第1話「天井に頭がつくと、人は無になる」
「まだ抜けませんのよ、これ」
「発色の強いやつは3日残る。記録済みだ」
「先におっしゃって。書く前に」
2本目の薬は、その返事といっしょに机の端から寄こされた。乳白色は昨日と同じ。違うのは、飲む前からわたくしの頭が7色だということくらい。
この地下に窓はない。朝が来たと分かるのは、階段の上から食堂のパンの匂いが降りてくるからだ。
クラウスは何も言わず、羽根ペンの尻で机を軽く叩く。飲め、の合図らしい。この男の語彙は手帳の外へ出たとたんに節約を始める。
においだけは昨日と地続きだった。息を止めてあおる。喉を落ちるところまでは、昨日と同じ道筋をなぞった。
今日は、その先が違った。熱が腹の底で一度とぐろを巻き、それから背骨を駆けのぼった。骨の継ぎ目という継ぎ目が、内側から押し広げられていく。
「あれ……オクタヴィアさん、なんか、おっきくなってない?」
ミントの声がみるみる足もとへ落ちていく。床がすうっと遠ざかる。いいえ、床ではありませんわね。わたくしの背丈のほうが勝手にぐんぐん伸びている。祈る間もなく、頭のてっぺんに硬いものがごつんと当たった。地下室の天井である。
……天井。ええ、天井ですわね。昨日の今日で取り乱してなど、さしあげませんわ。
天井に頭をつかえさせたまま、ゆっくりとまばたきをする。侯爵令嬢たるもの、動じてはならない。動じてはならないのだけれど、膝を折り曲げても背は縮まず、首だけが不本意にかしいでいく。優雅というより、籠に閉じこめられた鶴である。
石の天井は思ったより湿っていて、頭のてっぺんに冷たく貼りつく。目の前をほこりが一粒ずつ落ちていく。自分の呼吸の音がやたらと近い。
「7号。今の身長は」
「……お測りになる前に、この状況への所感はございませんの」
「ある。天井が低い」
「そちらではございませんでしょう。足りていないのは、あなたの関心のほうですわ」
クラウスは巻き尺を手に、椅子の上へ無造作によじ登った。人が難儀しているというのに、瞳の温度は昨日から動かない。巻き尺の先を頭のてっぺんへ当ててくる。棚の寸法でも測る職人の手つきだ。
巻き尺が足りん、目盛りが2メートルで切れている——と、誰に聞かせるでもない呟きが続く。少し屈め、と言うので屈んで差し上げたら、屈むと数字が変わるから屈むなと叱られた。
「頭頂まで、およそ2メートル半。過去最高だな」
「その言葉は、もう少し晴れがましい場所でお使いになって」
「どこで使うかは俺が決める。数字が増えた。それだけだ」
その後ろで、見慣れない青年が震える手で羽根ペンを走らせていた。記録係のポッケというらしい。
わたくしのことは「7号さん」と、番号にまで律儀に敬称をつけて呼んだ。
「あ、あの、7号さん、そのまま動かないでくださいね……! 棚が、棚がすぐそこで……!」
ポッケの怯えはもっともだった。わたくしが少し身じろぎするだけで、肘が薬棚をかすめて硝子の瓶がずらりと鳴る。
手足が一回り大味になって、力の加減が利かない。指の先が、思っている場所より半寸ずつ遠い。
「すごーい! オクタヴィアさん、頭が天井に届いてる! ねえねえ、上から見たら、あたしどんな感じ?」
「豆粒ですわ。かわいらしい、小さな豆粒」
「わーい、豆!」
喜ぶところが、この娘の底知れないところ。人を豆粒呼ばわりして礼を言われては、嫌味の接ぎ穂がない。
仕方なく膝を折り、中腰になる。ミントは手を叩いて笑い、ポッケは転がった瓶を拾い集め、当の錬金術師は椅子の上で巻き尺を巻き直している。
わたくしはせめてもの矜持で、中腰のまま優雅に顎を引いた。
「クラウス。ひとつ言っておきますけれど」
「なんだ」
