第3話「見えないわたくしを、誰が笑うの」
「オクタヴィアさーん、朝ご飯……ひっ、服! 服が立ってる!」
「わたくしはその中におりますわ」
「声だけする! 出たー!」
「幽霊に朝のご挨拶をされた覚えが、おありでして?」
「ない!」
「では幽霊ではございませんでしょう。……腰を抜かすなら寝台の上になさって。床は冷えましてよ」
ミントは尻もちをついたまま、けらけらと笑い出した。怖がるより先に面白がる。この娘の心の臓は、どこか一枚多くできている。
笑われているあいだ、わたくしは自分の首から先を探していた。
被験者服の襟も袖も裾も、肩の線をきちんとなぞっている。そこから上がない。首から先がまるごと抜け落ちている。
手を顔の前へかざしてみた。何も出てこない。指を握って開くと感覚だけは律儀に返るのに、目のほうがそれを受け取ってくれない。
「……思いきったことをなさいますのね」
虹色には虹色の、豆粒には豆粒の姿がございました。今日はその姿がない。無い袖は振れぬと申しますけれど、袖はあるのです。振る本人が消えておりますだけで。
左の手首を目の高さへ持ち上げてみる。藍色の染みも、いっしょに消えていた。毎朝そこにあるものが今朝はどこにもない。押せば奥のほうが疼く感じだけが、置き去りの荷物みたいに残っている。
髪を撫でつけようとして、櫛が空をかいた。当てずっぽうで整うほど、この髪は素直ではありませんのに。
食堂は静かな騒ぎになった。匙が独りでに浮いて薄いスープをすくい、口の高さで中身だけが消える。パンをちぎれば齧った跡が虚空に増えていく。
「食べるとこだけ見えて、めちゃくちゃ怖いよ」
「見世物ではありませんことよ」
「でもみんな見てる」
「見えていないのに見られておりますの。器用な話ですこと」
匙を置いた。
宙に浮くパンで誇りを保てる令嬢はおりません。
やめてみると、今度は音のほうが大きくなる。長椅子の軋み。椀の触れ合う音。奥の卓で誰かが咳をして、その隣が笑う。姿がないぶん、耳ばかりが席に残されているような心地がした。
卓を2つ隔てた向こうから、低い声が流れてきた。毒蛇がとうとう消えたな、ざまあない。継母を毒殺しようとした女が隣の棟で寝ていると思うと寝つきが悪い。あれは近いうちに薬で死ぬ。賭けるか。
わたくしの席に姿がないものだから、いないことになっているらしい。
聞こえないふりで匙を上げ下げすればよろしいのですわ。侯爵家の広間でも、通り過ぎたあとの香水の残り香ごしに、さんざん同じことをされてまいりましたもの。今さら一つ二つ増えたところで。
なにも今、口を開くことは。
「毒を盛るほどの女が、この薄さのスープで我慢いたしますこと?」
誰もいない席から声が出た。木の椀が3つ落ちて、長椅子が音を立てて後ろへ倒れる。悲鳴の上がり方だけは立派なものだった。
……見えない体で、口だけがはっきり残っておりましたわ。
廊下へ出ると、主のいない被験者服の行進に、すれ違う者がみな壁際へ寄って道を空けた。
「オクタヴィアさん、待ってよ。ねえ、あれ気にしてないよね?」
「取り合う値打ちのある声でしたかしら」
「……そういうとこ、たぶん損してる」
「損の勘定はもう済ませておりますの。とうに赤字ですわ」
透きとおった手で治験室の扉を押した。
「7号。……いないな」
「目の前におりますわ」
「声はする。姿はない。透明化だな」
「そのご確認に、どれほどお使いになりました?」
「3秒だ」
「早いのか遅いのか、判じかねますこと」
クラウスは机から身を乗り出し、何もない空間へ手を伸ばした。指先がわたくしの頬へ迷いなく触れる。
人の顔の位置を、この方は目より先に当ててしまう。触れられた頬だけが、自分の輪郭を思い出した。
「感触はある。体温も平常。……厄介だな。これじゃ、あざが見えん」
「あら」
「見えないと困りますのね。それは記録のご都合? それとも、あなたのご都合?」
