↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/32

返せと言った覚えはありません

会頭室からの呼び出しは、十一年で一度も無かった。


 番頭がそう告げたとき、指が三十四という数字を宙に置いたまま、止まった。今日の受領証の枚数だった。


 三月十二日。昨日、案件の棚を空けたばかりの朝だった。帳場は、いつもと同じに動いていた。窓の外を荷馬車が二台通り、受領証を検め終え、北の領からの照会に返事を書いた。何も、変わっていないはずの朝だった。


 「わたしを、ですか」

 「はい。すぐに、とのことです」


 番頭は、それ以上を言わなかった。理由を訊く前に、もう帳面を閉じていた。


 この人がここまで急ぐのを、見たことが無い。




 三階までの二十二段は、指が覚えている。だが、その先へ続く段は、上ったことが無かった。


 番頭について、さらに上へ。


 十一段。踊り場を挟んで、また五段。


 数えるつもりは無かった。足が、勝手に数を置いていった。


 「先ほど、会頭に伺いを立てました」


 番頭が、階段の途中で言った。


 「案件が閉じた以上、帳面の凍結も、そのままには出来ません、と。六年、ほどけておりませんでしたので」


 「凍結」

 「生か、償却《しょうきゃく》か。どちらかに、決めていただかなければ」


 「わたしの家の分、ですか」

 「左様です」


 それだけ言って、番頭は先に立って歩いた。


 突き当たりに、扉が一つ。


 「こちらです」


 番頭が、扉を二度叩いた。応えを待たずに、開けた。


 「オルグレンさんを、お連れしました」




 会頭室は、狭かった。


 卓が一つ。椅子が二脚。棚に、帳面ではなく、数冊の書物が並んでいる。装飾は、無い。窓が一つ、冷えた光を入れていた。


 商談用の応接室とは、違う部屋だった。あちらには、椅子が二脚あっても、卓に何も乗っていない。ここには、書物のほかに、書きかけの紙が一枚、伏せて置いてある。書物の背は色が褪せ、一冊だけ角が丸く擦れていた。何度も手に取った本が、一冊だけある部屋だった。誰かに見せるための部屋ではなかった。


