第10話「夜の錬金術師は、何を隠すの」
視察の騒ぎから、まる一日が過ぎた。
昨夜は泥のように眠って、朝は寝過ごし、昼にはいつもどおり薬を飲んだ。飲んだそばから何も起きず、いつもの一言で終いのはずだった。
ところがその夜、わたくしの目はどうしても閉じてくれない。
瞼は鉛を吊るしたように重い。それでいて眠りへ落ちようとするたび、意識だけが糸を引いて覚めてしまう。副作用というのは、こうして夜更けに忘れた頃を狙って忍び寄ってくるものらしい。
うとうとと縁へ足をかけるたび、やけに鮮明な夢が瞼の裏へ立ち上がる。白い天蓋。磨き抜かれた燭台の列。扇の陰からこちらを盗み見る幾つもの目。はっと瞼を上げれば、あるのは湿った石壁で、隣ではミントが幸せそうな寝息を立てている。
「……ミント。起きていらして?」
「……んー。オクタヴィアさん、羊数えた?」
「跳ばせましたとも。柵を越えるうちに、羊の顔が全部あの灰色の目になりましたわ」
「うわ、それやばいね」
「ええ。眠るための羊に見下ろされては、本末転倒もいいところですわ」
返事の代わりに寝息が戻ってきた。この娘は寝つきまで健やかでいらっしゃる。
寝返りを打つと、天井のあたりから空気がひとすじ降りてきた。地下にも季節だけは届く。ここへ来た日は寝床の中でも足の先が凍えて、藁を掻き寄せずには眠れなかった。今夜はその凍えが、まだ一度も来ていない。石の底冷えが、ほんの少しだけ角を落としたのだと思う。
幾度目かの寝返りで、視界の端に細い光を見つけた。寝室の扉の隙間から、廊下の奥がうっすら明るい。治験室のほうだ。昨夜もそうだった。昨夜だけでなく、その前の夜も、目を覚ますたびあの部屋だけ仄明るかった気がする。
眠れないのを口実に、そっと寝台を抜け出した。
人の通り道だけ踏み減って窪んだ石の廊下。素足へ立ちのぼる冷えは、来た日ほど噛みついてこない。錬金炉の火が落ちた地下は、昼間の喧噪が嘘のように寝静まっている。薬草の青くささへ混じって、夜はなぜか土の湿った匂いが濃くなる。
曲がり角で、帳面を抱えたポッケと鉢合わせた。こちらを見るなり、彼は跳び上がりかけて自分の口を押さえた。
「な、7号さん!? どうしてこんな時間に」
「あなたこそ。記録係は夜も記録なさるの」
「僕は……その、書き直しを頼まれてて」
「まあ。何を写しておいでですの?」
「言えません。あの、7号さん。今夜はそっちに行かないほうが」
「そっち、とは」
「……あっ、いえ、なんでもないです。僕、何も言ってません!」
帳面を抱え直して、ポッケは足早に去っていった。行くなと言われた方角がはっきりしたのだから、こちらとしては礼を申し上げたいくらいである。
忍び足で扉へ近づいた。
隙間からもれる光の中に、思いがけないものが見えた。
クラウスがいた。
机に小さな灯りをひとつだけ点し、背を丸めて手もとの何かへ見入っている。人を数字でしか眺めない昼間のあの無表情ではない。眉根を寄せ、唇を引き結び、指先で硝子の小瓶をつまみ上げては灯りへ透かしている。瓶の底で、透きとおった雫がとろりと揺れた。
粘りが落ちた。昨日より0.5——聞き取れたのは、そこまでだった。数えるための呟きではない。数えても数えても足りない人の、そういう声の出し方だった。
壊れやすい細工物を扱う職人の手つきだった。被験者を無造作に測るあの指が、この一瓶にだけはまるきり違う触れ方をしている。
雫は乳白色ではなかった。毎朝わたくしが飲まされるものは、傾ければ瓶の肩を這い上がる重さがある。あれは違う。灯りを透かして、水よりも軽そうに揺れていた。この方が半年ぶんの叱責を背負ってまで作っているものが、あんなに頼りない見た目をしている。