羽根ペンの先が、書きかけの行の上で宙に浮いた。
浮いたまま、この方は別のところを見ている。
「……服の吊られ方が妙だな。おまえのだけ、襟のあたりが品よく浮いている」
「わたくしが伺ったのは、そんなことではございません」
「肩の線も落ちていない。背筋を伸ばして立つ癖が骨についているんだろう。透明でも姿勢がいい」
「……よくお出来になりますこと。話の逃がし方が」
そこへ帳面を抱えたポッケが入ってきた。まっすぐ歩いてくる。避ける間がない。彼の爪先が見えない足の甲を思いきり踏み抜いた。
声を殺してよろけ、とっさに彼の腕へすがりつく。何もない空中で腕をつかまれたポッケは、白目をむいて硬直した。
「で、出ました! 手首を、何かに掴まれてますぅ!」
「ポッケ。それは7号だ」
「見えないのに、いる! いちばん怖いやつですぅ!」
「その7号に向かって、ずいぶんなご挨拶ね」
「ひっ、す、すみません! ……えっ、どこ!?」
その拍子に、抱えていた小瓶が一つ床へ転がった。跳ねた中身がポッケの右手にかかる。指先から手首まで、すうっと透きとおって消えた。
「て、手が。僕の手がぁ」
「2例目だ。ポッケ、そいつで羽根ペンを持て。書けるかどうかを見る」
「今そういう気分じゃありませんよぉ!」
「載る欄がない」
助手の悲鳴すら、この方にかかれば貴重な一行になる。
帳面の頁がめくられる音だけが、律動を崩さずに続いている。ポッケは消えた右手を胸に抱えこんで、泣き出す寸前の顔で震えていた。巻き添えを食う側にも都合というものがございましょうに。
クラウスは椅子ごと向きを変え、消えた腕の断面へ人差し指を近づけて止めた。境目を探しているのだと分かるまで少しかかる。7号の頬より、今日は助手の手首のほうへ指が伸びている。
小瓶は、見えない手のすぐ側へ置かれた。指の位置を、この方は一度も外さない。受け取って、見えない喉へ流しこむ。痺れの道筋だけはいつもと寸分たがわず降りていった。姿はなくても、苦さはきちんと舌に残る。
「効かないな。姿は消えても、口の悪さは丸見えだ」
「口のほうも見えておりませんけれど」
「例えだ。……ポッケ、透けた指の本数を言え」
「数えられませんてば!」
手帳が閉じられ、羽根ペンが軸受けへ戻る音がした。それから、いつもの言葉が落ちてくる。
「これも効かない。次だ」
その日は一日、透けたまま過ごした。
姿がないと、誰もわたくしに気を留めない。廊下ですれ違う被験者も、目の前を横切るポッケも、わたくしがそこにいることに気づかず行ってしまう。ぶつかりもしない。避けてももらえない。
試しに、言い争っている二人組の真後ろに立ってみた。息のかかる近さだというのに、どちらも振り向かなかった。消えているのは姿だけではないらしい。この体は気配ごと薄くなっている。
……いないものとして扱われるのは、思いのほか心細い。
ただ一人、クラウスは違った。書きものへ戻ってからも、誰も座っていないはずの椅子のあたりへ、ときおり目を上げる。そのたび視線はきちんとわたくしを捉えていた。
見えないと困る、とあの方はおっしゃった。記録の話だとも。あざが見えないと困る記録とは、いったい何を記した紙ですの。
夜、寝台で目を閉じても、体の輪郭がうまく思い出せなかった。透けた手はどこまでも自分の手なのに、朝からずっと、自分がどこで終わっているのか分からずにいる。ミントが「そこにいる?」と暗がりへ手を伸ばして、わたくしの額をぺしりと叩いた。痛い。痛いのなら、ここにいるのでしょう。
翌朝、姿はきちんと戻っていた。鏡の中に、見慣れた仏頂面が元通り並んでいる。
ほっとしたのも束の間で、喉の奥がむずむずと落ち着かない。何かを言いたがっている。言いたがっているものに心当たりがありすぎて、わたくしは口を引き結んだまま寝台を降りた。
次話:「本音は、止められないから困る」




