしなかった。ただ指が止まった。わたしが決めたということを、この人なりに受け取ったのだと思った。
「額面の百十四リーヴルです。五軒への通知をお願いいたします」
「手配いたします」
番頭は帳面に戻った。わたしも机に戻った。
夕方、目録を閉じた。
二百六十八のうち、百十四は道が見えた。残りの百五十四——給金の未払い——は、ハンナの手紙が戻らなければ正確な数が出ない。出したのは昨日。戻るまで、あと七日。
手帖を開いた。百四十九行目——四月十三日——のあと、白い隙間がある。何も書いていなかった。
四月十六日、と書いた。金額は書かなかった。番号も振らなかった。
日付の横に、はじめて「買」と小さく一字だけ添えた。入りでも出でもない。わたしの払いでもない。だが帳面のどこにも載せないままにはできなかった。百三十六回の行には、すべて金額があった。それ以降は日付だけの行が続いている。だが「買」の一字を添えた行は、これが初めてだった。
誰かがわたしの代わりに決めたのではなく、わたしが決めた。その一字だった。
窓の外が暮れていく。商会街の灯りが一つずつ点いていく。
あの灯りの向こうに、妹がいる。あの家にまだいる。覚書の四枚は読まれなかった。掛けの百十四はこれから一つの手に揃う。だが給金のほうは家の内の話だった。屋敷の帳面を開かなければ出ない数字であり、買い手がつく種の借りではなかった。
裁定日まで、十二日。
その前に、もう一通、書かなければならない手紙があった。
ミレーユに宛てた手紙を、わたしはまだ一度も書いていなかった。何を書けばいいのか、まだ手帖の数字では測れなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回のタイトル「買うか、買わないか」は、一見すると商談の話に見えますが、書きたかったのは「決めてよいと言われること」の重みでした。リディアは十一年間、誰にも頼まれずに自分で背負い、自分で手放してきました。けれどそれは「決めてよい」と場所を渡されたのではなく、決める場所がほかに無かっただけでした。
ジェレドが「決めるのはあなたです」と言ったとき、彼女の手帖にはその言葉を受け取った行がまだ一つもありません。数字で世界を測る人が、数字では測れないものを受け取った日でした。
散った掛けが一つの手に揃ったことで、次はもう一つの問題——給金の未払い——に向き合うことになります。次話「ミレーユの帳尻」で、妹が初めて自分の手で数え始めます。
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