そして、匂い。扉の隙間から漂ってくるのは、甘くて苦い、あの匂いだった。
身を乗り出した拍子に、爪先が扉をこつと鳴らした。クラウスの手がぴたりと止まる。
「……誰だ」
「わたくしですわ。眠れないもので、夜のお散歩に」
「戻れ」
「散歩の途中で戻る散歩を、散歩とは申しませんのよ」
しらを切っても遅い。この方は素早く小瓶を手のひらで覆い、引き出しの底へ落とした。
その動きの速いこと。昼間、巻き尺を巻き直すのすら億劫そうにしていらっしゃるくせに。
「入るな。今は記録中だ」
「こんな刻限に? 熱心なお世話係をお持ちで、7号はしあわせ者ですこと」
「被験者は、担当の手もとを詮索しない決まりだ」
「あら。そのようなもの、伺ったことがなくてよ」
「今、俺が作った」
鍵穴の位置を確かめる指が、引き出しの縁を一度だけなぞった。
なぞってから、何もなかった顔で戻る。
「たった今こしらえたものを、もうわたくしに当てはめていらっしゃる」
「遡って適用する」
「国の法より手が早くていらっしゃること」
「早い。俺が作ったからな」
この期に及んで規則を捏造してみせる。呆れるより先に感心すら覚えた。
追い詰められるほど、この方の口はなめらかになる。隠しごとの下手な人間から、こうもすらすら言い逃れは出てまいりません。
構わず一歩、中へ踏みこんだ。薬草の青くささを割って、隠しごとの匂いがいっそう濃く鼻をつく。机に広げられた手帳を横目で盗み見れば、今日の頁だけが真っ白で、日付だけが隅に小さく記されている。昨日の頁はあれほど長く埋めていらしたのに、今日は爪の伸びの一行すらない。
「その手帳、今日はずいぶん白いのね」
「書くことがない」
「爪の伸びは、今日もお伸びになりましたでしょう」
「……」
「そのお薬は、なあに。わたくしに毎朝くださるものとは、匂いがまるで違いますけれど」
「気のせいだ」
ここで引き下がっておけばよろしかったのです。
「毛玉の鼻は、ごまかせませんことよ。昨日も一昨日も同じ匂い。……あなた、隠すのがお下手ね」
クラウスは答えない。答えないので、わたくしはもう一言足した。
「気のせいだ。なんでもない。それだけだ。……よくよく便利な言葉ばかりお持ちで」
言い終えて、胸が少し反っていたと思う。
クラウスは何も答えなかった。答えないまま引き出しへ手を伸ばし、鍵を差しこんで、ひとつ回した。
金具の落ちる音が、思ったよりずっと大きく響いた。
鍵は初日からそこにあったのでしょう。使う必要がなかっただけで。使う必要を、たった今わたくしが作って差し上げた。
……勝ったと申し上げた時点で、負けが決まりますのに。
「出ていけ」
「……ええ。おやすみなさいませ」
結局わたくしは何ひとつ聞き出せぬまま、治験室から追い出された。扉が閉まる間際、背中へぼそりと声が落ちてくる。
「早く寝ろ。眠れんのも今日の薬の副作用だ」
「まあ。ではそちらも、"効かない"うちに入りますの?」
「効かん。朝には抜ける。……次だ」
いつもの言葉のはずが、扉越しのそれは追い払うというより、何かからわたくしを遠ざけようとする響きだった。
寝台へ戻ってもやはり眠りは訪れない。瞼を閉じれば、あの透きとおった雫が裏側で揺れる。日付だけの真っ白な頁。鍵を回す音。
効かない薬を毎朝わたくしに飲ませるこの人は、それとはまるで別の何かを、夜ごと誰の目にも触れさせずに作っている。
……毎朝のお薬が効かないのでしたら、夜ごとのあれは、いったい何に効きますの。
問いは夜の底へ沈んだきり、朝まで答えをよこさなかった。
廊下の奥の明かりは、いつのまにか落ちている。扉の隙間はもう、ただの黒い線だった。
次話:「しくじった日の、スープは苦い」




