第14話「その手を、まだ取れないけれど」
朝、ミントの手を握ったまま朝食を食べた。そのまま廊下を歩き、階段まで降りている。
握ったまま、というのは比喩ではございません。
「オクタヴィアさん、おはよ。……あれ? 手、離れない」
「離してくださいまし」
「離してるよ。もう離してるのに、ついてくるの」
手のひらと手のひらが、糊で貼りつけたように剥がれない。引けば皮膚が引きつれて痛む。
指の股まできっちり噛み合っていて、境目がどこにあるのかも分からなかった。今日の副作用は、どうやら二人がかりでしたのね。
「わー、くっついちゃった! ねえこれ、どうやってごはん食べるの?」
「片手ですけれど。……というより、なぜあなたまで巻きこまれていますの」
「昨日、同じお薬だったからかなあ。これ、一日じゅう一緒じゃん!」
「……厠はどうなさるおつもり?」
「あっ」
「朝から晩まであなたと手をつないで過ごすなど、拷問に等しくてよ」
口ではそう申し上げながら、繋いだ手のひらからはミントの汗ばんだ体温が伝わってくる。汗の分だけ滑って、滑ったぶんだけまた貼りつく。
朝食は難儀の連続だった。片手でパンをちぎろうとして皿ごと引き寄せる羽目になり、その拍子に隣の腕まで持っていかれる。
ミントのほうは器用に片手でスープをすすり、ついでにわたくしのパンまでちぎってよこした。慣れている。この娘は不便に対して、いつも先に手が動く。
長椅子の端では、被験者たちが賭けをはじめている。昼までに剥がれるか否か。銅貨1枚。
「ねえ、あたしたち、賭けの対象になってるよ」
「掛け率を伺ってまいりましょうか。自分の手に張るくらいの図々しさは、まだ残っておりますのよ」
瓶の腹に書かれた数字は、いつのまにか52まで来ていた。
階段の上から落ちてくる風は草の匂いを通りこして土の匂いになり、地下の石も夜のうちには温むようになっている。ここへ降りた日に指を縮ませたあの冷たさは、もうどこにもない。あざのほうは、その52本ぶんだけ肘へ寄っている。
治験室のクラウスは、並んで差し出された手のひらを見ても眉ひとつ動かさなかった。
「7号とミント。癒着型か。剥離まで半日ってところだな」
「担当者どの。もう少し、労わりのある言い方はできませんの」
「"被験者は本日の応対に不満を表明した"。書き取った」
「わたくしの抗議を、書類になさらないで!」
クラウスは繋ぎ目へ指を当て、それから手の甲へ順に掌を置いた。
「7号のほうが0.5度高い。癒着面の熱は、あとから剥がれる側に残る。……ミント。手首を貸せ」
言われてミントが差し出した手首を、クラウスはひと目見ただけで放した。
わたくしの手首のときは、そうはいかない。数え、めくり、見る。3つ済むまで瓶は出てこない。今日もそうだった。
「まとめて観察なさるのに、なぜミントの手首はお測りにならないの」
「必要がない」
放された手が、袖の中へ戻っていく。ミントは自分の手首をさすって、なんでもない顔で笑った。なんでもない顔をされたぶん、こちらの喉が詰まる。
「わたくしのは必要ですのね」
「……2本ある。順に飲め」
空いた手で受け取って、順に飲みほす。繋いだ手のひらがぴりっと熱を帯びた。
「効かないな。並べて記録が捗る」
「淑女をひとまとめに扱わないでくださる」
「事実だ。次だ」
廊下ではポッケが、赤い封蝋の綴じを胸に抱えたまま壁にもたれて目を閉じていた。写しはとうに終わったはずなのに、まだ手放していない。
すれ違いざま、彼は薄目を開けてわたくしたちの繋ぎ目を見て、それからまた瞼を落とした。起こす気にはなれない。次の視察まで、という期限を胸に抱えて眠る人の顔を、はじめて見ましたので。
昼下がり、くっついた手を持て余して、わたくしたちは例の物置にいた。地下で唯一、外の光が差しこむ場所。
明かり取りの硝子は相変わらず埃で曇っているのに、落ちてくる光だけは、あの日より白く重たくなっている。指の先をかじかませたあの風は、もうここにも吹いてこない。
ミントは繋いでいないほうの手で、大事そうに飴玉と一通の手紙を取り出した。弟からの、たどたどしい文字の便りだという。
「『お姉ちゃんの押し花、ぜんぶ大事にしてる』って。ね、字、上手になったでしょ」
「……ええ。ずいぶん」
「あとちょっとで、弟のお薬代、ぜんぶ貯まるんだ。そしたらあたし、堂々と家に帰れる」
ここで「よかったわね」と申し上げれば済んだのです。
「その報酬、本当に約束どおり支払われると思っていますの?」
繋いだ手のひらが、ぴくりと動いた。
「え……どういう、こと?」
「命がけの治験の被験者なんて、しょせん使い捨ての駒ですわ。都合が悪くなれば、報酬など反故にされて終わり。あなたが命を削って貯めたそのお金も、上の一存でいつ消えてもおかしくありません」
「……」
「人を、そう簡単に信じるものではなくてよ」
言い切ってから、しまった、と思った。もう遅い。
……祝いの言葉のつもりで、貸借の話をしておりました。
ミントはしばらく黙っていた。それから繋いだ手にきゅっと力をこめて、まっすぐにわたくしを見る。
「オクタヴィアさんが、いっぱい裏切られてきたの、あたし、なんとなく分かるよ。だから、そう言うんだよね」
「同情なら——」
「ちがう。あたしだって、信じて裏切られるの、こわくないわけじゃない。報酬が消えるかもって、考えたこともある。でもね」
埃の粒が、二人のあいだをゆっくり横切っていく。
「信じないでいるより、信じてるあたしのほうが、あたし、好きなんだ。そうなったら、そのとき泣けばいい。疑ってばっかりで誰の手も取らないままなのは、あたしはもう、やだ」
喉の奥がつかえて、返す言葉が出てこない。わたくしは明かり取りの光を見上げた。目を細めないと、見ていられない。汗と埃にまみれた16の娘が、白い光を背負って笑っている。
繋がれた手のほうが、先に熱くなっていた。皮膚の下で脈が二つ、少しずつ速さを揃えていく。どちらのものとも知れない拍が、手のひらの真ん中で重なって、ひとつに聞こえた。
その拍が、ふいにほどけた。役目を終えたみたいに。
「あ、剥がれた」
「半日と申し上げたでしょう。あの方の見立ては、こういうところだけ正確ですのよ」
手のひらに残った熱は、離れたあともしばらく消えなかった。
「……ミント。ひとつだけ、教えてさしあげる」
「なに?」
「わたくしは、あなたのその生き方をまだ真似できません。人を信じるのは、やっぱり、こわいもの。……でも、あなたのその笑い方は、悪くないと思っておりますわ」
「……なにそれ。オクタヴィアさん、それ、めっちゃ嬉しいやつ!」
「大きな声を出さないの。暑苦しい」
ミントは飛びついてこようとして、くっつきの解けたのを思い出し、代わりにこつんと肩をぶつけてきた。汗ばんだ肩がじんわり熱い。
この暑さの中でわざわざ人にくっついてくる娘の気持ちは、正直、理解の外です。理解の外ですけれど、押しのける手が、今日はどうしても上がりませんでした。
次話:「男になっても、口の悪さはそのまま」




