数えなかったもの
百四十七行。番号のある行が百三十六、ない行が十一。
手帖を閉じて、懐に戻した。合っている。
合っているのに、指がまだ何かを探していた。数字ではないものを。
三月十一日。朝の帳場は、昨日と同じに始まった。
棚から案件の写しを出した。二通と、元帳への控えが一通。昨日の確認書から出たものだった。
検めた。日付、番号、額。合っている。
控えを元帳の棚へ回し、写しを戻した。それだけで、十一年と四ヶ月の案件に触れるものは帳場から無くなった。棚の一角が空いた。紙三枚ぶんの隙間が、十一年の跡だった。
閉じるのに、朝の半刻で足りた。
「お出しになったのは三通でございますね」
番頭の声が、帳場の奥から聞こえた。
「三通です」
「では、この案件のものは全て戻りました」
「はい」
「今日は日常のものだけで結構です」
「ありがとうございます」
番頭が帳面をめくる手を止めて、一度だけこちらを見た。
「お顔は、今日は少しよろしいようです」
「そうでしょうか」
「昨日は悪うございました」
それ以上は訊かなかった。この人は訊かない。色が悪いと言い、よくなったと言い、理由には踏み込まない。それがこの人の間合いだった。
しばらくして、書役が帳場の入口に立った。
「北の領から照会が一通です」
「お預かりします」
番頭が封書を受け取り、こちらへ回した。
「元帳との照合をお願いできますか」
「承知いたしました」
「起算は千百八年です。中段の棚にございます」
該当の帳面を引き、照合した。二十分で終わった。
「差異はございません」
「ありがとうございます」
番頭が棚の一角を見た。昨日まで案件の写しが入っていた場所だった。
「あの棚、もう十一年埋まっておりましたからね」
「ええ」
「次は何を入れましょう」
「まだ決まっておりません」
「空いているのも悪くございませんよ」
何を入れるかは、わたしが決めることではない。棚の主はこの帳場であって、わたしではないのだから。
「番頭」
「はい」
「今日の受領証は、何枚ですか」
「三十四枚です。昨日と同じでございますよ」
「ありがとうございます」
午前は、その受領証を一枚ずつ検めた。合っていた。
昼に、厨の女が膳を運んできた。
「今日のは焼きたてですよ」
「ありがとうございます」
「お汁、もう一杯つけましょうか」
「これで十分です」
女が下がった。帳場の隅で膳を開けた。
パンが一切れ、汁が一椀。
パンを手に取ったとき、指が止まった。
温かかった。
焼きたてではない。厨の竈のそばに置いてあったのだろう。竈に近い石の上なら、パンはしばらくのあいだ温みを持つ。
その温みが、掌に移った。
数にはならなかった。ソルでも重さでもない。ただ温かいだけのものが、手のひらの真ん中にあった。
覚えのある温みだった。掌が知っている。いつ覚えたのかは出てこない。
数で辿ろうとしても引っかかるところが無い。日付も金額も立っていない場所から、それを拾い上げてきた。数に頼れない記憶を、掌だけが持っていた。
——あの冬も、パンは温かかった。
——あれは、千百三年の、最初の雪の晩だった。
わたしは十一歳で、書斎から自分の部屋へ戻る途中だった。
灯りを落としたあとの厨を通った。竈の余熱だけが、裸足の底に届いていた。棚からパンを一切れ取った。自分のために取った。
裏口の扉が、少しだけ開いていた。
閉め忘れだと思った。閉めようとして、外を見た。
風は無かった。この裏口は、風が止まる代わりに、底に冷気が溜まる。冬になると屋敷のどこよりも冷えた。
石段の下に、人がいた。
暗がり。石段。白い息。
膝を抱えて丸くなった背中が、小さく震えていた。上着は薄く、冬の支度ではなかった。
わたしが立っていたので、少年は顔を上げた。
顔は、覚えていない。
月の無い夜だった。裏口に灯りは届かない。雪明かりに浮いた輪郭が、すぐに暗さに沈んだ。
年はわたしより上だった。立ち上がったとき、頭ひとつぶん高い背があった。痩せていた。声の低くなりきっていない、少年という年ごろだった。
何か言ったかもしれない。覚えていない。わたしは声を数でしか拾わない。数の無い声は残らなかった。