「令嬢を天井へ届かせておいて眉ひとつ動かさない担当者は、あなたが初めてですわ」
「そうか。称賛として記録しておく」
「褒めておりません!」
ミントが吹き出し、ポッケの肩まで揺れている。場が笑いで収まっていく。わたくしは中腰のまま、ひとつ勝ったような気になっていた。
「ミント。豆粒には豆粒の品格というものが——」
「あ、動いちゃだめ!」
ポッケの悲鳴と、わたくしの肩が薬棚をなぎ倒す音は、ほとんど同時だった。乾いた薬草の束が宙を舞い、青くさい粉が立ちこめる。人差し指を立てた姿勢のまま、わたくしは粉の雨に打たれた。品格を語ろうとした矢先にこれである。
「硝子が4本、乾かした根が2束。……7号、今の肩の高さと向きを言え。同じことが起きるなら棚を動かす」
「わたくしを案じる順番は、いつ回ってまいりますの」
「回らん。棚は動かせるが、今日のお前は動かせん」
睫毛にまで粉が積もっていく。
瞬きをするたび、青くさいものが目の縁へ落ちてきた。中腰のまま、拭う手も届かない。
「……あと一言だけ黙っておりましたら、あれは倒れずに済みましたわね」
「済んだ」
「そこは庇ってくださるところですわ!」
巨大化は長く続かなかった。半刻ほどで熱が退き、背丈がしゅるしゅると元へ戻っていく。厄介なのは伸びるときより、戻るときのほう。体の中身だけが引き潮のように抜けて、最後にひとつ膝が笑った。
問題は伸びたのが体だけだったこと。被験者服は伸びきったまま、肩からずるずると落ちてくる。
クラウスが椅子の背から毛布を取って、こちらへ放った。畳み目の角がきっちり合っている。いかにも用意のいい毛布である。
「……この毛布。いつからそこにございましたの」
「地下は冷える。今朝の室温は11度だ」
「服がこうなるとご存じでしたのね、と伺っておりますのよ」
答えはない。クラウスは手帳に、11、とだけ書いた。書いたきり顔を上げない。……よろしくてよ。今日のところは毛布のほうがありがたいのですし。
毛布の端から、左の手首がのぞいた。藍色のあざは、今朝そこにあった輪郭の外へわずかにはみ出している。縁のあたりだけが、指の腹にひやりと冷たい。他はどこも粉と汗で温いのに、そこだけ。
……副作用のせいで、あざの色まで濃くなりますの。厄介なこと。
その手首を、クラウスがまた無言でのぞきこむ。昨日と同じ角度で昨日より長い。何を確かめているのか、横顔からは読み取れない。やがて彼は手帳にごく短く書きつけた。
「効かないな。体積だけ変わって、中身は7号のままだ」
「そちらまで作り替えられては、さすがに困りますけれど」
「案ずるな。人格を変える薬は、まだ調合していない」
「"まだ"とおっしゃいましたわね、今」
クラウスは取り合わず、あざを一瞥してから、いつもの言葉を落とす。
「これも効かない。次だ」
羽根ペンが軸受けへ戻り、手帳の留め紐がぱちりと鳴った。
その音がやけに事務的に響いて、こちらの腹の底を撫でていく。
「昨日も駄目、今日も駄目。……それでも明日、またお持ちになるのね」
「飲ませる」
「なぜ、と伺っても?」
羽根ペンの音だけが返ってきた。
毛布を肩へ引き上げる。髪から粉のにおいが落ちてくれない。効かないと言い張る薬を、この方は明日もきっちり一本用意なさるのだ。……そのご丁寧さが、どうにも腑に落ちませんの。
翌朝、あざは元の薄さに戻っていた。濃くなったり薄くなったり、忙しないあざだこと。
もっともその朝、わたくしを起こしたのはあざの色ではない。顔のすぐ横で、藁が丸太ほどの太さにそびえていた。ミントの手のひらに、すっぽり収まる令嬢のできあがりですわ。
次話:「手のひらの上から、世界を見上げて」




