第13話「甘い誘いの、うしろ暗さ」
ヴァレンフェルト家の使いが、明日そちらを訪ねる。
昨日の夕方、門番がそう耳打ちして、逃げるように行ってしまった。伝言を預かった者の顔ではありません。厄介ごとを手渡した者の顔でしたわ。
その厄介ごとが来る朝に、わたくしの口からはシャボン玉が浮いた。
「おはよう」と言えば淡い水色の玉が唇から生まれ、「いい天気ですこと」と言えば黄色の玉がふわふわ天井へのぼっていく。毒にも薬にもならない、いっそ牧歌的な副作用である。
「わー、きれい! オクタヴィアさん、口から宝石出てるみたい!」
「ええ。持参金には、まるで向きませんけれど。……ほら、触れると割れますでしょう」
「あ、ほんとだ。ぱちんって。……ねえ、なんか色が変わるよ? さっきは水色で、今は、ちょっと灰色っぽい」
言われて、はっとする。灰色。今わたくしの頭にあったのは、門番の耳打ちのことだ。
試しに、心にもないお世辞をひとつ言ってみた。あなたのその寝癖、とても素敵よ。すると唇から、濁った緑の玉がぶくりと膨らむ。
「うわ、きたない色」
「わたくしのせいではございません。この玉の趣味が悪いのですわ」
「オクタヴィアさん、あたしの寝癖ほんとは変だと思ってるでしょ」
「……お黙りなさい」
黙ってもだめだった。ため息ひとつで、桃色の小さな玉がぷくりと漏れる。
口先ではなく心根のほうを検分してくるあたり、質が悪いにも程がある。毒蛇と呼ばれた女が、腹の内をこうも筒抜けにされては、いよいよ立つ瀬がございません。
治験室では、瓶より先に手首が要る。数えられて、めくられて、見られる。そこでようやく栓が抜かれた。
「青、黄、灰、黒。……ここまでで色数が9。1つの色が持つのは、およそ3呼吸」
「人の口を、絵具箱あつかいしないでくださる」
「箱のほうが数えやすい。お前は数えにくい」
「褒めていらっしゃるおつもり?」
「量りにくいものほど、記録の価値がある」
ぽこん、と黒い玉が浮いた。褒められたのだと気づくのに、ひと呼吸かかったせいですわ。
「効かないな。色は派手だが、体に害はない。……次だ」
その何気なさに、少しだけ息がつけた。この地下には、腹の色を淡々と数えてくれる方がちゃんといる。
廊下では、赤い封蝋を割らないよう両手で綴じを捧げ持ったポッケが、すり足で通り過ぎていった。投与手順書の写しは、あと1部だという。
使者は昼過ぎにやってきた。継母付きの侍女で、名をロレッタといった。
地下のかび臭い面会室に、絹の裾を汚さぬよう気を配りながら腰を下ろす。地上の香水が、薬草くさい部屋に場違いなほど華やかに広がった。
「お久しゅうございます、オクタヴィアお嬢様。奥様が、たいそうご案じでいらっしゃいます」
「案じて。……あの方が、わたくしを?」
言った拍子に、口から真っ黒な玉がぼこりと生まれた。ロレッタの品のいい眉がかすかに寄る。
「まあ……珍しい御副作用で。お嬢様も、たいへんな暮らしをなさっているのね」
「ご心配なく。番号で呼ばれることにも、存外、慣れるものですわ」
ロレッタの視線が、部屋のすみずみをそれとなく渡っていく。粗末な寝台。欠けた水差し。壁ににじむ黴。
目だけが動いて、首はまったく動かない。地上でこの目つきを何度も見た。値踏みの終わったころに、決まって笑顔が来る。
「お加減は、いかがですか。お顔の色が、少し優れないようにお見受けしますけれど」
来ましたわ。
「至って健やかですわ。ご覧のとおり、口から石鹸を吐くほどには」
「まあ、ご冗談を」
「本当のことですのよ。舌が利きすぎて砂糖漬けで悶絶し、くしゃみで扉まで吹き飛び、豆粒にも透明にもなりました。この地下では、それを健やかと申しますの」
言い終えて、玉が3つ、ぽこぽこと浮いた。どれも澄んだ色だ。全部、本当のことだから。
ロレッタが、はじめて微笑んだ。
「……さようでございますか。奥様に、そのままお伝えいたしますね」
絹の裾が音もなく揃えられる。
……痩せ我慢のつもりで、病状の一覧をお渡ししておりましたわ。
この方は最初から、わたくしがどれだけ弱っているかを持ち帰るために降りてきた。それを、わたくしのほうから包んで差し上げたのです。丁寧に、ひとつ残らず。
ロレッタは籠を置いていった。白い布をめくると、蜜漬けの菓子と上等な葡萄酒、真新しい肌着がのぞく。心尽くしの品だという。
布の下から立ちのぼった甘さに、思わず唾が湧いた。地上の菓子の匂いだ。食堂の砂糖漬けとは、糖の質が違う。手が伸びかけて、途中で引っこんだ。地上でこの手の贈り物の下に何が沈んでいたか、この舌はよく知っておりますもの。
「奥様は、こうおっしゃいました。『体を大事になさい』と」
「……体を、ね」
ひときわ濃い黒の玉が浮いて、天井の手前で割れた。
送り出そうと廊下へ出ると、壁の陰にクラウスが立っていた。腕を組み、絹の後ろ姿を見送っている。いつもの気だるげな無表情ではない。獲物を狙う手前の獣みたいな、張りつめた横顔だった。
「クラウス? どうかなさって」
「あの侍女はいつからあの家にいる」
「さあ。わたくしが出る前には、もう」
「香水はいつもあれか」
「存じません」
壁の陰から、この方の足は一歩も動かない。絹の裾の音が階段の上へ消えていくあいだ、爪先だけが廊下の角を押さえ続けている。
「茶は出したか。籠に手を入れたか。素手でか」
「あの、順に伺ってもよろしくて」
「素手か」
「……ええ。布は使っておりませんわ」
舌打ちひとつ。それきり質問は止まって、こちらの問いを差しこむ隙間が、どこにもなくなっていた。
言葉を数えて渡す方が、今日は数えずに投げてくる。
「継母の侍女の香水を嗅ぎ分けるところまでが、担当錬金術師のお仕事ですの?」
答えは返ってこない。クラウスは籠の白い布をめくり、中身をひとつずつ指で数えはじめた。
「菓子が11個。葡萄酒が1本。肌着が3枚。……籠の底の重さが、中身と合っていない」
「まあ。籠まで量っておしまいになるの」
「門番には俺から言っておく。あの侍女は、二度とここへ通すな」
籠は抱えられて、そのまま治験室へ運ばれていった。菓子ひとつ残らず。
一人になった面会室で、袖を下ろして二度確かめた。藍が布ごしに透けていないか。地上ではこの手首に、手袋の縁より上を見せたことがない。今日はじめて、その作法に助けられましたわ。
体を大事に。あの言葉を思い出すたび、この染みが、いつもより冷たくなる気がするのはなぜかしら。
その夜、口から漏れる玉はいつのまにか灰色に濁っていた。喜びの水色も、そらぞらしい黄色ももう出てこない。
「オクタヴィアさん、玉、ぜんぶ灰色だよ」
「存じております」
「……ねえ。あのお菓子、食べなくてよかったね」
「ええ。まったく」
澄んだ灰色の玉が、ひとつだけ、まっすぐ天井までのぼっていった。
次話:「その手を、まだ取れないけれど」




