第4話「本音は、止められないから困る」
躓いたのは、朝の挨拶だった。
「おはよ、オクタヴィアさん! 今日はちゃんと見えてる、よかったー」
「ええ、おはよう。……あなたのその暢気なお顔、毎朝わたくしの毒気を抜きますのよ。ずるいと思っておりますわ」
「え」
「……え」
口を押さえた。遅い。頭の内側へ置いたはずの言葉が、留め金の外れた扉みたいに、勝手にひらいて出ていった。
「あたしのこと、ずるいって。なんか、うれしい」
「今のは事故ですわ。事故に礼を言う方が、どちらにおりますの」
事故でも言ったのは口だよ、と返された。この娘は妙なところで的を外さない。
試しに、心の中で「この地下は湿っぽくて陰気だ」と念じてみる。唇が勝手に動いた。
「この地下は湿っぽくて陰気だこと」
……ええ、そういう日ですのね。よりにもよって、人に聞かせたくないものだけを選んで垂れ流す仕掛けですわ。
廊下でポッケとすれ違う。
「おはようございます、7号さん」
「あなた、いつもびくびくして気の毒ね。でも悪い子ではないと思っておりますわ」
「えっ、あっ、ありがとうございます……?」
「疑問形で受け取らないでくださる。こちらまで自信がなくなりますわ」
すみません、と謝られた。謝るところでもございませんのに。
ポッケは耳まで赤くして、帳面を抱えたまま逃げていった。褒めたのか慰めたのか、言った本人に分からないのだから、受け取ったほうはなお困る。廊下の先で彼が一度だけ振り返り、それからまた早足になったのを、わたくしは見ないふりで見ていた。
食堂ではもっとひどいことになった。相席の年かさの男に、そちらの噛む音が先ほどから気になっておりますの、と正直に申し上げてしまう。なんだと、と椀が卓へ置かれた。
「いいえ、気になっているだけですわ。おやめになれとまでは申しません」
言ってるのと同じだろうが、と椀の底が鳴った。同じではございませんのよ。同じではないのに、この舌はそこを説明する手前でもう次を喋っている。
配膳の列でも止まらなかった。木杓子から落ちてきたスープの薄さに、昨日より水が多いですわね、と鑑定を下してしまう。
「けちってねえよ! 今日は肉が来なかったんだよ!」
「それはけちったのではなく、貧しいと申しますのよ」
鍋の縁を杓子で叩かれた。舌の上でスープはやはり薄く、塩の当たりだけが妙に立っている。この味を正直に申し上げたらもう一度叩かれますから、黙って飲みほした。黙る努力が実を結んだ場面は、今朝これが最初である。
朝の食堂がちょっとした修羅場になりかけたところで、ミントに襟をつかまれて廊下へ引きずり出された。
唇を噛んでこらえた。息も止めてみた。それでも浮かんだ端から滑り出る。地上にいた頃、この舌は磨いた刃のつもりだった。舞踏の輪の外から、狙った一人にだけ届くように放つ、上等な武器のつもりで。今は鞘ごと外れて、四方八方へ振り回されている。
その足で治験室である。観察の鬼の前に、本音のだだ漏れた体で立たされる。扉の前で三度、深く息を吸った。吸ったところで留め金が戻るわけでもないのに。
「7号。今日の副作用は」
「本音が止まりません。……あなたのお顔を朝から拝みたくなかった、というのが本音ですわ」
「そうか」
「まあ。傷ついてくださらないの」
「傷は記録に残らん」
残るところに傷ついてくださる方でしたら、わたくしももう少し加減いたしますのに。
クラウスは指先で机を叩いて拍を取りはじめた。ひと息で17語。間は2拍。平常のおよそ3倍——手帳へ向けた声が、こちらの繰り言へ平気で重なってくる。人の失言まで目盛りに落とす方は、後にも先にもこの方だけでしょう。
当のご本人は眉ひとつ動かさない。無反応の壁というのは、こういう日ばかりはありがたい。ありがたいものだから、こちらはずるずると喋り続けてしまう。
「毎日毎日、効かないお薬を飲まされて。虹色になって、豆粒になって、しまいには消えて。ばかみたいでしょう。それでも」
