一度も有効になっていません
段は、上から数えた。
一つ、二つ、三つ。そこまでは、昨日も見えていた。
四つ目から先は、折れている。
廊下の燭台から、手燭へ火を移した。
芯は白いままだった。焦げるまでに、少しかかった。
番頭が、鍵を手のひらに載せて待っている。
「日の出でございます」
「はい」
「戸は、下にございます」
「うかがっております」
「棚は六つ。年ごとに括ってございます」
「六つ」
「千百三年でしたら、一番奥の下の段です」
「……ありがとうございます」
「灯りは、そちらの一つきりでございます」
「足ります」
「何刻まで、と伺ってもよろしいですか」
「朝の束が出るまでで」
「一刻半でございます」
「充分です」
「下は、卓が一つきりでございます」
「一つあれば足ります」
「手が冷えます。息をかけてお解きください」
「そういたします」
番頭が先に降りた。わたしは、その二段うしろを降りた。
この人の踵は、段の真ん中を踏まない。端のほうを踏む。
目で数えようとした。
出てこなかった。この二月、目のほうは当たらない。
見えているものが、数のほうへ渡っていかない。
足で数えた。
踵が石に当たるたびに、一つずつ増える。
こちらは、遅れなかった。
十七。
三階までは、二十二ある。地下までは、十七だった。
昨日まで知らなかった数が、一つ埋まった。
番頭が鍵を回した。
錠の落ちる音が、思っていたより高かった。
「お済みになりましたら、上へお声がけください」
「はい」
「わたくしは、帳場におります」
「はい」
「束は、出した順に戻していただきます」
「承知しました」
「縄は、こちらでかけ直しても構いません」
「自分でいたします」
「一頁もでございます」
「うかがっております」
三度目だった。
この人が同じことを三度言うのを、はじめて聞いた。
戸が、内側へ開いた。
冷えが、足首から上がってきた。外の寒さとは、別のものだった。
風がない。動かないほうの冷たさだ。
書庫は、思っていたより低かった。
手を伸ばせば、石の梁に届く。窓は無い。
空気が、どこへも流れていかない。
棚が六つ。壁づたいに並んでいる。
束が、年ごとに縄で括ってあった。結び目に、木の札が下がっている。
札には、年が書いてあった。墨が薄い。書いてから、間があいている。
千百十四。千百十三。千百十二。
右から左へ、遡っていった。
一つ遡るごとに、指の腹に埃が付く。
一番奥の、下の段で止まった。
千百三。
札の字は、どれも同じ手だった。三十年、同じ人が括り直してきた結び目になる。
縄が、他のものより硬い。解いた者が少ない、ということだった。
指が、かじかんでいる。結び目に、爪が入らなかった。
息を二度かけて、ようやく入った。二度目で、ようやく指の腹が言うことをきいた。
縄が、床に落ちた。束が、少しだけ緩んだ。
紙の匂いがした。埃ではない。乾いた膠の匂いだ。
段のほうで、足音がした。
降りてくる。番頭の足音ではなかった。
会頭だった。
地下に降りる支度をしていない。上から、そのまま来た格好だ。
髪が、片方だけ寝ている。今朝、鏡を見ていない人の頭だった。
「おはようございます」
「……おはようございます」
「番頭は、まだ帳場です」
「どなたか、立ち会われますか」
「私が立ち会います」
「……はい」
それ以上は、訊かなかった。
「灯りは、足りていますか」
「足りております」
「寒くはありませんか」
「動いておりますので」
「そうですか」
「ほかの年も、見てよろしいですか」
「書式には、千百三年とございました」
「……はい」
それきりだった。
なぜここにいるのかは、訊かなかった。
訊けば、この人は答える。答えられることしか、この人は答えない。
左手が、棚の縁に触れていた。
束を、卓へ運んだ。卓は壁際に一つきりだった。
脚の一本に、折った紙を噛ませてある。手燭を、その端に置いた。
枚数を数えた。
二十九。
もう一度数えた。二十九だった。指のほうが、先に止まる。
下から繰った。帳場の控えなら、十二月の分は下にある。
三枚めくって確かめた。同じだった。
四枚目に、オルグレンとあった。厚みで言えば、下から指一本ぶんの位置だ。
抜いて、灯りの下へ置いた。
紙は、思っていたより厚い。縁が、わずかに波打っている。
湿ってから乾いた紙の反り方だった。十一年、ここで乾いている。
声に出して読んだ。
誰もいない部屋でそうするのは、癖のようなものだ。
今日は、誰もいない部屋ではなかった。
「千百三年、十二月一日」
「はい」
「ハルヴァ商会」
「はい」
「元本、千八百リーヴル」
「はい」
「月々、十八リーヴル」
「はい」
「納め先、ベルヌ取次」
「はい」
「毎月、朔日」
「はい」
「取立ての定めは、書いてございません」
「ありません」
「催告の定めも」
「ありません」
会頭は、こちらを見ていなかった。紙のほうを見ていた。
紙の右の下あたりに、目が置いてある。
「債務者、リディア・オルグレン」
「……はい」
そこだけ、間が空いた。
名の下に、線が一本、細く伸びている。
その細さを、どこかで見たことがある。
どこで見たのかは、出てこなかった。
次の欄が、利率だった。