 会頭が、卓の向こうに立っていた。


 「掛けてください」

 「はい」


 椅子に座った。卓を挟んで、会頭も腰を下ろした。


 番頭は、扉のそばに立ったままだった。


 「番頭も、同席を」

 「いえ」


 会頭が、短く言った。


 「これは、私が話します」


 番頭が、一礼して下がった。扉が閉まる音がした。




 二人だけになると、会頭は、しばらく黙っていた。


 左手が、卓の縁に触れていた。いつもの所作だった。


 「昨日、案件が閉じたと、番頭から聞きました」

 「はい」

 「十一年と四ヶ月、と聞きました」

 「はい」


 会頭が、わずかに目を伏せた。


 「その数え方は、変わりませんね」

 「変える理由が、ございません」


 沈黙が、また落ちた。


 このまま黙って終わるなら、それでよかった。だが、訊いておかなければならないことが、一つあった。原本を見た日から、ずっと胸の奥に置いたままだった。


 「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」

 「どうぞ」

 「証文に商会印が無いことに、いつお気づきになったのですか」


 会頭は、すぐには答えなかった。


 「千百九年です」

 「六年前」

 「私が、会頭を継いだ年です」


 六年。


 指が、勝手に数を割った。月に一度、十八リーヴル。六年で、七十二回。


 継いだ日から、七十二回、見ていたことになる。


 「その六年、何もなさらなかったのですか」

 「凍結しました」


 初めて聞く言葉ではなかった。この商会に来た最初の朝、番頭から聞いていた。生か、凍結か、償却か——債権を置く、三つの箱。


 「凍結」だけが、理由を書かれない箱だと、そのときに聞いた。


 「わたしの分が、それだったのですね」

 「そうです」


 「番頭が、生か償却かに決めるようにと申しておりました」

 「今日、償却にします」


 それだけだった。長い説明は無かった。十一年分の紙が、その一言で片づいた。


 片づいたことに、安堵は無かった。安堵する場所を、まだ持っていなかった。


 「知らせてくだされば」

 「知らせれば、何が変わりましたか」


 答えられなかった。


 知らせれば、払うのをやめただろうか。それとも、そのまま払い続けただろうか。分からない。十一年、そういう仮定は、一度も帳面に立てたことが無かった。


 「わたしは、払わなくてよかったのですか」


 「私から、返せと言った覚えはありません」


 短い声だった。


 卓の上で、指が止まった。


 言葉が、すぐには勘定に変わらなかった。




 凍結は、千百九年。だが、証文が無効だったのは、千百三年からだ。


 継ぐ前から、無効だった。


 継いだ日に、それを見つけて、そのまま、箱に入れた。


 「なぜ、そのとき、終わらせなかったのですか」


 会頭が、少し間を置いた。


 「終わらせれば、他人の施しになると思いました」

 「施し」

 「はい。受け取った側が、惨めになるものです」

 「わたしが、惨めに」


 六年。月に一度。六年で、七十二回。その七十二回のどこか一回でも、止めることは出来たはずだ。止めなかった。


 会頭は、目を伏せたまま、少し黙った。


 「そう思いました。当時は」

 「今は」


 会頭は、答えなかった。


 「もう一つ、伺っても」

 「どうぞ」

 「会頭は、この国の生まれではないと、伺ったことがございます」

 「クレイユです」

 「では」


 言いかけて、止めた。


 会頭のほうが、先に言った。


 「あの晩は、荷を売りに来ていました」

 「お一人で」

 「父と。父は、道中で亡くなりました。冬の峠で、荷を置いて戻りました」


 「それから、どうやって」

 「クレイユに戻り、羊毛と海運で身を立てました。この商会を継いだのは、六年後です」


 六年後——千百九年。継いだ年と、凍結を決めた年が、同じだった。


 継いだ日に、帳面の底で自分の古い証文を見つけた。そういうことだったのだと、数字が勝手に並んだ。


 それ以上、続けなかった。訊けば、答えるだろう。だが、今日、それ以上を訊く力は、もう残っていなかった。




 もう一つ、確かめたいことがあった。だが、数字ではないので、どう訊けばいいのか分からなかった。


 「千百三年の、最初の雪の晩」


 言った途端に、喉の奥が、少し詰まった。


 「裏口に、いらっしゃいましたか」


 会頭は、何も言わなかった。


 左手を、そっと持ち上げて、卓の光の中へ出した。


 甲に、古い痕があった。霜焼けのあとだ。何度も見ていた。人の手は勘定に入らないと、いつも通り過ぎていた。


 今日は、通り過ぎなかった。


 肯定でも、否定でもなかった。ただ、見せられた。


 それで、十分だった。


 指が、数を探した。


 出てこなかった。


 十一年前のあの夜も、この手には、同じ痕があったはずだ。だが、あの夜、わたしは少年の手を見ていない。顔も、覚えていない。


 目の前にあるのは、二十六の会頭の手だ。十一年前の、十五の少年の手ではない。


 それでも、同じ痕だと、分かった。




 視線が、部屋の隅へ動いた。


 窓際の釘に、外套が一枚、かかっていた。


 生地が薄い。縁が擦り切れている。この人の身なりには似合わないものだった。廊下ですれ違うたび、腕にかけていたものと、同じだった。


 「その外套は」


 会頭が、初めてこちらの視線を追った。


 「古いものです」

 「いつからの」


 答えは、無かった。


 答えないことが、答えだった。


 わたしは、値を数える人間だ。数えられれば、帳尻を合わせられる。合わないものを、十一年、放っておいたことは無い。


 「では、あの晩の分を、お返ししなければなりません」


 会頭が、こちらを見た。


 「パン一切れと、外套一着。値を、教えていただけますか。今日、耳を揃えてお返しします」


 「リディアさん」


 名を呼ばれたのは、初めてだった。


 「返せと言った覚えはありません」


 声は、静かだった。


 「一度もです。十一年、一度もです」


 それ以上、何も足さなかった。


 値を、教えてもらえなかった。


 教えてもらえなければ、返せない。返せなければ、帳尻が合わない。


 合わない数字を、十一年、一度も放っておいたことが無かった。


 今は、放っておくしかなかった。




 扉の外で、番頭の声がした。


 「会頭。次のお約束まで、半刻です」


 会頭が、目を伏せた。


 「今、参ります」


 立ち上がった。礼をした。


 「失礼いたします」


 扉に手をかけたところで、振り返った。


 会頭の左手が、外套に触れていた。壁の釘ではなく、外套の袖に。


 「今日は冷えますね」


 いつも廊下で言われる言葉だった。今日は、外套を見ながら言われた。


 「ええ」


 それだけ答えて、部屋を出た。




 階段を降りながら、数えた。十一段、踊り場、五段。合っていた。


 帳場に戻ると、番頭が顔を上げた。


 「お話は、済みましたか」

 「はい」

 「よろしいのですか」

 「いつもどおりです」


 番頭は、それ以上訊かなかった。訊かない人だと、初めて会った日から知っている。今日は、その間合いが、ありがたかった。


 午後は、いつもどおりに動いた。受領証を検め、控えを棚に戻し、夕方の締めを合わせた。数は、一つも狂わなかった。




 夜、三階の部屋に戻った。


 椅子にかかったハンナの外套に、目が止まった。


 値を訊けば、返せると思っていた。十一年、そうやって帳尻を合わせてきた。値の分からないものが、世の中にあるとは、考えたことが無かった。


 考えたことが無かったものが、今日、二つ増えた。あの晩のパンと外套と——名を呼ばれた、あの一言と。


 「リディアさん」


 声だけが、耳の奥に残っている。数にはならない。日付にも、額にもならない。手帖のどの行にも、置き場所が無かった。


 それでも、忘れることは、無いだろうと思った。


 窓の隙間から、冷えた空気が入ってきた。三月十二日。冬は、まだ明けていない。


 あの外套は、明日も、あの釘にかかっているだろうか。


 それとも——手帖を閉じた。今日の勘定は、一つだけ合わなかった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回は「事実を告げるだけの人」を書きたくて、ジェレドにほとんど喋らせませんでした。彼は理由を説明しません。謝りもしません。ただ「返せと言った覚えはありません」とだけ言って、あとは左手を見せるだけです。慰めの言葉を足さないほうが、彼の十一年間の重みが伝わる気がしました。


 リディアのほうは、いつもどおり数字で処理しようとします。パンと外套の値段を訊いて、その場で耳を揃えて返そうとする——彼女らしい反応だと思います。でも今回だけは、値を教えてもらえません。数えられないものに、彼女がどう向き合うのか。それが次の話の核心になります。


 外套が、まだ会頭の部屋の釘にかかったままなのか。それとも——。


 ☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次話の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。