王都金融の目
朝の帳場の受けに、手紙が六通並んでいた。
出したのは三通だった。掛けの先に宛てた問い合わせの返りを待っていた。残りの三通は、こちらから名乗った覚えのない相手のものだった。
四月十五日。裁定日まで、十三日。
窓から入る光が、もう冬のものではなかった。四月の陽は高く、帳場の机に影を落とさない。インクの乾きが早い。砂の減りが冬の半分になっていた。
出した三通の返りから、先に開いた。
薪屋のうちの一軒。十四リーヴルの掛けに、二月からの利を二リーヴル付けて十六とする通知。想定の範囲だった。
大工。元の二十八に屋根の修繕七リーヴルを加えた三十五の請求。修繕はハンナが手配したのだろう。鍵を置いた翌月にも、屋根は漏るのだ。
仕立て屋。十二リーヴルのまま利はつけない。ただし月末を過ぎれば別の相談をする、と一行あった。裁定院の控えの間で声を尖らせていた男の筆だった。
三通は想定の中に収まっていた。利が乗り、修繕が足されるのは、二ヶ月放置された帳面の当然の帰結だった。
問題は、残りの三通だった。
一通目。封蝋の紋は、商会街の北のほうで見かける意匠だった。封を切るとき、指先が少しだけ強張った。知らない相手からの手紙は、数字ではなく名前で来る。
番頭に見せた。
「ボーヴェ商会でございます」
為替と手形を扱う王都の商会のうち、ハルヴァの次に帳面が厚いと言われている名だった。
封を切った。紙は一枚、三行。
「オルグレン伯爵家に関する裁定院記録の件につき、貴商会のお立場を伺いたく存じます」
お立場。わたしの家ではなく、ハルヴァ商会の立場を訊いている。
二通目。差出人に見覚えがあった。ベルヌの両替商マルタン。
はじめて十八リーヴルを預けたとき、窓口の向こう側にいた人の名だった。あの頃の取次だった。その後、窓口に立つ人は何度か替わった。だがマルタンの名は、最初の受領証と一緒に手帖に残っている。
「裁定院の記録が出たと承ります。オルグレン家の掛けについて、何かお知らせがあればお教えください」
一行。両替商の手紙は短い。数字で済むものに言葉を足さない人たちだった。
三通目も、両替商だった。王都の加盟者名簿に載る名だった。訊いていることはマルタンと変わらない。
裁定院の記録。オルグレン家。掛け。
三つの言葉が、三通に共通していた。
「番頭さん。これは今日だけのことでしょうか」
午前の検めを終えた番頭に訊いた。
「昨日も二通、来ております。窓口に直接お見えになった方も一人」
「昨日から」
「はい。裁定院の記録について、と。お答えはいたしておりません。口座にかかわる事柄でございますので」
口座の秘匿。商会は口座の話を外へは出さない。二月にお父様が来たとき、番頭が引いた線と同じだった。
「裁定院の記録は月末にまとめて組合に回ります。ですが——」
番頭は帳面に目を落としたまま続けた。
「事実だけは、先に動いております。証文が無効になったということだけが、二日で回ったようでございます」
二日。裁定院を出たのが四月十三日。翌日にはもう動いていた。
月の初めに十八リーヴルを窓口まで運ぶのに半日かかった。あの十八リーヴルの行方が家族に知れるまでに十一年かかった。数字は十一年動かなかった。噂は、二日で動いた。
控えの間で仕立て屋の男がわたしの家の名を口にした。両替商組合の徽章をつけた男が書記官と話していた。あの場にいた者たちから始まったのだろう。
六年、誰にも見られなかった一行が扉を開けた。開けたのはわたしたちだった。そして開いた扉は、もう閉まらない。
番頭は帳面に戻った。わたしも机に戻った。手紙の六通を、日付順に並べ直した。こちらから出した三通は想定の中に収まる数字を運んできた。向こうから来た三通は、数字ではなく名前を運んできた。
名前のほうが、重かった。
午後、机に戻った。
目録の数字を、朝の返りで書き直した。
薪屋三軒。十六と、推計十六と、十二。合わせて四十四。大工、三十五。仕立て屋、十二。食料と修繕は返りがまだない。覚書の実績から推計して二十三。
掛けの小計、百十四。
二月の八十から三十四増えた。利と修繕と、あの覚書に書いたまま読まれなかった食料の掛けが、その三十四を作っていた。
ここに給金の未払いが乗る。
覚書の二枚目に、わたしは名簿と給金の月額を残しておいた。二十二人の名前と、それぞれの額。厨の五人、庭番の三人、馬丁の二人、掃除の四人、洗濯の三人、仕立ての二人、お母様の侍女が二人、ハンナ。合計は月に七十八リーヴル。
あの四枚は読まれなかった。だが書いたものは消えない。名前は今でも順番どおりに出てくる。書いたのは一度きりだったが、十一年のあいだに何度も検めた。十一年の最後の日に引き継いだ名簿は、もう二十一人が欠けている。
ハンナだけが残っている。二十一人が去った。去った者には、去るまでの給金を渡したのか。お母様に訊いたとき、返ってきたのは「知らないわ」の一言だけだった。
去るまでの未払いが、どれだけあるか。
正確には、屋敷の帳面を見なければ出ない。往復に八日。裁定日まで十三日のうち八日を移動に費やせば、残りは五日になる。五日では目録を仕上げる時間が足りない。
推計で出すしかなかった。
十二月の締めが行われなかった以上、少なくとも十二月以降は未払いだったと仮定する。去った時期を分散させて——指が動いた。ペンだこの下で紙の繊維がかすかに引っかかった。
推計、百五十四。ハンナの五ヶ月ぶんの六十を含む。