これを見に来た。終わりの日付は、ここからしか出ない。
十五度訊いて返らなかったものが、この欄の中にある。
指を、そちらへ動かそうとした。
動かなかった。
右の下へ、先に行った。
指は、少し戻っていた。
親指の腹が、紙の端に触れた。
平らだった。
封蝋には、厚みがある。
押した縁が盛り上がって、爪がそこで引っかかる。
引っかからなかった。
つるりとしている。
指を、もう一度往復させた。同じだった。
四月ほど前に、家で控えを開いている。
あのときも、平らだった。控えだから、と思った。
束から、別の一枚を取った。
同じ年の、別の家のものだ。名は読まなかった。
右の下を、親指でなぞった。
盛り上がっている。
爪が、そこで止まった。
二枚を、並べて置いた。
右の下だけを、続けて往復した。
目は、閉じたままにしておいた。
片方だけが、平らだった。
目を開けて、灯りのほうへ寄せた。
紙の色が、そのまま端まで続いている。何も無い。
手燭の火に、両手をかざした。
指の腹が戻るまで、数えて二十かかった。一枚なら分かる。二十九枚を続けるには、これが要る。
「右の下だけを、順に触ってまいります」
「どうぞ」
二十九枚を、卓の上へ広げた。右の下だけを、順に触っていく。
読まなかった。名も、額も、日付も見なかった。見れば、指が先に決める。
折り目も染みも引っかかる。封蝋の縁だけが、角が立つ。
爪が引っかかるたびに、一つ数える。
一、二、三。
この数え方なら、出た。
九枚目で、爪が滑った。
数は、増えなかった。その一枚を、脇へ置いた。
残りは、全部引っかかった。
一枚は縁が欠けていた。盛り上がってはいる。数に入れた。
最後の一枚まで、指が同じところで止まる。
二十八。
脇の一枚を、灯りの下へ寄せた。
オルグレンとあった。
「会頭」
「はい」
「二十九枚、触りました」
「はい」
「二十八枚に、押してございます」
返事は、なかった。
「一枚だけ、平らです」
「……はい」
「数えていただけますか」
「二十八です」
「わたしも、二十八でした」
「わたしの数え違い、ということは」
「ありません」
「三度目を数えましょうか」
「同じです」
束を、元の順へ戻した。
自分の一枚だけ、卓の真ん中に残した。
「これは、原本でございますね」
「原本です」
「商会控では」
「ありません」
「地下にあるのは一通だけと、伺いました」
「一通だけです」
「これが、その一通でございますか」
「それです」
「ほかの綴りに、もう一通ということは」
「ありません」
「よその蔵に」
「ありません」
「この紙は、いつからここにございますか」
「十一年です」
「動かしたことは」
「ありません」
息を、一つ吸った。
「右の下に、商会印を押すと伺いました」
「押します」
「押してございますか」
「いいえ」
「剥がれた跡は」
「ありません」
「蝋の粉は」
「落ちていません」
「印の形は、決まっておりますか」
「決まっています」
「大きさは」
「銀貨ほどです」
「その跡が、ここにございますか」
「ありません」
「見ていただけますか」
「見ています」
「触っていただけますか」
会頭が、卓のそばまで来た。
左手が紙の端に触れて、指の腹が右の下を一度だけ往復した。
「いかがでしょう」
「平らです」
「こちらの一枚は」
「盛り上がっています」
「押し忘れ、ということは」
「ありません」
「あとから押すことは」
「できません」
「では、この紙は」
会頭は、すぐには言わなかった。
左手が、紙から卓の縁へ移った。
「その証文は、一度も有効になっていません」
言い終えて、この人は黙った。
それきり、何も足さなかった。
「いつからでございますか」
「初めからです」
「千百三年の、十二月から」
「そこからです」
「一度も」
「一度もです」
「途中で、一度でも」
「ありません」
「もう一度、触ってもよろしいですか」
「どうぞ」
同じところを、もう一度なぞった。
平らだった。三度とも、同じだった。
石の床から、冷えが上がってくる。
膝から下が、もう感覚を落としはじめていた。
紙を、卓に置いた。手は、震えていなかった。
指を、一度開いて、閉じた。関節が、握った形のまま戻らない。
懐から、手帖を出した。
表紙が冷えている。開くのに、少し力が要った。
十一年ぶんの指の脂で、端が黒ずんでいる。
番号のある頁を、指で辿った。
一から、百三十六まで。
飛んでいるところは、一つも無い。
合っている。
この頁だけは、指を置けば出る。
「百三十六回、納めております」
会頭の指が、卓の縁を一度なぞった。
「そのうち、百三十二回が、あの家にいたあいだの分です」
指を、四行だけ下へ動かした。
「あとの四回は、こちらの給金から納めました」
「……はい」
「日付も、額も、立会人も控えてございます」
「はい」
「受領証も、百三十六枚ございます」
「拝見しました」
「あれは、何の紙になりますか」
「払った紙です」
「借りた紙は」
「ありません」
もう一度、息を吸った。
「二千四百四十八リーヴルになります」
「はい」
「元本は、千八百と書いてございます」
「書いてあります」
「差は、六百四十八です」
