第9話「偉い人の前ほど、体は正直で」
ポッケが記録用紙を三度並べ替えた。三度目は、一度目とまったく同じ順に戻っている。
国の錬金監督官が視察に来るのだという。ミントでさえいつもの鼻歌を引っこめて、地下じゅうが朝から妙にぴりぴりしていた。
「ミント。監督官というのは、そんなに恐ろしい御方ですの」
「こわいっていうか……あの人が来た次の月、被験者が二人減ったんだよね」
「減った」
「うん。ここじゃみんな、そういう言い方する」
「あなたも今なさいましたわ。数え方が薬の方と同じですのよ」
治験室で瓶を空にしたところで、クラウスがめずらしく短く釘を刺した。
「7号。今日の薬は脈が上がると副作用が強く出る。……できるだけ平静でいろ」
「あら。効かないはずのお薬に、ずいぶん細かい取扱説明がついておりますのね」
答えは返ってこない。
「淑女に平静を保てと? わたくし、社交界で鍛えた作り笑いには、いささか自信がありましてよ」
「そうか。なら、いい」
その自信が粉々になるまで、半刻とかからなかった。
監督官ヴォルフは、目盛りで人の形をこしらえたような男だった。背が高く、灰色の目で被験者を値踏みしながら歩く。廊下を進む靴音の間隔が、初めから終わりまで寸分も変わらない。
その靴音を、クラウスは手帳を開いたまま数えていた。歩幅が変わらん。11歩で部屋を横切って、戻りも11歩だ——聞かせる相手のいない声が、いつもどおり続いている。国の監督官を前にしてなお、この方の物差しは止まらない。
わたくしの前で足が止まる。
手袋の指が顎をわずかに持ち上げた。
「ふむ。これが例の被験体7号か。元・侯爵令嬢とは。……ずいぶんと、値の張る実験材料だ」
被験体。実験材料。……わたくしを指す言葉のどれにも、人の数え方が入っていない。
そこまで考えたところで、耳の裏がかっと熱くなった。
ぼん、と髪が7色に発色する。
ヴォルフの片眉がかすかに上がる。まずいと思うほど脈が速まる。次にはしゃっくりもないのに体がふわりと浮き、右腕だけがぶわりと膨れた。丸太になった指が、いちばん近くにあったもの——監督官の手袋の甲を、上から包みこむようにつかんでいた。
「7号さぁん、放して、そのお手だけは放してくださいぃ!」
「山々ですけれど、この指、返事をいたしませんの!」
「ぼ、僕が引き剥がします、失礼しま——ひぃっ」
「一緒に持ち上がっていらっしゃる!」
丸太の甲にぶら下がったまま、ポッケの声が裏返って伸びた。膨らんだ腕は自分のものという気がしない。指を曲げようとして、返事が来るまでに一拍かかる。
虹色の髪をなびかせ、国の監督官の手を握ったまま宙にぷかぷか浮く元・侯爵令嬢。厳粛な視察の場に、これ以上ふさわしくない見世物もございません。
ようやく指がゆるむと、ヴォルフは手袋を引き抜いて皺を伸ばした。伸ばし終えてから、こちらを見もせずに言う。
「……これは異なことを。国の予算で、道化芝居でも研究しているのか、アーベントロート」
声は少しも笑っていない。むしろ温度が下がった。
クラウスが一歩前へ出る。わたくしとヴォルフのあいだへ、そっと体を割りこませた。
「副作用の反応を見ている。被験体の耐性は、本命薬の安全域を決めるのに要る」
「その治験が、予定より半年も遅れている。国は道化の記録を待っているわけではない。貴様、何をぐずぐずしている」
「拙速な投与で被験者を失えば、それこそ国の損失だ。踏むべき段がある」
「順序。半年ぶんの順序か」
本命薬。半年の遅れ。飛び交う言葉の意味は半分も分かりません。
それでも一つだけはっきりした。この効かない日々は、国から見れば無駄な寄り道でしかない。
ならばあの方は、なぜその無駄を半年も続けていらっしゃるの。
浮いたまま、わたくしは口を開いた。
「恐れながら、監督官どの。ぐずぐずと申されますけれど——」
「ほう。被験体が口をきくのか」
「口だけは巨大化いたしませんの。あいにく元の寸法で足りておりますので」
灰色の目が、ゆっくりとこちらを向いた。
「では被験体。この半年で、この治験室から何人減ったか言えるか」
