ミレーユの帳尻
裁ち紙が一枚、昨夜から減らない。
ハンナへの手紙はすぐ書けた。帳面のどの数字が要るか、去った者の日の記録をどこまで遡るか。訊くことが数字なら、ペンは迷わない。
ミレーユに宛てる一通だけが、白いままだった。
四月十七日。裁定日まで、十一日。
宛名は書けた。ミレーユ・オルグレン。妹の名は出る。その先が出ない。
二百六十八リーヴル。そのうち百十四は昨日ハルヴァ商会が額面で買い取った。残りの百五十四は使用人の給金の未払い分で、正確な数は屋敷の帳面を見なければ出ない。ハンナへの手紙は一昨日出した。戻りまであと六日。
数字なら書ける。百十四と書ける。百五十四の推計も書ける。裁定日が四月二十八日であることも書ける。だがそれを妹に宛てて並べるだけの手紙を、わたしは書きたいのだろうか。
鍵束を渡した朝のことが浮かんだ。ミレーユの手首が下がった。両手で受けて、重い、とも軽い、とも言わなかった。あの手に何を書けばよいのか、まだ量れなかった。
ペンを置いた。
「オルグレンさん。お客様でございます」
番頭の声だった。顔を上げる。
「オルグレン家の方だと」
同じ言い方を、二月にも聞いた。あのときは妹がはじめてこの商会を訪ねた日だった。
「お一人ですか」
「お一人でございます」
立ち上がり、廊下を抜けて奥の小部屋に向かった。
戸を開けた。窓から入る四月の光が、小部屋の板張りを白く照らしていた。
ミレーユが立っていた。
旅の装いだった。二月の薄い青のドレスではない。袖と裾に泥の跳ねた地味な外套。乗合馬車を四日乗ってきた裾だった。
「お姉様」
声はあの頃と同じ高さだったが、わずかに掠れていた。
「座って」
卓を挟んで向かい合った。二月と同じ配置だった。窓から射す光の角度だけが変わっている。二月は冬の低い光だった。今日は高い。影が短い。
番頭が茶を二つ運んできた。頼んでいない。前回と同じだった。
ミレーユが外套の内側に手を入れた。
紙が出てきた。四枚と、一枚。
四枚のほうは、見覚えがあった。わたしの字だった。
家政の覚書。掛けの先と額。使用人の名前と給金。暦の決まり。未定事項。あの朝、帳簿と鍵と一緒に食堂の卓に置いた四枚。
「見つけたの。帳簿の上に載っていたわ」
紙が柔らかくなっていた。何度も開いて閉じたのだろう。折り目が白く擦り切れている。
「いつ」
「十日ほど前。お母様が王都に行ったあとに」
裁定日の通知を持って、お母様がこの商会に来た日。四月八日。その直後にミレーユは覚書を開いた。それから乗合馬車に四日乗って、ここにいる。
五枚目に目を落とした。
ミレーユの字だった。
覚書の二枚目——使用人の名簿——を下敷きにしたらしい。わたしが書いた二十二人の名前の横に、ミレーユの字で印がついていた。
丸が一つ。横線が二十。一つだけ、何もついていない。
「庭番のジョゼフだけわからなかったの。顔は覚えているのに、いつ辞めたか出てこなくて」
五枚目を広げた。ミレーユの字で名前が縦に並んでいた。二十人。名のあとに日付が書いてある者が七人。残りは空白だった。
日付のある七人のうち、三人に金額がついていた。
「ハンナに訊いたの。全部は覚えていないと言われたけれど、新しいほうから七人ぶんの日は教えてくれた」
ハンナに。わたしの手紙が届く前に、ミレーユのほうが先にハンナに訊いていた。
「お給金の額はよくわからなかったわ。覚書に月の額は書いてあるけれど、途中で辞めた人にどう渡していたのかが」
「毎月の二日に渡していました」
声がわずかに硬かったと、言ったあとで思った。
「わたしが発ったあと、引き継ぐ人がいなかった。十一月から止まっています」
ミレーユの指が紙の端をわずかに強く握った。
「じゃあ、五ヶ月も——」
「辞めた人には辞めた月まで。残っている人には五ヶ月ぶん。全員が未払いです」
ミレーユの紙を手元に寄せた。
七つの日付。一月に二人。二月に三人。三月に二人。去った順はハンナの記憶と突き合わせれば確かめられる。
金額を見た。馬丁の二人がそれぞれ十リーヴルとなっている。
「ここは八です。馬丁は八リーヴル」
ミレーユの視線が紙の上を往復した。覚書と自分の紙を交互に見て、唇がわずかに開いた。
「……違ったの」
「覚書の十は庭番のほうです。行が近くて、読み違えたのだと思います」
ミレーユが覚書の二枚目を引き寄せて目を凝らした。わたしの字は小さい。庭番と馬丁が行を詰めて隣り合っていた。
ミレーユの紙にペンを入れた。十を八に直す。もう一人も同じだった。直して、差引をやり直す。
「厨の者が辞めた月は覚えていますか」
「三人が二月のはじめに出て、もう一人が三月だったと思うわ。正確な日はわからないの」
「月まで分かれば十分です」
それだけで推計の精度が変わった。退職が二月に集中していることが見えたからだった。均等に散らして仮定していた分布が偏りを持ち、数字が動く。十リーヴルほど。
ペンを走らせた。ミレーユの紙の余白に、修正した数字を足していった。
わたしの字とミレーユの字が、一枚の紙の上に混じっていた。はじめてのことだった。
ミレーユがわたしの右手を見ていた。
中指のペンだこ。第一関節の横、皮が厚く盛り上がって光っている。
「お姉様。その指の跡、ずっとあったのね」
「十一年ほど」
ミレーユが自分の手のひらを開いた。
白い。綺麗な指だった。ペンだこがない。爪の形も整っている。帳面を一度もつけたことのない手だった。
「覚書の名前を見たとき、はじめて分かったの」
