原本照会
十五度目になる。
残りの回数を訊いたのは、これまで十四度だった。十四度とも、答えは返っていない。
三月九日の朝、その十五度目を書いた。これまでは窓口で、口に出して訊いていた。紙にしたのは今日がはじめてだ。
文言は、十四度ぶん頭に入っている。声で言ってきたものを、そのまま写した。
書き終えて、窓口へ回す紙受けの前まで行った。
そこで、止まった。
紙受けに入れれば、書役が扱う。帳役が寄せる。番頭のところへ上がる。
順としては、正しい。同じ順で、十四度、消えている。
紙を、折らずに持ち直した。
妹に訊かれたのは、二月二十六日だった。いつまで続くのか、と訊かれて、分かりませんとしか答えられなかった。
セドリック様には、四日前に言った。出す権限は、ございません、と。
権限の要らないものが、一つだけある。訊くことだ。
自分の足で、持っていくことにした。
帳場は、朝の束が出はじめる時刻だった。
番頭は卓の端で、頁を指で押さえていた。人差し指の腹が平たい。押さえ続けた指の形だった。
「番頭さん」
「オルグレンさん」
「照会を、お願いに参りました」
「窓口ではなく」
「窓口では、十四度うかがいました」
「……承知しました」
紙を渡した。この人は両手で受けて、上から下まで読み、それから日付のところへ目を戻した。
「残りの回数でございますね」
「はい」
「ご自分の家の勘定でございます」
「さようです」
「本来なら、担当を替えます」
「替えますか」
「替えておりません」
「年明けに一度、いただいております」
「一月一日でございます」
「回っております」
「どちらまで」
「そこから先が、原本でございます」
原本は地下にある。それは去年の十一月から知っている。
知っているのに、そこから先へ進んだことが一度もない。
「元帳では、足りませんか」
「足りません」
足りない理由を訊いた。訊けば答える人だ。四月ほど、そばで見ている。
「証文は、三通ございます」
「三通」
「原本が一通。商会控が一通。債務者控が一通」
「わたしの手元にありますのは」
「債務者控でございます」
「帳場にございますのは」
「商会控です。年ごとに縄で束ねてございます」
「では原本は」
「地下に、一通だけ」
三通。数としては、覚えやすい。
帳場の奥で、束を解く縄の音がした。朝の分が出はじめている。
この人は、そちらを見なかった。
「違いは、どこにございますか」
「印でございます」
「商会印ですね」
「原本にだけ押します」
「控えには」
「押しません」
「なぜでしょう」
「押せば、控えが二枚目の原本になりますので」
あの冬に、同じことを自分に言い聞かせた。控えだから、印が無い。あのときも合っていた。
「押すのは、どなたです」
「会頭でございます」
「番頭さんは」
「押しません。三十年、一度も」
印のある紙は、世に一枚しかないということになる。
「その一枚に、印が無かった場合は」
「ございません」
「もし、ということでございます」
その指が、頁から離れた。
「……もし無ければ、その債務は立っておりません」
「立っていない」
「初めから、発生しておらぬことになります」
「法として、でございますか」
「王都の商事裁定院は、そう見ます」
「控えでは」
「何枚積んでも、債務は主張できません」
「原本だけが」
「原本だけでございます」
筋が通っている、と思った。
印のある紙が一枚だけあって、その一枚だけが債務を立てる。二枚あってはいけないし、一枚も無くてもいけない。
穴の無い決まりだった。穴の無い決まりは、気持ちがいい。
十一年、この決まりの中に自分がいたのだと思うと、落ち着いた。
「では、手元の控えだけでは」
「ご自分の債務が生きているかどうかは、分かりません」
「確かめる道は」
「原本を見るほかにございません」
当たり前のことを言われた。当たり前のことは、たいてい動かない。
十一年、ベルヌの帳場に納めてきた。取次は受領証を出し、月ごとに本館へ帳面を送る。
原本のある建物に入ったのは、去年の十一月がはじめてだった。
