わたしも、欲しかった
三月十三日。
昨日の勘定が、まだ閉じていなかった。
帳場のことは、全部済んでいる。受領証は三十四枚で合い、棚に戻すべき控えも残っていない。元帳の数字も、昨日のまま動いていない。
閉じていないのは、帳場の外にあった。
裏口で渡したパンの値。少年の肩に置いた外套の値。「リディアさん」と呼ばれた、あの声。
三つとも、欄に立てられなかった。値が分からなければ、入りにも出にも書けない。書けないまま、一晩が過ぎた。
手帖の百四十七行目のあとに、白い隙間がある。昨夜、何度か開いた。何も書けなかった。指を載せて、持ち上げて、また下ろした。そのまま朝になった。
帳場に降りた。
受領証を検めた。三十四枚。合っていた。北の照会は、昨日のうちに返してある。書役が午前の束を持ってきて、わたしが数えて、棚に収めた。
番頭が一度だけ振り向いた。
「今日もお変わりなく」
「はい」
番頭は帳面に戻った。訊かない人だった。
昼に膳が運ばれてきた。パンが一切れ、汁が一椀。パンを手に取ったとき、指が止まりかけた。一昨日の昼も、同じ温みで手が止まった。振り払って、食べた。
午後は、控えの写しを仕上げた。二通。日付を書くとき、指がいつもより遅かった。三月十三日。その数字を書くのに二度、筆を止めた。昨日の日付を書いていれば、たぶん止まらなかった。止まった理由を、わたしは知っていた。
帳場の数字は、今日も一つも間違わなかった。
ただ——この建物の四階に、あの外套がまだかかっているかどうかだけが、一日の隅にあった。
見に行くことはしなかった。会頭室に用事はない。用事のない場所へ足を向ける理由を、帳面のどこにも立てていなかった。
夕方の締めを終えて、帳場を出た。廊下の階段を上がるとき、三階で足を止めた。四階への踊り場が、見えるところにある。
足は、上がらなかった。用事がない。用事がなければ、上がれない。
三階の廊下に戻って、手帖を出した。
百四十七行目のあと、白い隙間。
何かを書こうとした。指は動かなかった。何を書くのか、まだ分からなかった。手帖を閉じて、懐に戻した。
三階の部屋に戻った。
椅子の背に、ハンナの外套がかかっている。家を出た朝からずっと、ここにある。その隣に、毛糸の手袋が揃えて置いてあった。十二月の市で、マノンに買ってもらったもの。八ソル。値は覚えている。覚えているのに、手帖には書けなかった。
値の分からないものが三つ。値は分かるのに書けないものが一つ。
帳面の外に置いたまま閉じられないものが、この冬のあいだに、少しずつ増えていた。
灯りを点けた。窓の隙間から、冷気が流れ込んでいた。三月の冷気だった。河の薄氷はまだ融けていない。
手帖を出しかけたとき、扉の外で音がした。
二度。静かな叩き方だった。
手帖を懐に戻した。指が、一つ余計に数えていた。この時刻に三階を叩く人は限られている。
開けた。
会頭が立っていた。
右の腕に、外套を一枚かけていた。
左手は何にも触れていなかった。壁にも、扉の枠にも、何にも。
この人の左手が、何にも触れていないのを見たのは初めてだった。廊下でも、帳場でも、階段でも、いつも壁か柱か手すりか扉のどこかに、左の手が添えてあった。その手が、今は下りたまま、何も探していなかった。
「遅くに」
短い声だった。
わたしは返事の前に、腕の外套を見た。
昨日まで会頭室の釘にかかっていたもの。廊下ですれ違うたびこの人の腕にあったもの。
「お入りください」
一歩下がった。会頭は少し間を置いてから、敷居をまたいだ。
「夜分に申し訳ありません」
「いえ。お掛けになりますか」
「立ったままで」
向き合った。部屋は狭い。
灯りの下で、外套が近くなった。
遠くからは、分からなかったことが二つあった。
一つ。縁の擦り切れは、ほつれたまま放ってあるのではなかった。細い糸で、何度も繕ってある。糸の色が、それぞれ違った。手に入る糸で、その都度、縫い直していた。灯りの下で、一本一本が違う年の色をしていた。赤に近い茶の糸は、いちばん古い。継いだ年か、その翌年か。白に近い糸は、まだ新しい。去年の冬か、今年か。
もう一つ。この外套は、子どもの寸法だった。
袖は、この人の肘までも届かないだろう。肩幅も、今のわたしにすら足りない。十一歳のわたしの肩に合っていた布が、そのままの寸法で残っていた。
着るものではなかった。着られるものではなかった。
十一年、着ないまま持ち歩いていた。
繕いは、袖の端に集まっていた。腕にかけて歩くとき、肘のあたりで折れる。折れる場所が擦り切れる。擦り切れるたびに、糸を通した——そういう跡だった。
腕にかけるために直していた。着るために直したのではなかった。
外套を近くで見るのは、これが初めてだった。廊下では、いつも三歩以上離れていた。三歩の距離では、繕いの糸は見えない。
「……この縁の糸は」
声が出ていた。訊くつもりはなかった。
「手に入るもので縫いました」
会頭は短く答えた。それ以上は言わなかった。
「……返しに来ました」
声は低かった。
「返す」
声に出した。自分の声が硬かった。
「はい。預かっていたものですので」
「預かり」
同じ言葉を繰り返した。
預かりなら、番号を振って棚に入れるものだ。返すときは、番号を引いて消す。帳場の仕事と同じだ。
