姉なら払うべきだ
四月の朔日に、十八リーヴルを出さなかった。
十一年と四ヶ月。百三十六回。月の初めが来て窓口に並ばなかった日は、十一歳からこちら、一度もなかった。
償却された勘定に、百三十七回目はない。
分かっている。分かっていて、朔日の朝、帳場の席から表の窓口を眺めた。いつもの書役が、いつもの手つきで、硬貨を三枚ずつ数えていた。列に並ぶ人の影が窓ガラスに映っている。わたしは、その列の外にいた。十一年、一度も外にいたことのなかった列の、外に。
右手の中指が、七日経っても落ち着かなかった。ペンだこの下に十一年の癖が残っている。月の初めに硬貨を握る手の形を、指がまだ忘れてくれない。
四月八日。
商会街の通りに、春の泥が乾きかけていた。川面の薄氷は五日前に割れ、窓から帳場に入る光の角度が冬とは変わっている。インクの乾きが落ち着いて、砂の減りが冬の半分に戻った。壺を検めた。残りは八分。五月の半ばまでは持つ。
椅子の背には外套が二着、かかったままだった。ハンナのと、十一年前のと。もう羽織る季節ではない。降ろすべきかもしれなかった。降ろさなかった。
手帖の百四十七行目のあとには、何も書いていない。三月十三日以降、新しい行がない。百三十七回目を書かなかった四月一日も、白いまま残っている。
帳場の数字は、今日も一つも間違わなかった。
午後の検めを終えたとき、番頭が声をかけた。
「オルグレンさん。お客様です」
「どなたですか」
「オルグレン家の方だと。お一人です」
帳面の上で、指が止まった。
父ではない。二月に父が来たとき、番頭は名で告げた。妹でもない。妹なら「若い方」と言う。二月の二十六日に、番頭はそう言っていた。
残るのは、一人だった。
「奥の小部屋に、お通ししてあります」
帳面を棚に戻した。立ち上がって、廊下に出た。
小部屋の扉を開けた。
窓のない部屋だった。卓と椅子が二脚。壁の漆喰が冷たく、廊下から入った春の隙間風が、扉の下を抜けていた。
お母様が、椅子に座っていた。
五ヶ月ぶりだった。数えるまでもなく出た。最後に顔を見たのは、鍵を返した朝の食卓だ。あの朝、この人は金庫の中身のうち自分の首飾りだけを気にしていた。
顔が、変わっていた。頬の線が鋭くなり、目の下に翳がある。着ているものは去年の冬のもので、襟の汚れが落とされていない。仕立て屋に出せなかったのだろう。自分で直した形跡もなかった。
四日の道。乗合の馬車。一人の旅。
この人が乗合馬車に乗ったのは、たぶん生まれて初めてだろう。箱馬車でなければ門から出なかった人が、宿を三泊して、ここまで来ている。馬が出せなくなったのだ。
「お母様」
声をかけた。
「……リディア」
声が低かった。覚えていたものと、違っていた。五ヶ月前のあの声——茶が濃いと言いながら視線を逸らした、あの声ではなかった。
向かいの椅子に座った。卓を挟んで、向き合う。
この部屋で、父にも、妹にも、元婚約者にも会った。お母様は四人目だった。家族が三人とも、この商会まで来たことになる。一人ずつ、順番に。四日ずつかけて。
「お体は」
「元気なわけないでしょう」
短かった。
「お父様は」
「臥せったままよ。何を訊いても返事がないの」
あの人の癖だった。言いかけて、止まる。言い切れないまま時間に預ける。五ヶ月前から変わっていない。
「ミレーユは」
「あの子は屋敷にいるわ。ハンナと二人で、どうにか」
ハンナがまだ屋敷にいた。二月の時点で使用人の給金が遅れているという噂を廊下で聞いていた。
「ほかのお使いの方は」
「残っているのはハンナだけよ」
二十二人いた使用人が、ハンナ一人になっていた。
お母様の手が、卓の上の封筒に触れた。封蝋が押してある。見覚えのない紋だった。指の腹で触れると、蝋の縁が硬く盛り上がっている。新しい蝋だった。
「読んでちょうだい」
封はすでに切ってあった。紙を一枚、抜いた。
王暦千百十五年三月二十八日付。差出は貴族院家政監査局。宛先はオルグレン伯爵。
中身は短い。
オルグレン伯爵家の家政に関し、複数の債権者より申立てがあった。よって家政監査を実施する。裁定日は王暦千百十五年四月二十八日。期日までに現存する債務の目録および清算の見通しを提出すること。応じざる場合、家名存続の可否を含む裁定を行う。
