返せと言った覚えはありません
会頭室からの呼び出しは、十一年で一度も無かった。
番頭がそう告げたとき、指が三十四という数字を宙に置いたまま、止まった。今日の受領証の枚数だった。
三月十二日。昨日、案件の棚を空けたばかりの朝だった。帳場は、いつもと同じに動いていた。窓の外を荷馬車が二台通り、受領証を検め終え、北の領からの照会に返事を書いた。何も、変わっていないはずの朝だった。
「わたしを、ですか」
「はい。すぐに、とのことです」
番頭は、それ以上を言わなかった。理由を訊く前に、もう帳面を閉じていた。
この人がここまで急ぐのを、見たことが無い。
三階までの二十二段は、指が覚えている。だが、その先へ続く段は、上ったことが無かった。
番頭について、さらに上へ。
十一段。踊り場を挟んで、また五段。
数えるつもりは無かった。足が、勝手に数を置いていった。
「先ほど、会頭に伺いを立てました」
番頭が、階段の途中で言った。
「案件が閉じた以上、帳面の凍結も、そのままには出来ません、と。六年、ほどけておりませんでしたので」
「凍結」
「生か、償却か。どちらかに、決めていただかなければ」
「わたしの家の分、ですか」
「左様です」
それだけ言って、番頭は先に立って歩いた。
突き当たりに、扉が一つ。
「こちらです」
番頭が、扉を二度叩いた。応えを待たずに、開けた。
「オルグレンさんを、お連れしました」
会頭室は、狭かった。
卓が一つ。椅子が二脚。棚に、帳面ではなく、数冊の書物が並んでいる。装飾は、無い。窓が一つ、冷えた光を入れていた。
商談用の応接室とは、違う部屋だった。あちらには、椅子が二脚あっても、卓に何も乗っていない。ここには、書物のほかに、書きかけの紙が一枚、伏せて置いてある。書物の背は色が褪せ、一冊だけ角が丸く擦れていた。何度も手に取った本が、一冊だけある部屋だった。誰かに見せるための部屋ではなかった。
会頭が、卓の向こうに立っていた。
「掛けてください」
「はい」
椅子に座った。卓を挟んで、会頭も腰を下ろした。
番頭は、扉のそばに立ったままだった。
「番頭も、同席を」
「いえ」
会頭が、短く言った。
「これは、私が話します」
番頭が、一礼して下がった。扉が閉まる音がした。
二人だけになると、会頭は、しばらく黙っていた。
左手が、卓の縁に触れていた。いつもの所作だった。
「昨日、案件が閉じたと、番頭から聞きました」
「はい」
「十一年と四ヶ月、と聞きました」
「はい」
会頭が、わずかに目を伏せた。
「その数え方は、変わりませんね」
「変える理由が、ございません」
沈黙が、また落ちた。
このまま黙って終わるなら、それでよかった。だが、訊いておかなければならないことが、一つあった。原本を見た日から、ずっと胸の奥に置いたままだった。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「証文に商会印が無いことに、いつお気づきになったのですか」
会頭は、すぐには答えなかった。
「千百九年です」
「六年前」
「私が、会頭を継いだ年です」
六年。
指が、勝手に数を割った。月に一度、十八リーヴル。六年で、七十二回。
継いだ日から、七十二回、見ていたことになる。
「その六年、何もなさらなかったのですか」
「凍結しました」
初めて聞く言葉ではなかった。この商会に来た最初の朝、番頭から聞いていた。生か、凍結か、償却か——債権を置く、三つの箱。
「凍結」だけが、理由を書かれない箱だと、そのときに聞いた。
「わたしの分が、それだったのですね」
「そうです」
「番頭が、生か償却かに決めるようにと申しておりました」
「今日、償却にします」
それだけだった。長い説明は無かった。十一年分の紙が、その一言で片づいた。
片づいたことに、安堵は無かった。安堵する場所を、まだ持っていなかった。
「知らせてくだされば」
「知らせれば、何が変わりましたか」
答えられなかった。
知らせれば、払うのをやめただろうか。それとも、そのまま払い続けただろうか。分からない。十一年、そういう仮定は、一度も帳面に立てたことが無かった。
「わたしは、払わなくてよかったのですか」
「私から、返せと言った覚えはありません」
短い声だった。
卓の上で、指が止まった。
言葉が、すぐには勘定に変わらなかった。
凍結は、千百九年。だが、証文が無効だったのは、千百三年からだ。
継ぐ前から、無効だった。
継いだ日に、それを見つけて、そのまま、箱に入れた。
「なぜ、そのとき、終わらせなかったのですか」
会頭が、少し間を置いた。
「終わらせれば、他人の施しになると思いました」
「施し」
「はい。受け取った側が、惨めになるものです」
「わたしが、惨めに」
六年。月に一度。六年で、七十二回。その七十二回のどこか一回でも、止めることは出来たはずだ。止めなかった。
会頭は、目を伏せたまま、少し黙った。
「そう思いました。当時は」
「今は」
会頭は、答えなかった。
「もう一つ、伺っても」
「どうぞ」
「会頭は、この国の生まれではないと、伺ったことがございます」
「クレイユです」
「では」
言いかけて、止めた。
会頭のほうが、先に言った。
「あの晩は、荷を売りに来ていました」
