第7話「あの子には、帰る理由がある」
「花壇が飯を食ってる」
誰かがそう言って、食堂の隅で笑い声が上がった。
反論しようと口を開いた拍子に、頭から薄紅の花びらが一片こぼれる。腹を立てたことまで、こうして目に見えてしまう。
朝から、わたくしの頭には花が咲いていた。薄紅の小花が幾つも根を張って、指で触れるだけではらはらとこぼれる。香りまで本物で、甘く青い、野の匂いがした。厄介なのは、この花に癖があること。心が動くと散るのだ。
「オクタヴィアさーん、見て見て! あたしも!」
向かいの卓で、ミントが自分の頭を指さして跳ねている。同じ薄紅が、亜麻色のくせ毛の隙間から咲きこぼれていた。今朝、寝台で二人そろって同じものを生やしていたときの、あの悲鳴のほうが大きかったくらいである。
「お揃いだね! なんか、うれしいな」
「うれしくありません。頭から植物が生えるのは、健康上よろしくないと思いますけれど」
「えー、いいじゃん。かわいいのに」
「かわいさで健康は買えませんのよ。……いいえ、買えるのでしたら少々買い足しますけれど」
ミントが笑うと彼女の頭から薄紅が散り、つられてわたくしの頭からも一片落ちる。被験者服を着た花畑が二つ、卓を挟んで向かい合っている。椀のまわりには薄紅が積もる一方で、廊下へ出ればすれ違う者がみな二度見していった。
治験室で、クラウスは二つの花畑を前にしても眉ひとつ動かさなかった。
「花か。7号とミント、同じ処方で同じ反応。個体差の少ない、いいデータだ」
「わたくしたちは押し花の標本ではありませんことよ」
「しない。乾かすと色が飛ぶ」
「されるおつもりだったの!?」
この方は指先でわたくしの頭の花を弾き、それからミントの頭でも同じことをした。二度、三度。首をかしげる。
「散り方が違うな。ミントのほうが軽い。7号は落ちるまでに一拍ためる」
「花の落ち方に、ためも何もございませんでしょう」
「ある。……まあ、そういうものだ」
「そういうもの、では答えになっておりませんわ。なぜ違いをご存じですの」
「野に咲くほうは花柄が短く、日陰のものは長い。萼の形も別だ。薬で咲かせた場合はさらに変わる。花柄の長さは体内の水の巡りに従うから、脈の速い者は落ちが速い。逆に言えば、落ちの遅い者は——」
「もう結構ですわ」
この方は追い詰められると草木の講義を始める。逃げ方まで念入りでいらっしゃる。
栓が今日はやけに固い。抜いて飲みほすと、頭の花が一斉にふるりと震えた。喉の奥のいつもの痺れが、今日はなぜか花の香りを連れてくる。
「効かないな。花は咲いても、毒気は枯れないか」
「一言多いですわ」
「二言だ。数えている」
手帳が閉じられ、いつもの言葉が置かれる。
「これも効かない。次だ」
その日の午後、ミントはわたくしを地下のいちばん奥の物置へ連れていった。埃っぽい棚の隙間から、細い明かり取りの窓が見える。地下で唯一、外の光が差しこむ場所だった。
「ここ、あたしのお気に入りなんだ。光、入るでしょ」
明かり取りの硝子は埃で曇っていて、外の景色は白いだけだった。それでも隙間から落ちてくる風は、地下のどの廊下より冷たい。まだ外は、指の先がかじかむ季節らしい。
ミントは窓の下にしゃがみ、大事そうにあの飴玉を取り出した。わたくしが人前で言い当ててしまった、藁の下の一粒である。
「これね、弟にあげるつもりで、とってあるの」
「……弟?」
「うん。下の町に、病気の弟がいるんだ。錬金術の薬じゃないと治らないやつでさ。そのお薬がすっごく高いの」
飴を陽にかざして、ミントは目を細める。花びらが彼女の頭から一片、また一片とこぼれ落ちた。
「あたしがここで治験を受けると、危険手当ってのが出るんだ。金貨でね。それを全部お薬代にするの。もうすぐ1年ぶん貯まりそう」
「命がけの報酬を、弟のために。……こわくはございませんの」
「こわいよ? めっちゃこわい。虹色になった時も透明になった時も、毎回あー死ぬかもって思ってる」
からりと笑って、ミントは言う。頭の花がまた、ほろほろとこぼれた。
「でもさ。あの子が『お姉ちゃん』って笑ってくれるなら、あたし、何色にでもなるよ」
弟はまだ7つで、花が好きで、寝床から動けないのだという。姉の手紙の隅に押し花を挟んでやると、それはうれしそうにするらしい。だからこの娘は花の咲いた自分の頭を見て、まっさきに弟へ見せたいと思ったのだと、照れくさそうに白状した。
わたくしは、この娘を励ますつもりだった。
「ミント。錬金術の薬というのは、1年ぶんの危険手当では届きませんわ。侯爵家の帳簿を見て育ちましたもの。あの手の薬の値は、金貨の桁がひとつ上ですのよ」
物置が静かになった。
明かり取りの光の中で、埃だけがゆっくり回っている。飴を包んだ手が動かない。指のあいだから、薄紅が一片もこぼれてこない。心が動いていないのではない。動きすぎて、行き先を探しているのだと分かった。
「……知ってるよ」
「え」
「桁も知ってる。1年じゃ全然足りないのも知ってる。それでも、足りるまで働くよ。何年でも」
取り繕おうとして、わたくしはさらに口を開いた。
「でしたら最初からそう計算なさるべきで、見通しの甘い勘定は身を滅ぼしますし、そもそも治験の年季には上限が——」
「オクタヴィアさん」
「……ええ」
「今日はもう、いいよ」
……慰めるつもりで、いちばん痛いところを踏みましたわ。
誰にも期待しない。誰のためにも何もしない。そう決めてこの地下へ落ちてきたわたくしの前で、16の娘が、桁の足りない勘定を承知で笑っている。飴を握った拳の甲に、細い筋がいくつも浮いていた。
気づけば、わたくしの頭からも薄紅がとめどなくこぼれ落ちていた。泣いてなど、おりません。花のせいですわ。この、ばかばかしい副作用のせい。
ミントが顔を上げて、こぼれる花びらを見て、それから笑った。
「オクタヴィアさん、すごい散ってる」
「風のせいですわ」
「地下だよ」
「……換気口がございましょう」
わたくしは指に触れた。断罪の日にたった一つだけ持ち出せた、母の形見の指輪。売ろうと思えば売れたのに、どうしても手放せなかった細い金の輪。この娘の飴と、さして変わらない大きさですこと。
その夜、花はゆっくり枯れて髪から抜け落ちた。抜けたあとの頭皮がすうすうして、風の通り道が増えたような心地がする。枯れた花の匂いは、咲いていたときより濃い。甘さの底に、湿った土のようなものが沈んでいる。手のひらに残った一片を、わたくしはなんとなく枕の下へ忍ばせた。柄にもない。
隣の寝台では、ミントが押し花をこしらえていた。帳面の頁に一片ずつ並べて、重しに水差しを載せている。弟へ送るのだと言った。今日わたくしが桁の話をしたことなど、この娘は明日には忘れた顔をするのでしょう。忘れた顔をするだけで、忘れはしないのでしょうけれど。
……帰る理由のある人と、ない人。あの錬金術師は、どちらのために毎朝あの薬をお作りになりますの。
そういえばあの方は、この娘のことも番号でしか帳面に残さない。押し花の重しの水差しが、ことりと傾いて、また戻った。
次話:「名前を呼ばない人の、事情」