紙を、卓に戻した。
「裁定まで、二十日です」
数は、読み終えたときにはもう出ていた。
「それで。どうすればいいの」
お母様は紙ではなく、わたしのほうを見ていた。
「債務の目録を出すように、とあります。掛けの残りが今いくらか、ご存じですか」
「知らないわ」
「大工の分は」
「知らないと言っているでしょう」
声が尖った。お母様は帳面を読んだことがない。鍵の順番も覚えなかった人だ。
「仕立て屋の分はいかがですか。催促が二通来たと」
「額なんて覚えていないわ。一通目は開けてもいない」
「薪屋は」
「分からないと言っているじゃない」
二月に父が来たとき、掛けは薪屋に四十、大工に二十八、仕立て屋に十二。合わせて八十リーヴル。それから二ヶ月、何もしないまま過ぎている。遅延の利が乗れば百を超えるかもしれない。使用人の未払い給金は——ハンナ一人なら月十二リーヴルだが、去年の暮れからなら五ヶ月分で六十。ほかの使用人の分が残っていれば、それも加わる。
帳面を見なければ正確には出ない。
「覚書を四枚、置いてまいりました。お読みになりましたか」
「……読んでいないわ」
「どなたも」
「どなたもよ」
知っていた。読まれないだろうとは、置いたときから思っていた。四枚とも、読めるように書いた。読もうとする人が、一人もいなかっただけだ。
「リディア」
お母様がわたしの名を呼んだ。声の調子が変わった。
「あなたがいなくなってから、全部止まったのよ。帳面も、掛けの払いも、年の締めも。大工も薪屋も来なくなったし、仕立て屋からは催促の手紙が二通来たわ」
「存じております」
「知っているなら、なぜ何もしないの」
「家を出たときに、お返しいたしました。帳面も鍵も覚書も、全部」
「返したって」
お母様の声が、大きくなった。
「誰にも分からないものを返して、何になるのよ」
返す言葉を、持っていなかった。
誰にも分からないものを返した——それは、そのとおりだった。読めない帳面と開けない鍵を置いていった。読む人も開ける人もいないと知りながら。
わたしが説明すればよかったのかもしれない。三十秒で済んだかもしれない。けれど説明すれば——。
その先は、十一年、同じ理由で止まっていた。
「あなたは姉でしょう」
お母様の声が、静かになった。静かになったほうが、重かった。
「姉なら、払うべきよ」
黙った。
その言葉は、形を変えて、前にも聞いていた。
「お姉様は金遣いが荒いから」。「これでお姉様も楽になるでしょ」。「読まないわ。お姉様がいるもの」。
いつも、姉という一語で、わたしの居場所が決まった。
今度は「払うべき」だった。
黙ったまま、帳面をめくるように頭の中で項目を立てた。右手の中指が、ペンだこの下で疼いた。十一年ぶんの数字を弾くときの癖だった。
掛けの八十は二ヶ月前の数字だ。利が乗り、給金の未払いが積もり、修繕費と食料の掛けが足され——帳面を見なければ出ない。帳面を見るには屋敷に行くか、ここで商会の控えを当たるかしかない。
帳面を見なければ出ない。つまり、わたしが動かなければ目録は作れない。
この人に出来ないことを、わたしだけが出来る。十一年、それがこの家での居場所だった。誰にも出来ないことを黙ってやり続けることが、あの家にいる理由だった。
だが、今は違う。
証文は無効だった。返す義務はもう、どこにもない。掛けの八十リーヴルもわたしの名で立ったものではない。オルグレン伯爵家の掛けであって、わたしの借りではない。
けれど。
「取り潰しになりましたら、ミレーユはどうなりますか」
声に出していた。
「連座よ」
お母様の声が、低くなった。
「伯爵の家の娘として、嫁入りの道も全部消えるわ。あの子はまだ十八なのよ」
十八。ペンだこのない指。帳面を一度も開いたことのない手。袖に伸ばしかけて触れずに引いた、あの手。
あの子が自分で帳尻を合わせる前に家ごと消えたら——合わせるべき帳面も、なくなる。
長い間、黙っていた。
「お母様」
声を出した。帳場の声だった。
「一つだけ、申し上げます」
お母様が、顔を上げた。
「借りたものは、返します」
お母様の肩が、わずかに下りた。安堵の形だった。指が肘掛けの布を握ったまま、力だけが抜けていくのが見えた。