だが、あの晩のわたしの外套に、番号は振っていない。預けたつもりもなかった。名も知らなかった少年がいなくなったとき、外套ごと消えたのだと、ただそれだけだった。
それだけだったものが、繕われて、今、この人の腕にある。
「これは、どちらの勘定に入れればよろしいでしょう」
帳場の言葉が出た。ほかの訊き方を持っていなかった。
会頭が、こちらを見た。
「うちの帳簿には、載っていません」
静かな声だった。「うち」は商会のことだった。この人は、いつも私事のときに、主語を商会にすり替える。昨日もそうだった。六年間の凍結も、ただ一言で済ませた。
商会の帳簿に載っていない。わたしの手帖にも、載っていない。どちらの帳面にもないものが、目の前にあった。
外套が差し出された。
「受け取っていただけますか」
受け取ればいい。それだけのことだった。
手が、動かなかった。
受け取れば、入りになる。入りには、元を書く。いつ、いくらで、何の勘定で。十一年、そうやって帳尻を合わせてきた。
だが、この外套の値を覚えていない。十一年前に脱いだとき、数えなかった。数えなかったものに、返しの値は付けられない。値の付かないものを、帳面のどこに置けばいいのか分からなかった。
入りでもない。出でもない。貸方にも借方にも立たない。
自分のための欄を、一度も立てたことがなかった。
他人の穴なら、三日で見つけた。百三十六の行を、一つも欠かさず書いた。手袋の八ソルも、栗の二ソルも、額だけは言えた。
自分のために何かを欲しいと思ったことが、あったかどうかさえ、分からなかった。
会頭は、外套を持ったまま動かなかった。急かしもしなかった。
どのくらいそうしていたのか、分からなかった。
窓の隙間から、風が入った。外套の裾が揺れた。繕いの糸が、灯りに色を変えた。
指先が外套の縁に触れた。
触れただけだった。
糸が指の腹にかすかに引っかかった。
子どもの丈。繕いの糸。止まらなかった十一年。
風が、もう一度入ってきた。
「……わたしも、欲しかったのだと思います。たぶん」
声は自分の耳にも届くか届かないかの大きさだった。
会頭の手が、一瞬だけ止まった。外套を持つ指が、わずかに白くなった。息を呑んだのか、吐いたのか、分からなかった。ただ、灯りの影が、この人の喉のあたりで一度だけ揺れた。
灯りの芯が、傾いた。
会頭は何も言わなかった。
しばらくのあいだ、廊下の冷気だけが、扉の隙間から流れ込んでいた。
会頭が、一歩動いた。椅子のほうへ。
外套を、椅子の背にかけた。ハンナの外套がかかっているほうの、もう片方に。二着が並んだ。
左手が、外套の肩を一度だけ整えた。繕いの糸が、指の下で落ち着いた。
あの左手が何かに触れたのは、今夜はそれが初めてだった。
振り向いた。
「おやすみなさい、リディアさん」
「おやすみなさい」
扉が閉まった。足音が、廊下を戻っていった。
三階の廊下は長い。足音はしばらく聞こえていた。
遠くなって、聞こえなくなった。
椅子に、外套が二着ある。
一着はハンナの。家を出た朝に受け取った。裏地に湯たんぽの温みを入れてくれた人の。濃い茶色の厚い布で、石鹸と乾草の匂いがまだ残っている。
一着は——十一年前に、少年の肩に置いた。値は、覚えていない。色は褪せて、もとの染めが何色だったかも分からない。匂いは、埃と、糸の匂いだった。
どちらも手帖には載っていない。入りでも出でもない。
手帖を開いた。百四十七行目のあと、白い隙間がまだある。
指を止めた。
書くものが見つかったわけではなかった。
ただ、一つだけ分かったことがある。帳尻の合わないものを放っておけない人間が、この建物にもう一人いた。合わせ方は、違っていた。合わせ方が違うまま十一年、同じものを持ち歩いていた。
わたしは欄を立てられないまま数を合わせようとして、この人は帳簿に載せないまま繕い続けていた。
手帖を閉じた。
外套を膝にかけた。十一年前のほうだった。
しばらく、そのまま動かなかった。膝の上の布が、体温を吸い始めるまでの時間を数えていた。
軽かった。ハンナのものよりずっと軽い。生地が薄くなっている。繕いの糸だけが、すこし厚い。
指で、糸のいちばん古い色に触れた。赤に近い茶。十一年前に近い糸。
外套のいちばん薄いところが、いちばん先に温まった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「欲しい」と言えない人を、二十二話かけて書いてきました。
自分の勘定だけが書けない。自分のための欄が立てられない。他人の穴は三日で見つけるのに、自分の空白だけが十一年そのまま。その人がたった一度だけ、「たぶん」付きで弱音を漏らす回です。
「たぶん」を削らないことだけは最初から決めていました。断定できないまま言ってしまうのが、この人の精一杯だからです。断定できたらもう彼女じゃない、と思いました。
外套の繕いの糸は、言葉の代わりです。十一年ぶんの修繕を彼は一度も説明しません。糸の色だけが語ります。直す人の手は、持ち歩く理由を口にしなくても、布の上に全部残してしまう。
次の話から、季節がすこし動きます。
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