「組合の監査は、原本を見ますか」
「見ません」
「一度もでございますか」
「触れません」
「数えますのは、何です」
「商会控の枚数と、元帳の勘定の数でございます」
「中は」
「開きません」
「十二月の四日も」
「四百七十一で通りました。数だけでございます」
三日かけて見つけた一枚を、思い出した。裏に、もう一件が書いてあった紙だ。
あのときも、誰も中を見ていなかった。数は三度とも合っていた。
数える者は、紙を数える。中身は数えない。
「債務者は、自分の原本を見られますか」
「見てはならぬとは、書いてございません」
「見せよとも」
「書いてございません」
「どちらに寄ります」
「会頭の裁量でございます」
「分かれ目は」
「そこも、書いてございません」
書いていない欄は、埋まらない。埋まらない欄を、十一年ぶん見てきた。
「終わりの日付も、原本でございますか」
「利率と、起算の日が書いてございます」
「元帳には」
「立った額しか写しません」
卓の端で、指を動かした。
元本は千八百。月に十八。百回で終わる勘定だった。
今日までで百三十六回。二千四百四十八になる。
差は、六百四十八ある。
六百四十八が、どういう割り方で立った利息なのか。それが出なければ、残りの回数も出ない。
「原本を見なければ、終わりの日付は出ないのですね」
言ってから、それが今日はじめて自分の言葉になったことに気づいた。
十四度、他人に訊いてきた。十五度目に、訊き方のほうが変わった。
「出ません」
「返らなかった十四度は、どこで止まっておりますか」
「わたくしの手前です」
「番頭さんが止めておいでですか」
「止めてはおりません。上げております」
「では」
「上げた先が、動いておりません」
「動かない理由は」
「うかがっておりません」
「訊かれませんでしたか」
「訊きません」
訊かない人だ。訊かれたことにだけ答える。
「答えが無いから返らないのではないのですね」
「誰も、開いておりません」
「……はい」
答えが無いのではない。開いていないだけだ。
開いていないものは、開けばいい。
帳場を出て、廊下を奥へ歩いた。
突き当たりの手前で、床が切れている。石の段が下へ折れていて、灯りだけが下から上がってくる。
三段目までは見える。その先は、折れて見えない。
数えようとした。
出てこなかった。
二月からこうだ。指のほうは動くのに、数が上がってこない。
見えている段を、指で押さえるように数え直した。三つ押さえたところで、口のほうは八まで行っていた。
段の上に立って、片足を下ろした。
下ろしただけで、体が止まった。
決まりを、足の裏で受け取った。
足を戻した。石は冷たいままだった。
「オルグレンさん」
衣擦れの音がした。振り返ると、番頭だった。
「降りられますのは、帳役からでございます」
「うかがっております」
「わたくしは降ります」
「わたしは、帳役になれば」
「試用が明けて、一年です」
「八月と、二十五日でございます」
言ってから、勘定が合っていることを確かめた。十二月の四日で一年になる。
「もう一つ、道がございます」
「会頭の許しでございますね」
「あれば、明日でも降ります」
「許しは」
「三十年、出たのを見たことがございません」
三十年。この人の数え方だ。
「申し出る書式は、ございますか」
番頭が、こちらを見た。相手の手元を見る人が、顔のほうを見た。
「……ございます」
「どちらに」
「書式綴りの、後ろのほうです」
綴りを出してもらった。前のほうは端が黒ずんでいる。何度も繰られた綴りだ。
後ろのほうは、開くのに指の力が要った。
「書いた者は」
「二人、存じております」
「出ましたか」
「二人とも、出ておりません」
書式は、宛先から署名まで六行あった。理由の欄だけが、他より広く取ってある。
六行なら、埋まる。
案件の欄に、オルグレンと書いた。
十二月の古勘定で、同じ字を十四度書いている。十五度目は書きかけて、二重線を引いた。
自分の家の名を案件の欄に書くのは、それ以来だった。
理由の欄で、筆が止まった。
