第6話「効かない薬を、なぜ毎日」
鏡の中のわたくしは、久方ぶりにまともな人間の形をしていた。ほぼ。
左の耳の後ろには栗色の毛が数本、名残惜しそうに立っている。右手の小指の先だけが、いまだに子どもの寸法から戻らない。おまけに左足の親指が、光の加減でときおり半分ほど透ける。
「オクタヴィアさん、まだ小指ちっちゃいままだ。かわいい」
「指が1本、匙を握れませんのよ。愛でる前に、匙をお取りになって」
「あたしはそれ好きだけどなー」
「お好みを伺ってはおりません。……せめて薬指でしたら、指輪でごまかせましたのに」
来た日のわたくしなら、この鏡を叩き割っていたかもしれない。7日である。人がふざけた運命に慣れるには、7日もあれば足りてしまうものらしい。
この地下の暮らしにも、もうわたくしなりの手順ができている。朝は薄いスープで舌を慣らす。昼はミントの無駄話に相槌を打つ。夜は消灯の鐘まで、その日に残った副作用を一つずつ数えて過ごす。絹の寝台も専属の侍女もここにはない。それでも朝が来るのが嫌ではなくなっている。
嫌ではない、というのが、いちばん厄介なのかもしれません。
治験室では、クラウスがいつものように手帳へ何か書きつけていた。薬を待つあいだ、わたくしはその手もとを覗きこんでしまう。
びっしり並んだ細かい文字。日付。副作用の種類。脈と体温と、爪の伸びた長さ。そして毎日欠かさず、左手首のあざの色と大きさ。
あざの行だけ、字が小さい。書きこむ量が多いから小さいのだ。色。差し渡し。縁の形。前日との差。指で押したときに疼くか否か。爪の伸びには1行しか割かないお方が、この染みには5行を割いている。
「7号。人の手帳を勝手に覗くな」
「あら、失礼。ひとつ伺ってもよろしくて」
「断る」
「では伺いますわね。あなたのお薬は毎日"効かない"のでしょう。効かないと分かっているものを、どうして一日も欠かさずわたくしに飲ませますの」
喉の奥にずっと引っかかっていた問いだった。口にしてみると、指先が少しだけ冷たくなる。
紙をひっかく音が途切れた。それでも顔は上げない。
「お前は飲みたくないのか」
「……質問を質問でお返しになりましたわね」
「答えろ」
「飲みたくはございません。当たり前でしょう」
「そうか。だが飲む」
「飲みますとも。報酬をいただいておりますもの」
「なら話は済んでいる。効かない結果も積み上げねば結果にならん。それがデータだ」
理屈は通っている。通っているのに、その理屈の裏側に何かをそっと押しこめている気がして仕方がない。
毛玉の鼻が嗅ぎ当てた、あの甘くて苦いもののように。
「効かないと言い張るお方が、なぜあざだけは毎日お測りになるの。爪の長さより、ずいぶん熱心でいらっしゃるけれど」
「爪も測っている」
「測り方の丁寧さが違いますでしょう」
「……顔をじろじろ見るな。減る」
「減りませんわ、そのお顔は。鉄でできていそうですもの」
よく言う、とだけ返って、羽根ペンが動き出した。
ちなみに透明化に巻きこまれたポッケは、あれから右手の小指の先が透けたまま戻らないという。記録をつけるたび、宙に浮いた羽根ペンが独りでに動いて見えて、本人がいちばんびくついている。巻き添えの後遺症まで抜かりなく長引くとは、この研究所の薬はつくづく気が長い。
「ポッケ。おまえの小指も記録に入れる。何日目だ」
「4日になります……あの、これ、戻りますよね?」
「戻る。たぶんな」
「たぶんはやめてくださいよぉ!」
ふと見ると、机の隅に湯気の立つ木の椀が置かれていた。
中身は食堂で配られるものより、明らかに具が多い。
「……それは?」
「余りものだ。捨てるのも手間だから置いてある。食いたければ食え」
余りもの、と言う割に匙まで添えてある。この方の親切はいつも不愛想な包み紙にくるまれていて、受け取る側が気づく前に手渡されている。
ひと口飲んだ。豆と根菜の甘みが、舌の奥のほうまでゆっくり降りていく。湯気が睫毛に当たって、そこだけ暖かい。食堂の椀はいつも配られる頃には冷めきっているから、湯気の当たる感触を思い出すのに少しかかった。
礼を申し上げるべきでしょう。それくらいの作法は、まだ体に残っているのですから。
「クラウス。……このスープ、おいしいですわ」
「そうか」
「ええ。もっとも塩がやや勝っております。豆を先に入れて根菜を後から落とせば、半分の塩で足りましたでしょうね。それと胡椒。あれは仕上げに挽くものですのよ」
治験室が、しんとした。
ポッケの羽根ペンが止まっている。クラウスは椀のほうを見て、それからわたくしを見た。
「……作ったのは俺だ」
「まあ」
お礼を申し上げるはずが、いつのまにか採点しておりますわ。
「厨房の当番が今日は一人足りん。ついでに作った」
「あの、あの、先生、7号さんは味の話をしてるだけで、決して」
「ポッケ。仕上げに挽くものだそうだ。書いておけ」
「記録にですか!?」
わたくしは残さず飲みほした。塩が勝っていようと、椀の底までは残さない。それが今のわたくしにできる唯一の礼だった。……もう二度とこの方に感想を求められることはないでしょうけれど。
空になった椀を返すとき、指がわずかに触れた。氷のような手だと初日に申し上げたその手が、今日は椀の熱を抱えたぶんだけ温い。この方が厨房に立って豆を落としている姿を、わたくしは想像しかけて、途中でやめた。似合わなすぎて笑ってしまいそうだったからである。
その日の薬は、とりわけおとなしかった。飲んで少しすると指先がほんのり熱を持ち、耳の後ろの栗毛が一本ぽろりと抜けた。それだけである。派手な変身も悲鳴もない、静かな一日だった。
クラウスはあざを一瞥し、いつもより長く手帳へ何か書きつけてから、羽根ペンを置いた。
「これも効かない。次だ」
効かない、効かない。この方は今日もその言葉を呪文のように置いていく。効かないと言いながら、あざの記録だけは一日も欠かさずに。
その夜は、地下にしては珍しく風の音が届いた。階段の上の扉が誰かの出入りで開くたび、外の匂いがひと筋だけ落ちてくる。濡れた土と、芽を出したばかりの草。ひと息ぶんの外気に指の先が縮んだ。ここへ来た日と同じ冷たさですわ。同じ冷たさなのに、今夜はそれほど嫌ではない。
夜、寝台で今日ぶんの違和感を数えてみた。小さい字で埋まったあざの行。訊いたはずが訊き返された会話。余りものと言い張られたスープ。一つずつは取るに足らない。並べてみると、妙な形の影が浮かんでくる。
この地下の日々にも、虹色にも豆粒にも毛玉にも、わたくしはすっかり慣れてしまった。慣れたぶんだけ、問いのほうが大きくなっていく。
その答えを、わたくしはまだ知らない。知らないまま瞼を閉じて、隣の寝台の寝息を数えた。いつもは牛のように深いミントの息が、今夜はやけに浅くて短い。
次話:「あの子には、帰る理由がある」




