第2話「手のひらの上から、世界を見上げて」
寝返りを打ったつもりが、毛布の縫い目に足を取られた。糸の一本が腕ほどの太さでうねっている。
毛布の皺は雪の原で、天井の染みは空の彼方だ。縮んだのはわたくしのほうですわね。
「わっ、起きた起きた! オクタヴィアさん、おはよー!」
挨拶が頭の上で鐘を撞くように鳴った。音の粒が耳の奥で跳ね回って、両手でふさいでも追いつかない。見上げれば、ミントの顔が山のようにそびえている。鼻の穴が洞窟だ。
寝台がぐんと沈み、四方から指の壁が迫る。視界が持ち上がって、気づけばもう掌の上である。
「うわあ、ちっちゃ! 手のひらサイズのオクタヴィアさん、かわいー!」
「ミント。まずは、わたくしを下ろしてくださる?」
「やだ。落としたら大変だもん」
じたばたしても指は動かない。掌の皮膚はざらついていて、汗と、花の茎を折ったときの青い匂いがする。
掌の熱が背中から上がってくる。……侯爵家の娘が平民の手乗りにされている。この一行で、社交界なら3日は噂が持ちますわ。
「ねえねえ、こうしてると、お人形さんみたい。あたしずっと、お人形ほしかったんだよね」
「過去形で止めておいてくださる? 今、手の中にあるものを数に入れないで」
もう入れちゃった、と即答が返る。
「申し上げている先から!」
「わたくしは人形ではございません。侯爵家の——元・侯爵家の娘ですわ」
「元がついてるとこ、正直だね」
次の一言が出てこなかった。
「……好きで付けた"元"ではございません」
「じゃ、今はなに?」
答えを探しているあいだに、ミントがまばたきをする。睫毛が下りるだけで、わたくしの全身が影に入った。
「……7号ですわ」
「ふうん。あたしはオクタヴィアさんだと思うけどな」
言い返す先が見つからず、掌の上で咳払いをひとつした。
ミントはわたくしを机へ下ろすと、ハンカチを畳んで寝床をこしらえ、木の実の殻に水を一滴たらして押してよこした。殻の縁が腰の高さにある。
「はい、朝ごはん。ちっちゃくても、食べなきゃだめだよ」
「水一滴を朝食と呼ぶのは、さすがに無理がおありでは」
贅沢言わない、ここじゃ食べられるだけで御の字なんだから、と叱られた。ぐうの音も出ない。
殻に口をつけると、たった一滴の水がやけに甘い。井戸の鉄くささの奥に、土の味まで沈んでいる。舌が縮んだぶん、拾う網の目が細かくなったらしい。
顔を上げた矢先だった。換気口が低く鳴り、風が机の上をひと撫でする。踏ん張る間もなく足の裏から板が消えて、木くずのように舞い上がった。悲鳴は上げましたのよ。自分の耳にすら届かない細さで。
落ちる、と思ったところへ影が下りてくる。ミントの手だ。
「あぶなっ! もう、目ぇ離せないんだから」
指の隙間から灯りの筋が差しこむ。閉じこめられているというのに、息のほうが先に楽になった。地上のどの握手より確かな手のひらですこと。……いいえ、それ以上は考えないことにいたします。
治験室へはミントの肩に乗って運ばれた。一歩ごとに肩の骨が上下して、髪の房にしがみついていないと放り出される。鼻歌と足音が腹の底で太鼓のように鳴った。
「7号。今日は小さいな。ちょうどいい、細部が見える」
クラウスが机に肘をついて顔を寄せてくる。剃り残しの一本まで見える距離で、息を吐かれるたび前髪が煽られた。
「……わたくしは今、そういう扱いですのね」
そうだ、と肯定され、ポッケが天秤を運んでくる。量られましたわ。真鍮の皿の上に令嬢が。皿は冷たく、縁がつるりと滑る。向かいの皿にいちばん軽い分銅が置かれ——そして、こちらは下がらなかった。
