第12話「かばわれるのは、慣れていなくて」
背中で扉を開ける方法を、わたくしは今朝おぼえました。
「へっくし」
鼻が鳴る。見えない手に胸を突かれたように上体がのけぞって、体ごと数歩あとずさる。運が悪ければ、そこに扉がある。
明かり取りの窓の向こうで、薬草畑がいっせいに花をつけたのだそうだ。その粉が風に乗って地下まで降りてくるらしく、鼻の奥がむずむずして止まらない。くしゃみのたびに後退する令嬢というのは、優雅さの対極にある生き物である。
「ねえ、さっきから勝手に壁ドンされてるよ」
「……ぶつかっているのは、わたくしの背中のほうですけれど」
「へくちっ、てやるとズザーッて下がるの、なんか、すごい」
「優雅に後退する術など、社交界でも習いませんでしたのよ」
試しに小さく鼻をすすってみる。とたんに盛大なくしゃみが出て、寝台の枠まで一気に吹き飛ばされた。
後頭部を柱へぶつけて、目の前に星が散る。地味なようでいて、なかなかどうして命がけの副作用ですこと。
朝食の席も散々だった。スープをよそおうと屈むたびに鼻が鳴り、椅子ごと後ろへずざっと滑る。三度繰り返すうちに椅子は食卓から一間ぶんも離れて、遠くから一人でスープをすする羽目になった。後退しながら食事をとる作法など、教本のどの頁にも載っておりません。
もっとも今朝のわたくしを重くしているのは、鼻のせいばかりではない。昨日の、あの薬液のこと。取り返しのつかない失態が、鉛になって胃の底へ居座っている。あんな声を出させてしまった相手に、今日どんな顔で会えばよろしいの。
治験室へ向かう途中、記録室のあたりでポッケの声が漏れ聞こえてきた。くしゃみをこらえ、思わず扉のわきへ身を寄せる。盗み聞きなど令嬢のすることではないけれど、自分の番号が出た気がしたのだ。
「あの、アーベントロート先生……昨日の薬液、帳簿にはどう書けば。破損の理由を書く欄が、あって」
「"調合中の管理不備により破棄"。俺の落ち度だ。それで通せ」
「で、でも、器に触れたのは……被験者の過失だと、報酬から弁償ぶんが引かれる決まりで」
壁の漆喰がざらついて、爪の先が引っかかった。息を吸うのをやめる。
「だから俺の落ち度だと言っている。あれを水と間違える場所へ置いた、俺が悪い。7号の名は、記録に出すな」
「……はい。あの、それと、投与手順書の写しですけど、あと3部で」
「先に帳簿だ」
声はいつもの平坦なままだった。中身のほうは、平坦どころではない。命がけで稼いだなけなしの報酬が削られないように、この方は帳簿の上でそっと落ち度をすり替えている。
差し出された手より先に、袖の落ち方を見た。地上で身についたのはそれだけで、扉のわきで、わたくしは自分の指がやたらと冷たくなっていくのを持て余していた。
治験室の扉を開けると、クラウスはいつもどおり羽根ペンを走らせていた。何食わぬ顔で。まるで今しがたの話など、はじめからなかったみたいに。
「7号。今朝は何が出た」
「くしゃみで、後退いたします。……あの、クラウス。ひとつ、お礼を」
「へくしっ」
言いかけた矢先に鼻が鳴って、体が扉の外まで吹っ飛んだ。廊下でたたらを踏み、もう一度中へ戻る。仕切り直して口を開く。
「ですから、昨日のことで、あなたに——へぶしっ」
また吹っ飛ぶ。ポッケが廊下側の扉を押さえ、ミントが背中に手を当てて支えてくれた。三度目にようやく鼻をつまんで、途切れ途切れに言い切る。
「……帳簿の、こと。聞いてしまいましたの。あなたが、かぶってくださると」
「盗み聞きか。趣味が悪いな」
「悪うございました。ですから、お礼を——」
言おうとした。確かに言おうとしたのです。
「——ですから、余計なことをなさらないでくださいまし」
治験室が、しんとした。
ミントの手が背中から離れる。ポッケが押さえていた扉は行き場をなくして、半端なところで止まった。炉の火が小さく鳴る音まで聞こえてくる。
……口の出口で、礼が追い出しに化けましたわ。
喉の途中まで来ていたのは、たしかに別の言葉でした。それが最後の角を曲がるときに、勝手に向きを変えたのです。頭を下げるのが怖いのではありません。下げたあとの自分の顔を、この方に見られるのが。
「わたくし、借りが嫌いですのよ。金貨で返せるものならまだしも、帳簿の落ち度なんて、返しようがございませんもの」
「返さなくていい」
「そういう話ではなくて」
「なら、俺が勝手に書いた。それで終いだ」
答えの代わりに、クラウスは爪先で床を叩いた。わたくしが吹っ飛んだ先の目地を、爪先が順に数えていく。
三度目でようやく顔が上がった。
「1回につき、目地3本ぶん。加減が一定だ。壁までは目地が9本ある。3回で当たる計算になるから、そこに立つな」
判で押したように測っていらっしゃる。人の失言より、床の目地のほうが先ですのね。
クラウス、と呼んだ。手は止まらないまま、返事だけが返ってくる。
「なぜ庇ってくださったの」
「庇う? 誰が誰を」
「いま、ご自分でおっしゃったでしょう。7号の名は記録に出すなと」
「言った覚えがない。ポッケ、俺は言ったか」
助手の手から羽根ペンが落ちて、床で二度跳ねた。
拾おうと屈んで、屈んだまま動かなくなる。
「えっ、あの、僕は、その、耳が、その日だけ悪くて」
助手まで嘘が下手である。
「効かないお薬の記録に、なぜわたくしの名前だけは残さないとおっしゃるの」
返事の前に、この方は息をひとつ吸った。吸っただけで、何も出てこない。それから手首を取られた。今日の順序も昨日と寸分たがわない。手首、袖、それから瓶。近ごろ、この3つが入れ替わったためしがない。
受け取ろうとして、またくしゃみが出た。取り落としかけた瓶を、伸びてきた手が宙で受け止める。骨ばった指が、わたくしの指へ一瞬だけ触れた。
……冷たい手。氷のようだと初日に申し上げたのは、わたくしのほうでしたわね。
「効かないな。くしゃみの反動だけで、体幹は無事だ」
「淑女に、体幹などという無粋な言葉を」
「記録には残る。……次だ」
いつもの一言。今日はなぜか、その素っ気なさが少しも冷たく聞こえない。
くしゃみは夜のうちに止んだ。吹っ飛ばなくなった体が、かえって手持ち無沙汰でならない。鼻の奥に居座っていた花粉の匂いだけが、まだうっすら残っている。
「オクタヴィアさん。昼間のあれ、言い直しにいかないの?」
「……なんの話ですの」
「ふーん」
「その相槌はおやめになって。いちばん効きますのよ」
寝台で天井の染みを見上げながら、わたくしは昼間の言い損ねを頭の中で三度やり直した。三度とも、最後の一言だけがどうしても出てこない。
……明日、もう一度だけ、扉を開けてみますわ。今度は正面から。
次話:「甘い誘いの、うしろ暗さ」