けれど——全部は言わなかった。言葉の後ろ半分が、まだ形にならなかった。返す相手を——。そこから先が、まだ出てこなかった。
「よかった。それじゃあ、戻ってきてちょうだい」
声が、急に柔らかくなった。安堵したのとは違った。懇願だった。一人で残されるのが怖いのだ、とそのとき分かった。
「戻りません」
お母様の手が、肘掛けの上で止まった。
「戻りません。ここに勤めがございます」
「でも——」
「二十日あれば、目録は作れます。掛けの先に連絡を取って、額を洗い出します。それはここからでも出来ます」
お母様は、椅子の肘掛けを握ったまま、わたしを見ていた。
「あなたは帰ってこないの」
「帰るところは、あの家ではございません」
「……あの家って、あなたの家でしょう」
「わたしが育った家です。帰る家ではありません」
言い切った。
お母様は、しばらく黙っていた。唇が動きかけて止まった。何か言おうとして、言葉にならなかったのだろう。この家の人は、みんなそうだった。言いかけて、言えずに終わる。
お母様が、立ち上がった。
「……ミレーユが、待っているわ」
それだけ言って、封筒も持たずに部屋を出た。足音が廊下を遠ざかっていった。少し引きずるような歩き方だった。四日の道の疲れが、足に残っているのだろう。
一人になった。
卓の上に、貴族院の通知が残っていた。お母様は持っていかなかった。忘れたのか、置いていったのか。どちらでもよかった。紙は、ここにある。
小部屋を出て、帳場に戻った。
番頭が帳面を閉じるところだった。
「お済みですか」
「はい」
「長うございましたね。一刻と少しです」
番頭は、いつもどおり時間で測っていた。
「番頭さん。少しお時間をいただけますか」
「はい」
「オルグレン家に関わる掛けの洗い出しに、商会の帳面をお借りしたいのです。貴族院の家政監査が入りました」
番頭の指が、帳面の上で止まった。
「……裁定まで、二十日でございますか」
「はい」
「承知いたしました。会頭に確認いたします」
番頭は席を立ち、四階のほうへ歩いていった。
しばらくして、足音が二つ降りてきた。
番頭と、もう一人。
会頭が、帳場の入り口で足を止めた。左手が、壁に添えられていた。
「聞きました」
短い声だった。
「必要な帳面は、番頭が出します」
それだけだった。訊かなかった。何も足さなかった。頼む前に、もう動いていた。昨夜の外套のときと同じだった。
目が、一度だけ合った。
会頭は壁から手を離して、また四階へ戻っていった。
帳場に一人、残った。
窓の外はまだ明るかった。春の日は長い。冬のあいだ四刻で暗くなった窓が、今はまだ光を通している。
手帖を出した。
百四十七行目のあと、白い隙間。その上に、百三十六行ぶんの日付と金額が並んでいる。一行も欠けていない。十一年、一度も書き損なわなかった記録が、この手のひらの中にある。
その下に、四月八日、と書いた。額は書かなかった。番号も振らなかった。
二十日。
手帖を閉じた。貴族院の通知を、その上に重ねた。
紙は、一枚きりだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ここから第三アーク「返済編」が始まります。
二十三話で外套を受け取り、初めて「欲しかった」と口にしたリディアのもとに、ひと月後、家族がまた来ました。今度の用件は温もりとは正反対のもので、「払え」でした。
「姉なら払うべきだ」という言葉を母に言わせるかどうか、実はかなり迷いました。でもこの家族は悪意で動いているわけではないんです。リディアが全部やってくれるという風景の中で十一年暮らしてきただけで、風景がなくなったから「なんとかして」と言いに来た。それが残酷に見えるのは、読者の方がリディアの十一年を知っているからです。
リディアには返す義務がもうありません。証文は無効でした。けれど「借りたものは返します」と彼女は言いました。この言葉の後ろ半分が、まだ出てきていません。いつ出てくるか——そのとき意味が少し変わっているはずです。
次話、手帖が開きます。百三十六行分の記録が、何を証明するのか。
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