クラウスは分銅を引っこめ、厨房から麦粒を運ばせて、一粒ずつ載せはじめる。
「麦粒で258。皿の水平が出ていない。ポッケ、机を蹴るな」
蹴ってません、震えているだけですぅ、とポッケが泣きそうな声を出す。震えるな、と無茶を言われている。麦の粒がかさかさ鳴る合間にも、読み上げは止まらない。この方は人と話すより、目盛りと話している時間が長い。
「淑女を穀物と釣り合わせておいて、そのお顔ですのね」
「釣り合ったろう。皿は正直でな」
「事実というものは、時と場合によっては黙っておりますのよ」
黙ると記録が残らん、と返ってきた。羽根ペンのほうが口より先に動いている。
クラウスが指を伸ばし、わたくしの左手首を摘まんで持ち上げた。体ごと縮んだはずの藍色が、この手首の上では昨日より広い。縮んだのはわたくしのほうだと頭では分かっているのに、目のほうが承知してくれない。
あらゆるものを声に出して数えるこの方が、この染みの寸法だけは口にしない。手帳へ落とす字だけが、そこで急に小さくなる。
「……7号。手首、痛むか」
「答えをご存じの方の、訊き方ですわ」
「毎日訊いている。ポッケにも訊く。厨房の猫にも訊く」
「あの子に手首はございませんでしょう」
「前肢だ」
真顔だ。羽根ペンはもう次の行へ移っている。
「……押すと、奥のほうが少し疼くくらいですわ。ええ、ほんの少し」
返事はない。紙を引っかく音だけがする。
「黙られますと、こちらが要らないことまで申し上げてしまうのですけれど」
「知っている」
ご存じでしたら、なおのこと何かおっしゃって。
今日のぶんの薬は一瓶では多すぎた。クラウスはスポイトの先から一滴だけ、木の匙へ落とす。手乗りには小さな池だ。匙の縁に口をつけると、乳白色の面が唇に吸いついて離れてくれない。
飲みくだすと腹の底で音がした。体が小さいと、内側の音がこんなにも大きい。熱は爪先まで一息で届いて、それきり消えた。
「効かないな。……一滴で足りるうちに、在庫を数え直しておくか」
「わたくしが縮んだお話は、もうお済みですのね」
済んでいない、今日は在庫の話もする、と手帳へ落とされた。クラウスはあざをもう一度だけ見て、いつもの言葉を置く。
「これも効かない。次だ」
「毎日毎日、同じ台詞。よくもまあ、飽きもせずに」
「毎日書く」
「そこは、ばつの悪いお顔をなさるところですわ」
ポッケが吹き出して、帳面で口をふさぐ。クラウスは羽根ペンの尻で耳の後ろを掻いたきり、何も言い返してこない。麦粒258ぶんの背丈で、わたくしは胸を張った。
「ついでに申し上げますけれど、縮んだのは体だけですのよ。この声、礼拝堂の端まで届きましたの」
「届くのか。……ポッケ、漏斗」
木の漏斗の細い口が正面へ据えられる。ポッケは申し訳なさそうに耳を押さえ、ミントは笑う支度をしている。
「出せ。さっきの声を、そのまま」
出しましたわ。ごきげんよう、と。手のひらに乗る令嬢が、漏斗に向かって、渾身の。
「よく通る。記録した」
「……縮むところを間違えましたわ。体ではなく、この口が」
その夜はミントの手のひらで丸くなって眠った。体は夜のうちに伸びたらしい。明け方、寝床のハンカチが手巾に戻っていて、窮屈さで目が覚めた。
自分の指が指の長さに戻っている。手乗りはもう御免ですわ。……あの掌の熱だけは、まだ背中に残っておりますけれど。
——厨房の猫にも訊く、ですって。嘘。あの方の目が止まるのは、いつだってわたくしの左の手首の上ですもの。
髪を直そうと鏡の前に立った。虹はもうすっかり抜けている。……ええ、抜けたも何も。
鏡の中には誰も立っていなかった。
次話:「見えないわたくしを、誰が笑うの」




