第5話「もふもふの中身は、わたくしです」
視界の端を、茶色い何かがふわりとよぎった。
払おうとしたら、払う手のほうも茶色い。しかも短い。手というより、前足と申し上げるべき形をしている。よぎったものは尻尾で、尻尾はわたくしの腰から生えていた。
磨いた盆に映っているのは、栗色の毛玉である。丸い体に短い手足、ぴんと立った耳。社交界を震え上がらせた毒蛇の面影は、毛の一本ほども残っていない。
「オクタヴィアさぁぁん!! なにこれ、なにこれ、もっふもふ!!」
「近い。息が。息が台風ですわ」
「わ、しゃべった!」
「口の減らなさだけは毛皮を着ても健在ですの。……下ろしてくださる? わたくし今、頬ずりに耐えうる体積ではございません」
両手ですくい上げられて、頬へ押しつけられた。毛皮ごしの体温がやたらと高い。陽に干した布の匂いが、鼻いっぱいに広がる。
昨日までのわたくしなら、この距離で人の匂いを嗅ぐ機会など一生ございませんでした。侯爵家の作法では、相手との間合いは扇一本ぶんと決まっている。今は扇どころか、頬と頬のあいだに毛皮しか挟まっていない。
厄介なのは体だけではなかった。身のこなしまで小動物になっている。ミントの腕からするりと抜けたつもりが、次の瞬間には机の上へ跳んでいて、そこから棚の縁を伝って梁の上まで一息で駆け上がっていた。自分の意思より先に、この体が勝手に決めてしまう。
「わっ、な、なんですかその生き物! ね、ねずみ!?」
「ねずみではございません。7号ですわ、7号!」
「しゃべった!? ねずみがしゃべったぁ!」
「聞いていらっしゃらない。7号だと申し上げているでしょう」
混乱したポッケが捕まえようと手を伸ばす。とっさに跳んで、彼の頭の上へ着地した。慌てふためく助手の髪の中で、毛玉のままひと息つく。この身軽さ、地上の舞踏会で披露できましたら語り草になりましたでしょうに。
いいことばかりではなかった。この体は心の昂ぶりに正直すぎる。ポッケが「戻ってきてぇ」と手を伸ばすたび、驚いた体が勝手に跳ねる。棚から棚へ。梁から梁へ。止まりたいのに止まれない。
しまいには壁の換気口へ飛びこんで、暗い通気管の中を爪を立ててよじ登る羽目になった。
管の中は埃と黴、それに遠い厨房の匂いで満ちていた。焦げたパンの匂い。煮えた豆の匂い。灰を落としたばかりの竈の匂いまで、順に並んで鼻へ届く。地上にいた頃なら見向きもしなかった献立が、今は腹の底を情けなく鳴らす。毛玉の胃袋は、令嬢の見栄より正直にできている。
「オクタヴィアさーん、どこー!?」
声を頼りに這い出して、埃まみれの毛玉のまま床へ転がり落ちた。ミントが半泣きで抱きとめる。
「もー! 心配したんだからね!」
「そのご心痛、毛皮のぶんが大半でしたでしょう」
「半分は本気だもん」
「そこは全部と言い張るところですのよ」
埃を払ってもらう間も、わたくしの鼻は余計なものばかり拾っていた。ミントの襟に染みた石鹸。廊下の湿った石。そして彼女の寝台のほうから、藁の匂いを割って、細く甘いものがまっすぐ立ちのぼってくる。
言い当ててみせたら、この娘はさぞ驚くでしょう。
「ミント。あなた、寝台の藁の下に飴を隠していらっしゃるでしょう。一粒。かなり古いものね」
廊下を通りかかった被験者が二人、足を止めてこちらを見た。
ミントの手が、埃を払う途中で下りた。笑っていた顔から、笑いだけがすとんと抜け落ちる。この娘のこんな顔を、わたくしは初めて見た。
「……なんで分かったの」
「鼻ですわ。今日は、その、よく利くもので」
「そっか。すごいね」
すごいね、の温度が低い。取り返そうとして口を開いたのが間違いだった。
