第11話「しくじった日の、スープは苦い」
「37」
瓶の腹に書かれた数字を読み上げて、クラウスがそれを机の端から寄こした。
「瓶の番号ですの? それとも、あなたが数え損ねた回数?」
「本数だ。初日から37本目。ひと月と6日」
あれから何度も朝が来て、何度も瓶が来た。虹色にも豆粒にも驚かなくなり、驚かなくなったぶんだけ数を忘れた。忘れたところを、この方が代わりに数えていてくださる。爪の伸びも、脈も、瓶の本数も。
「それだけお勘定が細かくて、まだ1本も効きませんのね」
「効いていない。全部、記録済みだ」
階段の上から降りてくる風は、いつのまにか青くなっていた。ここへ降りた朝は石が骨まで冷えていたのに、今朝は藁を掻き寄せずに寝床を出られる。外の草はもう膝の高さだと、使いから戻ったミントが言っていた。
左の手首の藍色も、その37本ぶんだけ動いている。手首の骨を越えて、腕のほうへ指2本ぶん。ずいぶん働き者の染みですこと。
もっとも、今朝の厄介はあざではございませんでした。
目覚めの一杯の水を含んだ瞬間、舌の上で味が爆ぜたのである。水のはずが、金気の鉄も井戸の底の土くささも、石灰の渋みまで残らず拾い上げてしまう。……今日は、舌が無駄に有能になる日でしたのね。
食堂の薄いスープは、もはや拷問だった。塩の粒も香草の苦みも鍋底の焦げつきも、口の中でいっせいに名乗りを上げてくる。ひと匙で眉間に皺が寄った。
ミントが匙を止めて、こちらの眉間を覗きこんでくる。
「……このスープ、塩を入れた方と出汁を引いた方が、喧嘩別れしておりますわ。それが全部、舌の上で聞こえますの」
「なにそれ、こわい」
隣の年かさの被験者が気の毒がって、果実の砂糖漬けをひとつ分けてくれた。ありがたく口へ運んだのが運の尽きである。舌の上で砂糖の結晶が雪崩を打ち、甘さが火薬のように炸裂した。目の奥までじんと痺れて、しばらく椅子の上で悶える羽目になる。
「そんなにおいしいの?」
「口の中で祝砲が上がるとお思いになって。それも、至近で」
社交界で一流の料理人の皿にすら容赦なく点をつけた舌が、今日は持ち主ひとりを痛めつけている。過ぎた才は身を滅ぼすと申しますけれど、まさか朝食の席で滅ぼされるとは。
その舌がとんでもない過ちを引き起こすまで、半刻もかからなかった。
治験室の扉を開けると、部屋じゅうに濃い匂いが立ちこめていた。クラウスは炉の前にかがみこんで小さな鍋を覗いている。机には、途中とおぼしき透明な液体が口の広い硝子の器へ注がれ、湯気も立てずに冷めるのを待っていた。
喉がからからだった。食堂で水を飲むのを、味の暴走に負けて諦めたせいだ。机の上のそれは、目にはいかにも涼やかな水と映る。半ば無意識に器を取り、ひと口、含んだ。
次の瞬間、舌の上で世界が破裂した。
鉄。硫黄。焦げた薬草。奥のほうに、ぞっとするほど甘い花。無数の味が刃になって舌を刺し、喉の奥へ雪崩れこむ。水などでは断じてない。気づいたときには、もう飲み下したあとだった。
「——それは、飲むな!」
聞いたこともない鋭さで声が飛んだ。振り向いた顔から、いつもの無表情がすっかり抜け落ちている。慌てて器を置いたけれど、中身はもう半分近くまで減っていた。
「……これ、お水では、ありませんでしたのね」
「3日、煮詰めた。ひと晩でも火を切らせば、はじめからやり直しの薬液だ」
3日。その一言が鉛になって胸へ落ちてくる。冷めるのを待つばかりだった3日ぶんの火の番を、わたくしはたった一口の勘違いで飲み干しかけた。器の底に残った液体が、頼りなく口をつぐんでいる。
「……申し訳、ありません。わたくし、水だとばかり」
「もういい」
怒鳴りもせず、責めもしない。素っ気ない、もういい。その平坦さがどんな叱責よりもこたえる。いっそ罵ってくださったほうが、まだ楽でしたのに。
楽でなかったものだから、この口が動きました。
