第8話「名前を呼ばない人の、事情」
匙が、また宙をさまよっている。
スープをすくおうと屈むたびにしゃっくりが出て、そのたび体が指2本ぶんだけ浮く。ひくっと鳴って、ぽんと浮いて、すぐまた床へ降りる。パンへ手を伸ばせば浮き、水を飲もうとすれば浮く。毒蛇と恐れられた女の威厳が、ひとつ鳴るごとに指2本ずつ天井へ逃げていく。
「オクタヴィアさん、さっきから、ぴょこぴょこしてる」
「ひくっ。……好きで跳ねているわけでは、ひくっ、ありませんことよ」
「しゃべるたびに浮いてる!」
「黙っていても浮きますの。ひくっ。……ほら」
虹色や巨大化に比べれば、かわいらしい副作用ではある。かわいらしいのですけれど、令嬢の優雅さとは致命的に相性がよろしくない。
匙を諦めて、パンを口へ運ぶ手ごと自分から浮いてみた。落ちてくるまでの一拍で齧る。
三度目でようやく間合いがつかめた。慣れというのは、こういうところにばかり早く来る。
「オクタヴィアさん、コツつかんでる」
「つかみたくない類いの要領ですけれど」
治験室の瓶は、栓を抜いた匂いだけが昨日と同じだった。空にすると、しゃっくりの間隔は少しだけ間遠になる。
クラウスはわたくしが浮くたび、巻き尺の目盛りを読み上げた。指2本ぶん。ばらつきは指半分。
着地まで2拍——いや1拍半のときがある。喉が鳴ってから浮くまでが昨日より半拍速い。人にではなく手帳へ向けた声が、そのまま後ろへ続いていく。人が宙で跳ねているというのに、この方の関心はどこまでも目盛りのほうへ向いていた。
「効かないな。浮いても体重は変わらん」
「ひくっ。……淑女の体重に言及なさらないで」
「していない。変わらんと言った」
「それを言及と申しますのよ」
手帳が閉じられて、いつもの一言が置かれる。
「これも効かない。次だ」
浮いたついでに、わたくしはかねての疑問を口にした。
「クラウス。あなたはなぜ、わたくしを7号としかお呼びにならないの。ミントのことも番号でしか書いていらっしゃらないでしょう」
羽根ペンが急に速くなった。さっき書き終えたはずの数字が、その下へもう一度並んでいく。顔は上げない。
「管理用だ。名前より間違えにくい。それだけだ」
「どちらが紛らわしいのやら。7号とお呼びの被験者は、この地下に何人いらっしゃるの」
「今は一人だ」
「では、そう呼ぶ必要はどこにも」
「番号だ」
それだけ。またその言葉。取りつく島もない。もっとも番号を口にする直前、この方の喉が一度だけ何かを飲み下すように上下した。それをわたくしは見逃さなかった。
思いがけず答えをくれたのは、廊下でびくついていたポッケだった。
こちらを見つけて逃げようとして、逃げ損ねた顔だった。
「あの、7号さん。……アーベントロート先生のこと、気にしてますよね」
「別に。番号呼びがずいぶん頑ななものですから」
「やっぱり気にしてるじゃないですかぁ」
「そうは申しておりません。頑なだと申し上げただけですわ」
ポッケは辺りをうかがって、声を落とした。
「ここだけの話ですけど。先生、昔は被験者さんを名前で呼んでたんです。僕が来るより、ずっと前だそうですけど」
「以前は、と」
「はい。何年か前に……担当してた被験者さんが一人、亡くなって。先生の薬でも助けられなかったって」
しゃっくりが喉で止まった。浮きかけた体が行き場をなくして、そのまま床へ落ちる。
踵が石を打った音だけが、廊下の先まで転がっていった。
「それから先生、番号でしか呼ばなくなったんです。名前を口にすると情が移るからって。次に同じことが起きたら……きっと、こわいんだと思います」
「その話、あなたはどこで」
「……先生の古い記録簿です。番号のところに、消した跡があって。消したのに、力の入れ方で名前が読めちゃって」
「読んだのね」
「はい。見ちゃいけないやつでした」
ポッケの声が細く震えていた。声は落としているのに、息だけがやたらと大きい。
いつのまにか隣に来ていたミントが、めずらしくしんみりと頷いた。
「あたしも噂で聞いた。クラウス先生、ほんとはすごく優しい人なんだって。優しすぎて、人が死ぬのがいちばんこわいんだって」
重い話の途中で間の悪いしゃっくりが出て、体がまたふわりと浮いた。しんみりした空気の中で一人ぷかぷかしている令嬢は、我ながら形無しにも程がある。それでも二人は笑わなかった。浮いたわたくしを、そっと静かな目で見上げていた。
夕刻、消灯前の治験室へ、わたくしは戻った。
クラウスは机の上で瓶を並べ替えている。振り向きもしない。
「クラウス。伺いたいことがございますの」
「今日のぶんは済んでいる」
「薬の話ではございませんわ。……あなたが昔、被験者を名前で呼んでいらしたと聞きました。その方を助けられなかった日から、番号にお変えになったとも」
瓶を持ち上げた手が、棚の縁で行き場をなくした。
「名を呼ばずにおくのは、忘れるためですの。それとも、覚えてしまわないためですの」
「……」
「わたくしを7号と呼ぶのも、いずれ死ぬかもしれない者を、名前で覚えたくないから——」
クラウスは椅子を引いて立ち上がった。何も言わない。棚から乳鉢を下ろし、こちらへ背を向けて、薬草を潰しはじめる。石の当たる音が規則正しく続いた。ひとつ、ふたつ、みっつ。数えられるほど正確に。
この方は、答えない代わりに手を動かす人らしい。命じるでも遮るでもなく、背中で会話を終わらせる。今日の逃げ方は、これまででいちばん静かだった。
……触れてはいけない場所ほど、この口はよく届きますのね。
退がろうとして、扉の前で足が止まった。乳鉢の音が、少しだけ乱れている。潰しすぎた薬草の青い匂いが、扉のこちらまで濃く流れてきていた。あれはもう薬にならない量ですわ。
「クラウス。……あの、ごきげんよう」
「……ああ」
背中は向いたままだった。それでも返事が返ってきたぶんだけ、追い出された初日よりはましというものである。
寝台へ戻ってからも、しゃっくりはなかなか収まらなかった。ひくっと鳴っては浮き、天井の染みに近づいて、また落ちる。何度も上下しているうちに、宙のほうが少し落ち着くようになった。
この地下でいちばん強がっているのは、あの鉄面皮のほうである。
余りもののスープ。5行だけ字の小さい記録。夜ごとの明かり。ぜんぶ——いいえ。考えすぎですわ。あの無表情に、そこまでの情があってたまるものですか。
しゃっくりが止まったのは、消灯の鐘のあとだった。浮かなくなった体は、やけに重たく感じられる。
クラウス・アーベントロート。効かない薬を毎日くださる、嘘つきの錬金術師。あなたはいったい何を抱えて、この暗い地下にいらっしゃるの。
その問いを持て余していた頃、地下の空気がこれまでにない緊張で張りつめた。国の監督官が視察に来るという。
次話:「偉い人の前ほど、体は正直で」