「別に取り上げたりはいたしませんし、隠し場所としては悪くないと思いますのよ。藁の下は匂いが籠りますから、次はもっと外気の通るところに」
「……オクタヴィアさん」
「……ええ」
「今のは、黙っててくれたほうがよかったやつ」
通りかかった二人が肩をすくめて行ってしまうまで、わたくしは毛玉のまま床に立っていた。
鼻が利くのが嬉しくて、当ててみせたのが嬉しくて、それを人前で並べた。褒められるつもりでいた自分の間抜けさが、埃と一緒に毛にまとわりついている。
……毛が生えても、口には猿ぐつわが生えませんのね。
治験室では、手のひらに載せられて、ためつすがめつされた。
「齧歯類型だな。四肢の比率が変わっている。跳躍の距離は」
「数字より先に、申し上げることがおありでしょう」
「ある。軽い」
「体重ではなく、あなたの物言いのほうが軽うございます」
クラウスの指が耳の後ろへ触れる。毛の流れを逆から撫でられて、体が勝手にびくりと跳ねた。跳ねた先が彼の手首で、そこから袖口の中まで滑り落ちる。引きずり出されるまでのあいだ、この方の脈が耳のすぐそばで打っているのを聞いた。人並みの速さである。氷の手をしていらっしゃるくせに。
「鼻も利くだろう。何が匂う」
言われて鼻をひくつかせる。とたんに部屋じゅうの匂いが洪水になって押し寄せた。薬草。硫黄。古い紙。上着に染みた鉄と煤。その奥に、嗅いだことのない甘くて苦いものが、細く一本だけ通っている。彼の手帳のあたりから。
「……甘くて、少し苦い匂いがしますわ。あなたの手帳のほうから」
クラウスの親指が、手帳の角を一度だけ強く押した。紙に爪の跡が残るほど。
「気のせいだ」
「気のせいで済むものを、なぜ引き出しの奥へおしまいになりますの」
手帳はもう机の上になかった。引き出しの底へ収まって、取っ手が音もなく戻る。
「ポッケ。厨房へ行って、今朝の竈の灰を一掬い持ってこい。急げ」
「えっ、あの、そんなものを?」
「灰だ。走れ」
ポッケが駆け出していく。用のない用事だというのは、走らされた本人以外にはたぶん全員が分かっていた。人払いに灰を選ぶあたり、この方は嘘の材料まで手近で済ませる。
閉じた引き出しの前で、わたくしはもう一度だけ鼻を働かせた。木と金具の匂いに紛れて、甘くて苦いものが、まだ細く漏れている。締めきったつもりでも、匂いというのは板の隙間を通ってしまうのですわ。
小皿の縁が、鼻先へ寄せられた。前足では瓶を持てないので、皿へ直接口をつけて舐める。舌に触れた瞬間、味が濃すぎて後ろへ転げそうになった。毛皮の下で、胸の底がとろりと重くなる。
「効かないな。図体が変わっても、鼻がおまえの中身を嗅ぎ当てる」
「中身とは、また失礼な」
「褒めている」
「その顔で言われましても」
クラウスは引き出しの取っ手へ指をかけたまま、いつもの一言を寄こした。
「これも効かない。次だ」
夜になっても毛皮は抜けなかった。ミントは「もう一晩もふもふしてたい」と言って、わたくしを湯たんぽ代わりに抱えて眠った。おかげでこちらは寝返り一つ打てやしない。
腕の中で、わたくしはひとつだけ謝った。飴のことは誰にも言わない、と。
「うん。……あのね、大事なやつなんだ。それだけ」
それだけ、と言うときの声が、あの錬金術師の言い方によく似ていた。この地下では、大事なものほど「それだけ」の形をして転がっているらしい。
翌朝、体は人へ戻っていた。それでも栗色の毛が数本、耳の後ろにしぶとく残っている。指で引っぱっても抜けない。素直に帰ってくれない副作用ですこと。
次話:「効かない薬を、なぜ毎日」