「弁償いたしますわ。薬草の目方と、炭の代と、あなたが夜通し番をなさったぶんのお手間。締めて金貨で——」
「金の話はしていない」
「では食事を抜きます。煮詰めるのにかかったのと、同じだけ」
ポッケが帳面の陰から「あの、そこまでは」と細い声を出した。
「7号」
「報酬もお返しいたします。全額。あれはもともと施設が握って——」
扉の隙間で、ミントがなんとも言えない顔をしている。炉の中で薪がひとつ崩れて、その音がやけに大きく聞こえた。
「7号」
……頭を下げるだけで済んだものを、この口は勘定書まで書き足しますのね。
借りを返す手立てが、この頭には金貨と絶食しか入っておりません。地上ではそれで足りました。ここでは、部屋の空気をひとつぶん重くしただけ。
器を炉のわきへ片付けかけて、クラウスがこちらを見た。
「……7号。今、中身を飲んで、何を感じた」
「鉄と、硫黄と、焦げた薬草。それから、いちばん奥に、甘い花のような……毒の気配が」
「——その甘いのは、菫か。桜草か」
「存じません。舌がそう申しているだけですわ。……なぜ、種類までお訊きになるの」
しばらく、この方はわたくしの顔を見ていた。無表情の奥で、何かの歯車が音もなく噛み合ったような目つきだ。
「あら。驚いていらっしゃるのね」
返事の代わりに、抽斗から匙が出てきた。器の底に残った液を掬い、灯りへ透かし、量を読む。半分と少し。それを二度繰り返してから、ようやく口が開いた。
「中身をご存じなのはあなたでしょう。当たって驚くはずがございません。……お顔が動いたのは、当たったからではなくて、当てられたからですのね」
「——あれは香りづけだ。俺は薬も酒も、甘いほうが好きでな」
真顔である。真顔のまま、下手な冗談を置いていく。酒場でこの方が笑いを取っている図が、勝手に瞼へ浮かんで、勝手に消えた。
瓶を渡される前に、手首を取られた。指先が脈へ当たり、唇が動かないまま数を刻む。それから袖をめくって藍色を見て、ようやく瓶が来る。あの視察の日から、ずっとこの順番だ。以前は瓶が先で、手首は後回しでしたのに。
「効かないお薬の担当者が、なぜ脈を数えてからでないと、瓶を寄こしてくださらないの」
「決まりだ」
「そんな手順、先月まではございませんでしたけれど」
答えの代わりに、栓の抜ける音がした。飲みほすと、超過敏の舌に薬草の苦みが何倍にもなって襲いかかる。
「効かないな。舌が利きすぎて、当の本人が音を上げてる」
「……お説教は、なさらないの」
「する意味がない。3日は戻らん。……次だ」
その日は夕方まで、椀を持ったまま席を立てなかった。廊下では同じ角を三度、曲がり損ねた。
夕刻、ポッケが分厚い綴じを抱えて廊下を何度も往復していた。本命薬の投与手順書だという。次の視察までに整えろと言われているそうだ。すれ違いざま、綴じの背に押された赤い封蝋が目に入る。あの日の命令は、誰にも忘れられてなどいなかった。
夜、ミントがそっと椀を差し出してきた。湯気の立ちのぼり方で、厨房から走ってきたのが分かる。
「はい。厨房のおばちゃんが、余ったからって。元気ないと、あたしまでしょんぼりしちゃうよ」
「流行り病ですこと。うつさないでくださる」
まだ超過敏の残る舌に、ぬるいスープはやはり苦い。落ちこんだぶんだけ、よけいに苦い。ところが、その苦みの底のほうで、鋭すぎる舌が思いがけないものを拾い上げた。
「ミント。この骨、半日は火にかけていらっしゃるわ。灰汁を引いた回数まで申し上げましょうか」
「やめて、それ以上言わないで」
椀を両手で包みこんで、苦さと甘さを最後の一滴まで飲みほす。朝から舌の上で喧嘩をしていた味たちが、今夜だけは、同じ鍋から来たと名乗った。この舌にも使い道があったということにして、今日は畳んでしまいますわ。
次話:「かばわれるのは、慣れていなくて」