手に持っていたパンを、差し出した。
少年が受け取ったのは、指先の重みが消えたことで分かった。目で確かめたのではない。手が軽くなっただけだ。
それだけでは足りなかった。
足りないと思った理由は、数では出てこない。勘定でもなかった。この人が寒い、とだけ思った。
外套を脱いだ。
自分のものだった。値は——覚えていない。値を覚えていないものが、わたしの持ち物にあった。そのことに、今さら驚いている。
少年の肩に、布を置いた。かけるというより、置いた。肩の上に載せる。それだけのことだった。
布が背中に落ちるとき、震えが一度止まった。驚いたのか、温まったのか。分からなかった。
名を、訊かなかった。
訊いていれば帳面に書けた。書いていれば記録になった。いつか帳尻を合わせるとき、行が一本増えたはずだった。
訊かなかった。なぜ訊かなかったのかも、覚えていない。
扉を閉めた。厨を抜けて、部屋に戻った。パンも外套も無いまま寝台に入った。寒かった。毛布を引き上げても、背中のほうから冷えが抜けなかった。外套の無い寝台は、一晩ぶん広かった。
翌朝、裏口を見に行った。
誰もいなかった。パンの欠片も、外套も、足跡も残っていなかった。雪だけが石段の上に新しく積もっていた。
帳面には、何も書かなかった。
日付も。金額も。品の名も。相手の名も。
あの年のわたしは、もう帳面を持っていた。書こうと思えば書けた。パン一切れ、外套一着。品の名も数も分かっていた。
書かなかった。
数に、入れなかった。
——パンが、冷めていた。
掌に載せたまま、どのくらい動かなかったのか、数えていない。
厨の女が、膳を下げに来た。
「あら、まだ召し上がっていらっしゃいませんか」
「すみません。考えごとをしていました」
「冷めてしまいましたね。温め直しましょうか」
「いえ。このままいただきます」
「お汁だけでも」
「大丈夫です。ありがとうございます」
女が首を傾げて戻っていった。冷めたパンをちぎり、口に入れた。味は分からなかった。
あの夜のことを、十一年、忘れていたわけではない。覚えていた。ただ手帖を開くたびに、その記憶の上を通り過ぎてきた。書いていないものは頁に現れない。現れないものは指に引っかからない。
引っかからないまま、十一年が過ぎた。
今日、引っかかった。パンの温みが、十一年前のパンの温みと同じだったからだ。日が違う。場所も額も違う。数字は一つも重ならない。ただ掌に残った温みだけが、同じだった。
わたしの指は、合う数と合わない数を見分ける。百三十六回、一度も間違えなかった。
だが数にならないものは、指に映らない。映らないものを、掌のほうが覚えていた。
帳面のどの欄にも入らないものが、一つある。
入れなかったのではない。入れるための欄が、はじめから無かった。
百三十六回の返済には、全部、日付と額と番号がある。一行に一つ、欠けなく並んでいる。
あの夜のことには、何も無い。日付も額も、番号も、相手の名前さえ。手帖のどこにも無いのだから、十一年、わたしの指はその上を滑り続けた。引っかかる場所が、一つも無かったのだ。
午後、帳面を棚に戻しに行く途中で、階段の下に書役がいた。
「棚の整理ですか」
「はい。午前の分を戻します」
「お手伝いしましょうか」
「お気持ちだけ。ひとりで運べます」
書役は軽く頭を下げて、奥へ消えた。
廊下の角を曲がったところで、会頭とすれ違った。
左手が、壁に軽く触れている。いつもの所作だった。その手の甲に、古い痕があった。霜焼けのあとだ。ここへ来た最初の日にも、卓に置かれた左手の甲に同じ痕を見ている。いつも見ていて、いつも数えなかった。勘定に入れるものではないから。
今日は右の腕に、外套を一枚かけていた。
仕立ての良い平服を着る人だった。襟も袖もいつも同じ形に整えている。だが腕にかけた外套だけが違った。生地が薄い。縁が擦り切れている。色も、上着の色と合っていない。
この人の身なりの中で、それだけが古かった。
「棚の整理ですか」
「はい。午前の分を戻すところです」
「ご苦労さまです」