言えるはずがない。わたくしがこの地下へ降りてから、まだ10日そこそこなのだから。
「……」
「二人だ。私が前にここへ立った、その次の月にな。数を知らぬ者が、数の話をするな」
喉が塞がった。今朝ミントが同じ数を口にしていた。聞いていながら、言い返すのに都合の悪いところだけ忘れていたのですわ。
「減ったのは籍だ」
背中の側から、クラウスの声が落ちてくる。
「二人とも生きて出た。年季が明けただけだ」
「国の帳面に残るのは数だけだ、アーベントロート。生き死には欄が別だ」
……欄が別。人ひとりの生き死にを、この方は欄で数えるのですわ。
「なるほど。では被験体7号、貴様は自分の体が本命薬に耐えうると考えるか」
「耐えますとも。この地下で毎朝ふざけた薬を飲まされ続けて、まだ生きておりますのよ」
言い切った。
言い切ってから、視界の端でクラウスの肩が落ちるのが見えた。落ちた肩は、そのまま上がってこない。
「聞いたか、アーベントロート。当人がそう申しておる。ならば貴様の言う順序とやらは、被験体の安全のためではなく、貴様の都合ということになる」
「……」
「次の視察までに、本命薬の第一投与を始めろ。これは命令だ」
靴音が同じ間隔で遠ざかっていく。
張りつめた糸が切れたように、副作用がすうっと引いた。
丸太の腕が縮み、虹色が褪せ、体が床へ降りる。冷や汗でぐっしょりの令嬢だけがあとに残された。
あの方が半年かけて積み上げた言い分を、わたくしは得意になってひと息で崩した。ヴォルフは待っていたのですわ。待たれているところへ、こちらから飛びこんだ。
……守るつもりで、あの方の足を一本折ってしまいましたわ。
クラウスがわたくしの左手首をつかんだ。いつもの記録かと思えば違う。あざをなぞる指が、記録のときよりずっと慎重だった。
藍色は朝より濃い。手首の輪郭からわずかに滲み出している。
「……脈が上がると、濃くなるのか」
ひとりごとのような声だった。いつもの平坦さがない。この方はわたくしの手首を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「クラウス。あの、わたくしが余計なことを申し上げたせいで」
「俺が読み違えた」
「そんなはずは。監督官がお怒りになったのは」
「読み違えた。その話は終いだ」
「……ご自分を責めれば、こちらが黙ると思っていらっしゃるでしょう」
「黙れ、とは言っていない」
「言われなくとも黙るしかないではありませんの、そんな言い方をなさっては」
この方の逃げ方には、いつも先回りがある。今日のそれは、こちらの謝罪ごと引き取って蓋をする種類のものだった。
その日の手帳に、クラウスは長いこと何かを書きつけていた。わたくしの席からは見えない。それでも、いつもの一言だけは聞こえた。
「……これも、効かない。次だ」
効かない。その言葉が今日はなぜか、祈りのように聞こえた。
夜、ミントが冷たい布を持ってきて、わたくしの手首へそっと巻いてくれた。
「監督官の前で虹色とか、最高だったよ」
「慰めていらっしゃるの、冷やかしていらっしゃるの」
「半分こ」
「都合のいい配分ですこと」
「でもさ。オクタヴィアさん、あの人に言い返したでしょ。あれ、ここじゃ誰もやんないよ」
「……やらないほうが利口でしたのよ。今日はよく分かりましたわ」
この娘の前でだけは威厳もへったくれもない。もう諦めがついております。
ミントが寝入ったあと、濃くなった染みを指で撫でた。脈が上がると濃くなる。副作用が出ると濃くなる。……この藍色は本当に、ただの治験の名残なのかしら。
効かないという言葉に、あんな声が要りますの。あれは記録の声ではございませんでしたわ。願いごとをする人の声でしたもの。
答えの出ない問いを抱えて寝返りを打つ。瞼の裏が沈みかけたとき、扉の隙間の向こうがうっすら明るいことに気がついた。治験室のほうだ。確かめに行くだけの力は、もう瞼のどこにも残っていない。
その明かりの気配だけを抱えて、わたくしは眠りに落ちた。
次話:「夜の錬金術師は、何を隠すの」