「それでも」
「それでも、あなたが毎朝わたくしを7号と呼びますから。この地下にも席が一つあるような気になるのですわ。……独りきりだった頃より、ずっとまし」
言い終えてから口を押さえた。もう遅い。誰にも明かすまいと決めていたものを、よりにもよって、この嘘つきの錬金術師に。
クラウスは羽根ペンを持ち替えた。持ち替えただけで、次の一字は書かれない。ひと呼吸、ふた呼吸。視線がわたくしの左の手首へ落ちて、それからゆっくり逸れる。
「……そうか」
さっきと同じ三文字のはずなのに、置かれ方がまるで違った。
「今の"そうか"、朝のとは重さが違いましたわね。なぜですの」
「……ポッケ。今日は7号に喋らせておけ。喋っているあいだは脈が落ちる」
「落としたい理由がおありですのね?」
「そうだ」
ポッケが顔を上げて、それからどこを見ればいいのか分からないふうに、手帳の背へ目を落とした。炉の火が、ぱちりと爆ぜる。
わたくしの息のほうが、先に浅くなっていた。
「……えっ」
「そのとおりだ。落としたい。以上だ、飲め」
認めたうえで、そこで終いにされた。否定されるより始末が悪い。認められてしまうと、こちらには次の一手が残らない。
瓶を受け取って飲みくだす。舌の付け根がふっと痺れて、口の中に鉄の味と甘さが半分ずつ残った。本音を漏らしすぎた舌には、その痺れまで気恥ずかしい。
「効かないな。口が軽くなっただけで、中身は動いていない」
「その口で、ずいぶん重いことを申し上げましたけれど」
「聞いた」
「忘れてくださる?」
「書いた」
「なぜ!」
羽根ペンの先が紙をひっかく音が、返事の代わりに続いた。何をどう書かれたのか確かめたくて首を伸ばしたら、手のひらで頁を伏せられる。爪の伸びまで見せてくる方が、こういう行だけは隠すのですわね。
いつもの言葉は、手帳を閉じたあとに落ちてきた。
「これも効かない。次だ」
夜、寝台の縁で試してみた。心の中で「ミントの鼻歌は半音ずつ下がっている」と念じる。唇は動かない。もう一度、念じる。やはり動かない。……抜けましたわね。
留め金の戻った口というのは、思っていたより静かなものだった。静かになってはじめて、今日一日ぶんの言葉が耳の奥へ順に並びなおす。噛む音。薄いスープ。7号と呼ばれると席が一つある気になる、という一言まで、丁寧に。
抜けたのなら、始末はつけておくべきでしょう。わたくしは消灯前の廊下でミントを捕まえた。
「ミント。昼間のあれは薬のせいですの。全部、薬」
「うん、知ってる」
「ですから、聞かなかったことに」
「やだ」
「……なぜ」
「だって嘘じゃなかったじゃん。あの薬、嘘つけなくなるやつでしょ」
返す言葉を探した。探しているあいだ黙っていればよろしかったのです。
「……あなたのそのお節介は、ときどき人の逃げ道をふさぎますのよ。おかげでわたくしは、あなたを嫌いになりきれずにおりますわ」
「えっ」
「……」
「オクタヴィアさん。それ、薬もう抜けてるよね?」
抜けております。抜けておりますとも。
……薬のせいにできるのは、今日までですのに。
ミントは声を立てて笑い、わたくしの背を叩いて寝台へ帰っていった。叩かれたところがいつまでも温かいのが、なおのこと腹立たしい。
眠る前に左の手首を確かめる。今朝は袖口の縫い目のこちら側で収まっていた藍色が、日が落ちるうちに縫い目を越えていた。明け方にはまた退がっているのでしょう。進んだり退いたり、この染みだけは毎日きちんと働いている。
あの方は今日、脈を落としたいとおっしゃった。効かない薬の担当者が、なぜわたくしの脈の速さを気になさるの。
問いを抱えたまま眠って、翌朝。目を覚ますと、わたくしの体は手のひらほどの毛玉になっていた。全身がふわふわの毛にすっぽりと覆われている。
次話:「もふもふの中身は、わたくしです」