残りの回数を知るため、と書けば足りる。足りるが、それは十四度、口にして返らなかった文言だった。
書き直した。
——終わりの日付を、自分で出すためでございます。
「私情でございましょうか」
「……欄には、理由とだけございます」
署名をした。オルグレンと書いた手が、そこだけ少し傾いた。
「お預かりします」
「どちらへ」
「会頭へ上がります」
「いつ頃に」
「今日のうちに」
今日のうち、という言葉を、この人はめったに使わない。
午後、廊下で呼ばれた。
会頭が、段の上に立っていた。手に、朝の書式がある。
「これは、あなたが書いたのですか」
「はい」
「書式は、どこで」
「綴りの、後ろのほうにございました」
会頭は、紙を見ていた。読んでいる長さではなかった。
左手が、段の手すりに触れている。
「明日の朝に」
「……はい」
「番頭が、開けます」
会頭が、書式の余白に筆を入れた。二行だった。読ませてはもらえなかった。
そのあと、下の端に日付と名を書いた。
「これは、番頭へ回します」
理由は、言わなかった。こちらも訊かなかった。二度訊いて出てくる答えなら、一度目に出ている。
会頭は、その段を降りなかった。廊下を戻って、上の階へ上がっていった。
戸が開いて、番頭が出てきた。手に、朝の書式がある。
「出ましたか」
「余白に、二行ございます」
「読みましたか」
「読める字ではございませんでした」
「……左様で」
それきり、何も訊かなかった。朝からずっと、そうだった。
半刻ほどして、手燭を持ってきた。
「下は、暗うございます」
「頂戴します」
「芯は、新しいものに替えてございます」
「ありがとうございます」
「日の出に、戸を開けます」
「うかがいました」
「一つだけ、申し上げます」
「はい」
「原本は、束から出しましたら、書庫の外へは出せません」
「一頁も」
「一頁もでございます」
十一月にも、同じ言い方を聞いた。この人は、決めたことを二度は言わない。
二度言うときは、決まりのほうを言っている。
夜、段を上がった。
二十二段ある。踊り場で二つに折れる。数えると、二十二で出た。
この段だけは、まだ出る。冬のあいだ、毎日上がっているからだ。
部屋で手帖を開き、三月九日と書いた。額も番号も書かなかった。百四十六行目になる。
書式の写しは取らなかった。書いたものは、もう手元に無い。手元に無いものは、書きようがない。
手帖を閉じた。
明日、降りる段がある。
三階までは二十二だ。地下までがいくつあるのかは、知らない。
十一年、数えられるものは数えてきた。数えていないものが、明日ひとつある。
手燭を、卓の端に置いた。
芯は、まだ一度も焼けていない。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、決まりの話ばかりの回でした。証文が三通あること、印がどれに押されるか、監査が何を数えて何を数えないか——そういうものを、なるべく彼女の手の動きに乗せて出したつもりです。番頭のヴァレは訊かれたことにしか答えない人なので、説明が進むということは、彼女が訊きつづけたということでもあります。
書式綴りの後ろのほうに、ほとんど誰も開かない紙が一枚だけ綴じてある、という形にしました。番頭が知っているかぎりで、三十年に二人。二人とも、許しは出ていません。決まりとして道は用意されているのに、通り抜けた者がいない。この作品の意地の悪さは、たいていこういう形をしています。彼女はそこに六行を埋めます。怒鳴ることも泣くこともせず、書式を探して埋める——それが彼女の闘い方です。
会頭には、二言だけ言わせました。理由は言わせていません。言わせると、この回が彼の回になってしまうからです。
結びは、まだ数えたことのない段にしました。三階までは二十二段だと、彼女は九話からずっと知っています。下がいくつあるかは、知りません。数える人が、数えていないものを一つ持って眠る夜の話でした。
次話、地下へ降ります。
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