「お一人で」
「父と。父は、道中で亡くなりました。冬の峠で、荷を置いて戻りました」
「それから、どうやって」
「クレイユに戻り、羊毛と海運で身を立てました。この商会を継いだのは、六年後です」
六年後——千百九年。継いだ年と、凍結を決めた年が、同じだった。
継いだ日に、帳面の底で自分の古い証文を見つけた。そういうことだったのだと、数字が勝手に並んだ。
それ以上、続けなかった。訊けば、答えるだろう。だが、今日、それ以上を訊く力は、もう残っていなかった。
もう一つ、確かめたいことがあった。だが、数字ではないので、どう訊けばいいのか分からなかった。
「千百三年の、最初の雪の晩」
言った途端に、喉の奥が、少し詰まった。
「裏口に、いらっしゃいましたか」
会頭は、何も言わなかった。
左手を、そっと持ち上げて、卓の光の中へ出した。
甲に、古い痕があった。霜焼けのあとだ。何度も見ていた。人の手は勘定に入らないと、いつも通り過ぎていた。
今日は、通り過ぎなかった。
肯定でも、否定でもなかった。ただ、見せられた。
それで、十分だった。
指が、数を探した。
出てこなかった。
十一年前のあの夜も、この手には、同じ痕があったはずだ。だが、あの夜、わたしは少年の手を見ていない。顔も、覚えていない。
目の前にあるのは、二十六の会頭の手だ。十一年前の、十五の少年の手ではない。
それでも、同じ痕だと、分かった。
視線が、部屋の隅へ動いた。
窓際の釘に、外套が一枚、かかっていた。
生地が薄い。縁が擦り切れている。この人の身なりには似合わないものだった。廊下ですれ違うたび、腕にかけていたものと、同じだった。
「その外套は」
会頭が、初めてこちらの視線を追った。
「古いものです」
「いつからの」
答えは、無かった。
答えないことが、答えだった。
わたしは、値を数える人間だ。数えられれば、帳尻を合わせられる。合わないものを、十一年、放っておいたことは無い。
「では、あの晩の分を、お返ししなければなりません」
会頭が、こちらを見た。
「パン一切れと、外套一着。値を、教えていただけますか。今日、耳を揃えてお返しします」
「リディアさん」
名を呼ばれたのは、初めてだった。
「返せと言った覚えはありません」
声は、静かだった。
「一度もです。十一年、一度もです」
それ以上、何も足さなかった。
値を、教えてもらえなかった。
教えてもらえなければ、返せない。返せなければ、帳尻が合わない。
合わない数字を、十一年、一度も放っておいたことが無かった。
今は、放っておくしかなかった。
扉の外で、番頭の声がした。
「会頭。次のお約束まで、半刻です」
会頭が、目を伏せた。
「今、参ります」
立ち上がった。礼をした。
「失礼いたします」
扉に手をかけたところで、振り返った。
会頭の左手が、外套に触れていた。壁の釘ではなく、外套の袖に。
「今日は冷えますね」
いつも廊下で言われる言葉だった。今日は、外套を見ながら言われた。
「ええ」
それだけ答えて、部屋を出た。
階段を降りながら、数えた。十一段、踊り場、五段。合っていた。
帳場に戻ると、番頭が顔を上げた。
「お話は、済みましたか」
「はい」
「よろしいのですか」
「いつもどおりです」
番頭は、それ以上訊かなかった。訊かない人だと、初めて会った日から知っている。今日は、その間合いが、ありがたかった。
午後は、いつもどおりに動いた。受領証を検め、控えを棚に戻し、夕方の締めを合わせた。数は、一つも狂わなかった。
夜、三階の部屋に戻った。
椅子にかかったハンナの外套に、目が止まった。
値を訊けば、返せると思っていた。十一年、そうやって帳尻を合わせてきた。値の分からないものが、世の中にあるとは、考えたことが無かった。
考えたことが無かったものが、今日、二つ増えた。あの晩のパンと外套と——名を呼ばれた、あの一言と。
「リディアさん」
声だけが、耳の奥に残っている。数にはならない。日付にも、額にもならない。手帖のどの行にも、置き場所が無かった。
それでも、忘れることは、無いだろうと思った。
窓の隙間から、冷えた空気が入ってきた。三月十二日。冬は、まだ明けていない。
あの外套は、明日も、あの釘にかかっているだろうか。
それとも——手帖を閉じた。今日の勘定は、一つだけ合わなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は「事実を告げるだけの人」を書きたくて、ジェレドにほとんど喋らせませんでした。彼は理由を説明しません。謝りもしません。ただ「返せと言った覚えはありません」とだけ言って、あとは左手を見せるだけです。慰めの言葉を足さないほうが、彼の十一年間の重みが伝わる気がしました。
リディアのほうは、いつもどおり数字で処理しようとします。パンと外套の値段を訊いて、その場で耳を揃えて返そうとする——彼女らしい反応だと思います。でも今回だけは、値を教えてもらえません。数えられないものに、彼女がどう向き合うのか。それが次の話の核心になります。
外套が、まだ会頭の部屋の釘にかかったままなのか。それとも——。
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