第0話「虹色でも、令嬢は令嬢ですので」
命がけの治験だと聞いて地下へ降りたわたくしに、担当の錬金術師が最初に寄こしたのは、薬でも説明でもなく一枚の紙だった。
「万一のとき、報酬の届け先を書け」
銀色の髪を無造作に刈った男が、机の向こうから羽根ペンを転がしてよこす。クラウス・アーベントロート。この王立錬金術研究所の主任で、今日からわたくしの担当だそうだ。その顔に、温度というものが一滴もない。
「万一。初対面でいただく最初のお言葉が万一ですの。ごきげんようはどちらへ落としていらしたの」
「手続きだ。書かない奴のほうが、あとで揉める」
「何人ぶん見送れば、そんな慣れたお顔になれますの」
9人だ、と返ってきた。数えていらっしゃる。しかも即答である。……伺わなければよかった。また、やってしまいましたわ。
紙の空欄を見下ろす。届け先。姓名。続柄。羽根ペンがどこにも降りていかない。見事なまでに、書く相手がおりませんこと。
ヴァレンフェルトの家名は、ひと月前に剥がされている。夜会の広間で継母が杯を落として崩れ、毒だと誰かが叫んだ。あつらえたように証人が立ち、空の小瓶まで出てくる。扇の陰の囁きだけが早くて、わたくしの声はどこにも届かないまま床へ落ちた。
「婚約は白紙、家からは勘当。継母は泣きながら送り出してくださいましたわ。……あの涙のぶん、得をなさったはず」
「宛先は」
聞いておられない。聞いた上で、この方には最後の一行しか用がない。行き場をなくしたわたくしに高い報酬の薬の試験を囁いたのも継母だ。よくもまあと思いながら、自分から手を挙げた。惜しむものなど、とうに一つも残っておりませんもの。
空欄には結局、亡くなった母の名を書いた。届くはずのない宛先だ。クラウスはひと目見ただけで引き出しへ放りこみ、氏名をと促す。名乗った。そうしたら、これだ。
「長い。オクタヴィア・ヴァレンフェルトは11音。7号は4音だ。書き取る手間がおよそ3分の1になる。今日からお前は7号」
人の名前で割り算をなさった。答えまでお出しになっている。節約したその音のぶんで何をお書きになるのかと伺ったら、こうである。
「爪の長さとか」
「……ええ。それはもう、さぞ立派な記録になりますこと」
手を出せ、と言われるまま左手を差し出す。クラウスは手首をつかみ、指先ほどの薄い藍色のあざを黙って覗きこんだ。いつからあるのか覚えのない染みだ。触れた指から、しんと冷たいものが伝わる。
男の指がほんの少しだけ長く止まった。
「……ふん。なんでもない。座れ」
「そこで指が止まる方に、どうぞお構いなくとは申せませんわ。……腰かけますけれど、あなた、手が氷のよう。血は通っていらして?」
座らされると、脈を取られ、目蓋を裏返され、しまいには両手の爪の長さまで本当に測られた。
脈64、低い、いや令嬢の平常値を俺は知らん、前例がない——と、訊いてもいないことを呟き続けている。爪の伸びが左右で違うだの、髪の艶は食事のせいか血のせいか、だの。わたくしは相槌の打ちどころを探して、とうとう見つけられなかった。
「次は歯でもご覧になります? ヴァレンフェルト家の歯並びは評判でしたのよ」
「見せろ」
「本気になさらないで!」
測り終えると、クラウスは小さな硝子瓶を机に滑らせてよこす。傾ければ乳白色が瓶の肩を這い上がって、また底へ落ちた。
「何が起きるお薬ですの」
「知らん。新薬だからな。飲んでみないと分からん。だから治験だ」
「分からないものを人に飲ませるお仕事を、この国では治験と申しますのね」
一つも間違っていないのが、なおのこと腹立たしい。栓は抜くときに小さく鳴った。薬草の青くささの底に、覚えのない甘い花の香りが沈んでいる。毒蛇に毒より甘い匂いとは、皮肉のおつもりかしら。
口に含むと舌の上でとろりと重い。飲みくだしたとたん、喉の奥が細い針で撫でられたようにぴりぴりして、痺れが指の先まで熱をひきずって降りていく。
最初に気づいたのは、視界の端をよぎった赤だった。赤のつぎに橙。橙のつぎに黄。……虫? いいえ、羽虫がこんなに行儀よく色を替えて飛ぶものですか。払おうとした手がつかんだそれが自分の髪だと分かるまで数拍かかった。
「……なに、これ」
「発色が始まったな。毛先から根元へ7色。順は教科書どおりだ」
「落ち着いていらっしゃる場合ですの!? ……分からないとおっしゃったのに、順番だけはご存じですのね?」
「7号。舌を出せ」
舌を出しているあいだに、問いは行き場をなくす。侯爵家で仕込まれた作法の一覧に、髪が虹色になったときの振る舞いは載っていない。指に巻きつけてみると絹より硬い。
「わーっ、すごい、虹だ! 虹の人がいる! あたしミント、隣の寝台の! いいなー、副作用が派手で。あたし昨日は指の先だけだったのに」
治験室の扉から、亜麻色のくせ毛を跳ねさせた娘が転がりこんでくる。名乗りと羨望をひと息で投げつけられて、返事の順が決まらない。
「人ですわ。虹は後からついてまいりましたの。……命がけの治験で、派手さ比べをなさいますの? ……いいえ、あなたのほうが正しいのでしょうけれど、それはそれで嫌ですわ」
言ってから気づく。この娘、ちっとも傷ついた顔をしない。
クラウスは椅子から動きもせず、わたくしの頭を検分して手帳に書きつけた。それから羽根ペンを置く。
「効かないな。これも効かない。次だ」
虹色の頭のまま、たっぷりふた呼吸ぶん黙った。それから息を吸う。
「効いておりますでしょう!? この頭を、わたくしのこの頭をご覧になって」
「見ている。さっきから見ている。菫のところの発色が甘いな」
「そこではありません! わたくしが申し上げているのは色の出来ではなく、色がついたという一点で……」
「……そういう意味じゃない」
「どういう意味ですのと申し上げております!」
答えは返ってこない。クラウスは手帳を閉じ、わたくしの左の手首をもう一度ちらりと見て、机の書きものへ戻った。
その夜。地下の相部屋の粗末な寝台に、虹色の髪を枕に散らして横になる。天井には黒い染みが浮いている。寝返りを打つたび藁が鳴る。羽根布団が恋しいなどとは申しませんけれど。隣のミントがわたくしの髪をひと房つまみ、薄明かりにかざしている。この頭はいつから市場の反物になったのかしら。
「ねえ、名前は? 番号じゃないほう」
「……オクタヴィアですわ」
「ふうん、お貴族さまの名前だ。あたし16。じゃあ、明日はなに色かな」
「……色の話を、もうなさっているの?」
「えっ、聞いてないの? 毎日だよ。毎日飲むんだよ」
「……あなた今とても大変なことを、朝のパンの話みたいなお顔でおっしゃいましたわね。ねえ、起きていらして?」
3つ下のこの娘は、わたくしを番号ではなく名前で呼んだ。この地下でははじめて。……と、そこまで考えたところで寝息が聞こえた。
効かないと、あの方はおっしゃった。効かないお薬をなぜ毎日、あんなに几帳面に飲ませますの。おかしいでしょう。おかしいと思いません? 天井の染みは何も答えない。左の手首がひやりと冷たい。
明日はせめて色だけで済みますようにと、その染みへ願をかけた。慎ましい願いのつもりだった。
次話:「天井に頭がつくと、人は無になる」