掛けの百十四に足すと——。
二百六十八。
指が止まった。
二月に見た百二十は、掛けに利と給金の概算を足しただけの数字だった。それが三倍を超えた。膨れたのではない。見えていなかったものが見えただけだった。掛けの利が育ち、修繕が足され、給金の推計をきちんと置いたら、百二十の下に百四十八が隠れていた。
わたしがあの家にいたあいだ、これは毎月、手のひらの中で閉じていた。覚書に書いた。鍵を置いた。
読まれなかった。
証文の千八百は消えた。だが二百六十八は消えない。確認書の一枚で消えるような紙ではなく、薪を運んだ人と屋根を直した人とパンを焼いた人に渡すべき金だった。
目録の隅に「推」と小さく書いた。推計を含む印だった。正確でない数字を帳面に載せるのは、十一年で初めてのことだった。
ハンナに手紙を書くことにした。帳面の中身——十二月以降の給金の支払い記録と、去った使用人の日取りが要る。四日で届き、四日で戻る。八日。屋敷へ行くのと日数は変わらない。だが手紙なら、戻りを待つあいだも帳場で目録を進められる。
夕方、番頭が降りてきた。
検めの帰りだった。束を脇に抱えたまま、帳場の入り口で足を止めた。
「オルグレンさん。一つ、申し上げておきます」
「はい」
「掛けが散っておりますね。先がばらばらでございます」
「五つの相手に分かれております」
「分かれている掛けは、買われることがございます」
指が帳面の上で止まった。
「買われる」
「掛けの主が自分では回収が難しいと判断したとき、額面より安く手放すのです。七割で売れば三割は損ですが、何も戻らないよりはよい。買った側は額面で取り立てます」
制度としては知っていた。商会の帳面にも掛けの売買を記した頁はある。だが自分の家の掛けについて聞くのは初めてだった。
「期日のある掛けには、買い手がつきやすうございます」
「裁定日が期日になるのですね」
「はい。四月二十八日が近づくほど、値が定まります。散った掛けをまとめて一つの手に揃えれば、裁定の場で家に向き合うのは一人で済みます」
一つの手。
散った薪屋と大工と仕立て屋の掛けが、誰かの一つの手に揃う。
「買われた掛けは、取り立てが厳しくなるのでしょうか」
「額面で買っておりますので、額面を求めます。厳しくはなりません。ただ、相手が一人に変わります」
「薪屋が三軒、大工が一軒、仕立て屋が一軒。五つの相手が一つになる」
「はい。五通の手紙が、一通で済むようになります」
番頭らしい言い方だった。数字に直して返す。
「買う側は、どのような者でしょうか」
番頭は束を棚に戻しながら、振り返らずに答えた。
「金のある者でございます」
それ以上は言わなかった。この人は訊かれていないことを言わない。
帳場に一人、残った。
目録を閉じた。
二百六十八。推計を含む。屋敷の帳面を開かなければ正確な数は出ない。だが今は推計で進むしかなかった。
今朝の手紙は六通。窓口に来た者が一人。明日はもう少し増えるだろう。月末に裁定院の記録が組合へ正式に回れば、もっと。
散った掛けには、買い手がつく。
ボーヴェ商会の手紙が引っかかっていた。あの三行はハルヴァ商会の立場を訊いている。ハルヴァが動くか動かないかを見ている。
動けば——この商会が散った掛けを買えば——家のすべての負債が一つの手に揃う。
存在しない借りを十一年返し続けたわたしが、存在する借りの目録を作っている。
会頭の左手が浮かんだ。霜焼けの痕が残る甲。六年、証文を凍らせたまま動かなかった手だった。あの手が家の掛けを握ったら、何をするのだろう。
何もしないのかもしれない。また待つのかもしれない。
振り払った。
手帖を開いた。百四十九行目——四月十三日のあとに白い隙間がある。今日は何も書かなかった。二百六十八は目録に書いた。手帖には書かなかった。あの数字はわたしの払いではない。
窓の外が暗くなっていた。商会街の灯りが一つずつ点いていく。
あの灯りの向こうのどこかで、帳面を開いている者がいる。その帳面のどこかに、わたしの家の名前が書かれている。
散った掛けには買い手がつく。買い手がつく前に目録を仕上げなければならなかった。だが仕上げても、掛けは散ったままだ。まとめる者がいなければ、散ったまま裁定に臨むことになる。
まとめられる者が、この建物の四階にいる。
裁定日まで、十三日。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は「目録を作る話」であり、同時に「目録を見られる話」でした。リディアは帳場の机で黙々と数字を積み上げていますが、その傍らで、王都の金融街が彼女の家の名前を値踏みし始めています。
証文が消えたことで千八百リーヴルの一行は目録から外せました。しかしその代わりに見えてきたのは、薪を運んだ人、屋根を直した人、パンを焼いた人——実際に働いた人たちへの未払いです。存在しない借りを返し続けた十一年と、存在する借りを返せなくなった今。この対比が、第三アークの底を流れるものになっていきます。
番頭が最後に教えてくれた「散った掛けは買われる」という一言。散った掛けがまとまるということは、家の命運が一人の手に握られるということです。その一人が誰になるのか——次話「買うか、買わないか」で、ジェレドがリディアに問います。
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