否まれなかった。
「六百四十八の割り方が、分かりませんでした」
「利率と、起算の日が要ります」
「そこに書いてあります」
両方とも、目の前にある。
昨日、この差を指で出した。
出してから、割るための二つを取りに来た。
割らなかった。
割るもとが、無い。
指を、利率の欄まで動かした。
今度は、動いた。
動いても、何にもならなかった。
「終わりの日付を、出しに参りました」
「はい」
「出ますでしょうか」
「出ません」
「利率が、書いてございますのに」
「書いてあるだけです」
「では、いつまで、という日は」
「ありません」
「はじめから、無かったのでございますね」
「はい」
どこかで、水が一滴落ちた。
落ちた先も、石だった。
証文を、束のほうへ戻した。
角を、下の紙の角に合わせた。
息を、一つ吐いた。
「十一年、間違ったものを、正しく返し続けておりました」
手燭の火が、一度だけ傾いた。
石の梁の下は、風の通るところではない。
会頭は、動かなかった。
「戻してもよろしいですか」
「どうぞ」
「順は、下からで合っておりますか」
「合っています」
束を、元の順に重ねた。日付の順に揃えて、上から手のひらで押さえる。
押さえたところが、紙の厚みのぶんだけ沈んで戻った。
もう一度、枚数を数えた。
二十九。
縄をかけた。
結び目は、元の形にならなかった。
解いた者の指の癖が、そのまま残る結び方だった。
札を、下へ垂らした。
千百三。
棚の、一番奥の下の段へ戻した。
手を離すと、束は隣の年の束にもたれて止まった。
段の上から、足音が下りてきた。
番頭だった。手には、何も持っていない。
「お済みでございますか」
「済みました」
「お出しになったものは」
「戻しました」
「枚数は」
「二十九でございます」
「棚は」
「一番奥の、下の段です」
「縄は」
「かけ直しました」
「結び目が、変わっております」
「わたしのは、そういう結び方です」
「……はい」
「一刻半、かかりましたでしょうか」
「一刻と、少しでございます」
「そうですか」
「灯りは、足りましたか」
「足りました」
「芯は」
「まだ、ございます」
「では、上でお預かりします」
「自分で持って上がります」
「……はい」
なぜ、とまでは訊かれなかった。
この人は、訊かない。昨日から、そうだった。
卓の端で、手帖を開いた。
三月十日、と書いた。
額の欄には、何も書かなかった。
番号も、振らなかった。
百四十七行目になる。
番号のある行が、百三十六。
番号の無い行が、十一。
揃えたつもりは、無かった。
手帖を閉じて、懐へ入れた。
入れてから、上から一度、外套ごしに押さえた。
手燭を持って、段を上がった。
数えようとした。
出てこなかった。
降りるときは、足で出た。
上がるときは、足でも出なかった。
十七だと、知っている。
知っているだけだった。
途中で、一度止まった。止まった理由は、すぐには出てこなかった。
石の壁に、右の手のひらを付けた。壁のほうが、指より冷たかった。
また上がった。
廊下は、もう明るかった。
窓から日が入って、石の床に枠の影が落ちている。
影の縁が、朝のうちだけ薄い。
手燭の火は、見えなかった。
消えたのではない。日のほうが強いだけだ。
芯を見た。
昨日、番頭が新しいものに替えている。
焦げているのは、先だけだった。
爪の、半分にも足りない。
十一年ぶんを、この火で見た。
燃えたのは、それだけだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
十八話かけて、ようやくこの回に着きました。書きながらいちばん気をつけたのは、彼女に泣かせないことです。この人は取り乱しません。まず数を確かめます。そういう人だと十八話ぶん書いてきたので、ここで崩したら全部が嘘になると思いました。
右下の手触りを、視覚より先に置きました。封蝋は押した縁が盛り上がるので、爪が引っかかります。引っかからない紙は、目より先に指が気づきます。二十九枚を名前も読まずに触っていく場面は、書いていていちばん長く時間がかかりました。彼女はこういうやり方でしか確かめられない人です。二十八と二十九の差が、この回の全部です。
会頭には、理由を一言も言わせていません。なぜ十一年黙っていたのか、彼はここで説明しません。慰めもしません。「一度も有効になっていません」だけです。この人の分は、まだ清算されていないので。
「百三十二」は、この作品の題になっている数字です。今回、彼女はそれを総数としては言いません。総数は百三十六で、百三十二はあの家にいたあいだの分で、残りの四回は商会の給金から出ています。数を間違えない人に、古い数字を言わせるわけにはいきませんでした。
結びは、芯にしました。前話の終わりで、番頭が替えたばかりの芯を「まだ一度も焼けていない」と書きました。十一年ぶんを見るのに使ったのが、その芯の先の、爪の半分ぶんです。
次話、彼女はもう一度あの一枚の前に座ります。見るところが、今度は変わります。
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