ミレーユの声が低くなった。
「この人たちに毎月お給金を渡していたのが、お姉様だったのだと」
茶が冷めていた。ミレーユは一口もつけていない。
「婚約者のことは知っていた。でも鍵のことも帳簿のことも知らなかった。お給金のことだって」
「知らせませんでした」
「お姉様のせいじゃないわ」
声がわずかに震えた。
「……でも、わたしのせいでもないでしょ?」
誰も答えなかった。
わたしは答えなかった。あの家で十一年、訂正しなかったのはわたしだった。「金遣いが荒い」と言われても黙っていた。ミレーユが知らなかったのは、わたしが知らせなかったからだった。
だがミレーユが一度も訊かなかったのも、帳簿に一度も触らなかったのも事実だった。
どちらが悪いかを帳面で出すことはできない。入りにも出にも立てられない勘定だった。
ミレーユは自分の手のひらをじっと見ていた。卓の上の茶が、かすかに湯気を立てていた。その湯気が消えるまで、どちらも口を開かなかった。
「わたし、数えたことが一度もないの。一度も」
声が小さくなった。
「お姉様の代わりにはなれない」
顔を上げた。目が灰青だった。わたしと同じ色だった。知ってはいたが、こうして正面から見たのは、いつ以来か数えられなかった。
「でも、わたしの分は数える」
白い手。灰青の目。十日前に開いた覚書。
ミレーユの、この十日間。
「ミレーユ」
「何?」
「その紙を、もう一度」
ミレーユの紙を広げ直した。二十人の名前。七つの日付。三つの金額のうち二つに訂正が入っている。
名前の並びを追った。覚書と同じ順だった。
「合っているかわからなかったの。でも覚書の順と同じにすれば数えやすいと思って」
覚書の並びに合わせた。教わったのではなく、覚書を見て自分で気づいた。突き合わせるときは元の並びに揃える——帳面の基本だった。
わたしが十一歳のとき、はじめて帳面を開いたときもそうだった。元帳の勘定と合わせるには、同じ順に並べるしかない。誰にも言われずに気づいたことだった。
「並べ方は合っています」
「本当?」
「はい。並べ方が正しければ、間違いは直せます」
褒めてはいない。事実を返しただけだった。数字の間違いは直せる。並びの間違いは一からやり直しになる。ミレーユは、直せるほうの間違いだけをした。
ミレーユの目がほんの少し潤んだが、こぼれなかった。
ミレーユが椅子から立った。
「今日は帰るわ。夕方の乗合に間に合うようにしないと」
四日で戻る。裁定日まで間に合う。
「あの紙は置いていってください」
「使えるの?」
「目録に使います」
ミレーユが外套を直した。二月のあの日は袖に手を伸ばしかけて、触れずに帰った。今日は、わたしの机の角をかすめるように触れて、そのまま通り過ぎた。
戸口で振り返った。
ミレーユが何か言いかけて、やめた。外套の襟を直す指が、二度つまんで離した。
「お姉様。お父様に会ったほうがいいと思うの」
指先が止まった。
「お母様は王都まで来たわ。わたしも来た。でもお父様はあの書斎から出てこないの」
「……」
「何か言いたそうな顔をずっとしているのよ。でも何も言わないの。昔から」
——お前は昔から、勝手に背負う子だった。
門を出る朝に聞いた父の声が、廊下の向こうから戻ってきた。あれは責められたのだと思った。今もそう思っている。
「考えておきます」
ミレーユは小さく頷いて、出ていった。
帳場に戻った。
机の上に紙が並んでいた。
一枚は、宛名だけを書いて止まっていた裁ち紙。ミレーユ・オルグレン。そのあとは白い。
もう一枚は、ミレーユが置いていった紙。二十の名前。七つの日付。訂正が二箇所。わたしの字とミレーユの字が混じって、一枚の帳面のようになっている。
白い紙のほうを引き寄せた。宛名の下に、一行だけ書いた。
——覚書は届いております。
それだけでよかった。あの四枚は、五ヶ月かかって届いた。
手帖を開いた。百五十行目の「買」のあとに、白い行がある。
四月十七日、と書いた。金額は書かなかった。番号も振らなかった。
日付の横に、小さく「妹」と添えた。
入りでも出でもない。「買」と同じ——帳面のどの欄にも載らないが、なかったことにはできない一行だった。
ミレーユの紙を、目録の束の横に並べた。
帳面に使う紙より薄い。インクも違う。字は傾いていて行の幅が揃わない。だが名前は読める。日付も読める。覚書の順に並んでいる。
間違いが二つある。余白にわたしの直しが入っている。
帳尻は、まだ合わない。だがこの紙は、数え始めた手の跡だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
あの朝、リディアは覚書を四枚、卓に置きました。五ヶ月、誰にも読まれなかった紙です。ミレーユがそれを見つけて開いたとき、あの朝に置いたものがようやく届いたのだと思います。届くまでに五ヶ月かかりました。でも届きました。
ミレーユの紙には間違いが二つあります。帳尻はまだ合いません。でも「並べ方は合っている」——それがリディアの精一杯の返事でした。褒めてもいないし、許してもいない。ただ事実を返しただけです。それでもあの一言は、きっとミレーユには届いたのだと思っています。
次話「止めなかった人」では、リディアが父と向き合います。門を出る朝に聞いた「お前は昔から、勝手に背負う子だった」。あの言葉の意味が、ようやく明かされます。
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