第15話「男になっても、口の悪さはそのまま」
「ごきげんよう」
言ったのはわたくしです。喉から出てきたのは、酒場のごろつきの声でした。
もう一度やってみる。優雅な淑女の挨拶が、地を這うような低音になって寝室の壁へぶつかった。喉に手を当てると、覚えのない硬い出っ張りが指の腹を押し返してくる。
……なるほど。今日は、性別ごと替えてきましたのね。
肩幅は張り、顎の線は硬い。被験者服は胸まわりも肩もぱつぱつで、今にも縫い目がはじけそうだ。侯爵令嬢が朝目覚めたら屈強な男になっていたなど、王都広しといえど、そうそうある話ではございません。
「オクタヴィアさ……えっ、だれ!? しらない男の人が寝てる!」
「わたくしですわ、ミント。声は低いですけれど、中身は正真正銘、いつもの毒蛇です」
「うそ、その声で"わたくし"って言うの、ずるい……! ていうか、かっこいい!」
「ええ。おかげで肩の縫い目が3箇所はじけましたわ。誉め言葉の相場としては高くつきますこと」
ミントは目を輝かせて、男になったわたくしの周りをぐるぐる回った。袖をめくって腕の太さを確かめ、背伸びして頭の高さを測り、しまいには握手まで求めてくる。困ったことに、当のわたくしまで、まんざらでもない気になってくる。
廊下へ出ると、すれ違う被験者仲間が、誰ひとりわたくしに気づかなかった。いつもは遠巻きにする者たちが、今日は「新入りか」という顔で無遠慮に肩をぶつけて通り過ぎる。
ぶつかられるのは、はじめての経験でしたわ。この地下でわたくしの前にはいつも、人ひとりぶんの隙間が空いておりましたもの。その隙間が今朝は塞がっていて、肩が当たり、詫びの一言まで返ってくる。
毒蛇と呼ばれた女の悪名も、この顎の線ひとつで消えてしまうらしい。姿というのは、存外あてにならない衣装ですこと。
食堂では、いつもわたくしの椀を遠くへ押しやる男が、自分から場所を空けて手招きしてきた。厨房の女は具の多いほうをよそってくれる。悪くない気分だと思いかけて、口の中の肉のかけらが急に味を失った。この椀は、わたくしに来たものではございません。
治験室の敷居をまたぐと、クラウスが手帳から顔を上げた。そして、そのまま数拍こちらを見ている。
「……7号か」
「ええ。ご覧のとおりの有様ですわ。ずいぶんと、いかつくなりましたでしょう」
「…………」
「まあ。いつもの無遠慮な観察は、どちらへお預けに?」
クラウスは巻き尺を出して、机の上へ広げかけた。それから広げるのをやめて、端を指で押さえたまま口を開く。
「肩幅が広がって、袖丈が2寸足りん。喉仏の高さは……いや、そこは測らん」
「測らんとは。ずいぶん急に、ご遠慮深くなりましたのね」
「手を出せ。記録する」
差し出した手首をつかむ手つきが、今日はほんの少しぎこちなかった。指の当て方が遠慮がちで、妙に慎重なのだ。それでも手首の上でなさることだけは、いつもの3つを一つも飛ばさない。
男の腕では、同じ染みが指1本ぶん狭く見えた。狭く見えるだけで、縁は昨日の縁の外にある。腕が太くなろうと、藍のほうは自分の予定を一日も繰り上げも繰り下げもしない。
「妙ですこと。中身はいつもの7号ですのよ? 男になったくらいで、なぜあなたがそわそわなさるの」
答えの代わりに、巻き尺の端が指の下で二度巻き直された。目盛りは何も測っていない。
「では、なぜ目を合わせてくださらないの」
「……記録に集中している」
嘘ですわ。この方が記録に手こずるところなど、見たことがございません。爪の伸びまで平然と書きつけるくせに、今日に限って羽根ペンの先が宙で迷っている。
そこへポッケが入ってきて、男のわたくしを見るなり悲鳴を上げた。
「ひっ、だ、誰ですかその人! 部外者は立ち入り禁止で——」
「ポッケ。それは7号だ」
「ええっ!? そ、そんなに厳ついお顔でしたっけ!?」
「この声で凄めば、あなたなど泣かせる自信がありましてよ」
「ひぃ、声も含めて怖いですぅ!」
低い声で毒を吐くと、迫力が三割増しになるらしい。ポッケは帳面を抱えて部屋の隅で小さくなってしまった。気の毒だけれど、この威圧感は令嬢の姿では決して味わえない代物である。
調子に乗ったのが、いけませんでした。
小瓶を受け取るとき、わたくしはわざと顔を近づけた。男の背丈のぶんだけ、見下ろす形になる。クラウスの顎が半寸ほど引かれた。
「あら。逃げていらっしゃる」
「逃げていない」
「では、もうひとつだけ。……わたくしが7号でなくなった途端に目を逸らすのでしたら、あなたが毎日ご覧になっていたのは、番号ではございませんのね」
羽根ペンが、机の上で軸受けから外れた。
部屋の空気が、いちどきに固くなる。ミントが息を止め、ポッケが帳面の陰へ完全に沈んだ。炉の火の音だけが、やけにはっきり聞こえてくる。
「……被験体7号。本日の記録は、ここまでとする」
敬語だった。この方が、わたくしに敬語を使った。
……からかうだけで止めておけば、笑い話で済みましたのに。
瓶をあおる。喉仏が上下する感覚は、我ながら据わりが悪い。喉の奥の痺れだけは、器が変わってもいつもと同じようにやってきた。
「効かないな。……声も体も変わって、口の悪さだけがそっくり残ってる」
「あら。いちばん変えたいところが、いちばん頑固ですのね」
「そうだな。7号の口の悪さは、たぶん薬でも消せん」
ぼそりとそう言って、クラウスはようやくほんの少しだけ口の端をゆるめた。氷がわずかに溶けたその瞬間を、わたくしは見逃しませんでしたわ。敬語もろとも、そこで解けたのだと思うことにいたします。
夕刻、ヴォルフの名で書簡が届いたという話が、食堂まで降りてきた。次の視察の日取りが記されているのだそうだ。ポッケが夕食を三口で切り上げて、記録室へ戻っていった。
その夜、男の器は妙な順で剥がれた。まず低い声が抜け、次いでいかつい肩がしぼんで元の華奢さへ帰っていく。磨いた盆に見慣れた仏頂面が戻ってきて、なぜだかほっとした。
「戻っちゃったね。ちょっと寂しい」
「あれはあれで肩が凝りましたのよ。縫い目も3箇所ほど犠牲になりましたし」
「でもさ、今日、オクタヴィアさん、ぶつかられてたでしょ。廊下で」
「……見ておりましたのね」
「うん。ぶつかられて、ちょっとだけ嬉しそうだった」
言い返そうとして、言葉が出てこなかった。この娘は、余計なところばかりよく見ている。
腑に落ちないことが、ひとつだけ残っている。
男のわたくしには目を合わせられないのに、女のわたくしの手首は毎日おつかみになる。あの手つきの遠慮は、いったいどちらへ向いたものだったのかしら。
……考えても詮ないことを、わたくしは寝返りとともに枕の下へ押しこんだ。
次話:「どうか、気づかせないでほしい」