「会頭は、お出かけですか」
「いえ。上へ戻るところです」
一瞬、右腕の外套に目が行った。
「今日は冷えますね」
「ええ」
それだけだった。
会頭は角を曲がり、上の階へ消えた。腕に古い外套をかけたまま。左手の甲の、あの古い痕を壁に沿わせたまま。
足を止めなかった。この人の持ち物を数えるのは、わたしの仕事ではない。
ただ、合わないものが二つ、目に残った。外套と、霜焼け。どちらも、この人の身なりには似合わなかった。
廊下の窓から、外の冷気が流れ込んでいた。三月だった。まだ冬だった。
帳場を閉める前に、番頭が声をかけた。
「明日の朝番は通常通りでよろしいですか」
「はい。いつもの通りにお願いします」
「今日は、よくお働きになりました」
「いつもと同じです」
「ええ。いつもと同じように、でございますよ」
番頭が帳面を棚に納めながら、振り向かずに言った。
「白湯でも召し上がりますか」
「いえ、結構です」
「お食事は」
「部屋でいただきます」
「承知いたしました。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
夜、三階の部屋に戻った。
椅子の背に、外套がかかっている。ハンナの外套だった。あの朝、裏地に湯たんぽの温みを入れてから渡してくれた。
返しに行く道は、まだ引けていない。
外套が二着、わたしの手を通っている。
一着は、十一年前の雪の晩に、名も知らない少年の肩に置いた。値は覚えていない。
一着は、家を出た朝に、ハンナの手から受け取った。値は訊いていない。
どちらも手帖には載っていない。入りでも出でもない。貸方にも借方にも立たない。
わたしの手帖には、送ったものと受け取ったものを同じ行に並べて合わせる欄しか無い。そうして十一年、帳尻を合わせてきた。あの夜のことは、どちらにも置けなかった。送ったのに、貸しではなかった。受け取ったのに、借りでもなかった。
十一年、数えたものは全部ある。百四十七行、一行も欠けていない。
数えなかったものは、行の外にある。わたしの指は行の上しか走れない。行の外にあるものには、触れることすらできない。
それでも掌は覚えていた。パンの温みも、布の重さも。指が忘れたものを、掌だけが持っていた。
あの少年は、どうしただろう。
生きていれば、二十の半ばを過ぎたころだろう。あの薄い上着のまま冬を越せたとは思えない。外套が間に合ったかどうかも、分からない。わたしの外套があの人の役に立ったかどうかも、分からない。
分からないものは、帳尻が合わせられない。
手帖を出した。最後の頁を開いた。百四十七行目のあと、空白がある。
何も書かなかった。
ここに書くものは、日付でも額でも番号でもない。この空白に置くべき言葉を、わたしはまだ持っていなかった。帳面の語彙では、あの夜を書けない。
手帖を閉じた。
外套を椅子から取り、膝にかけた。冷えた布が、しばらくして温まる。体温が移っていく。
あの少年に渡した布も、こうして温まっただろうか。
答えは、どの帳面にも無い。
窓の外は、まだ冬だった。
外套の重みだけが、膝の上にある。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話で書きたかったのは「帳面に載らないもの」でした。十一年、彼女はすべてを数えてきました。百三十六回の返済も、百四十七行の手帖も、端数の一リーヴルまで。でも、パンと外套を渡したあの夜だけは、どの行にも残していません。
数えなかったのは忘れたからではなく、数える欄が無かったのだと思います。入りでも出でもない、貸しでも借りでもない。帳面の言葉では呼べないものを、彼女は十一歳の冬に一度だけ持ちました。それを思い出すのに十一年かかった——というより、帳面の外にも残るものがあると気づくのに、それだけかかりました。
本作で回想を使うのはこの一回きりです。彼女が過去に戻るのは、ここだけです。
次の話で、もう少しだけ動きます。
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