第16話「どうか、気づかせないでほしい」
鋏を入れるたび、髪は切ったぶんだけ伸びた。
三度やって、三度とも元へ戻る。四度目でミントが鋏を取り上げた。
「もう寝てるあいだに勝負ついてたやつだよ、それ」
「床を掃きたくないだけですわ」
「掃いてるよ。もう廊下のぶんまで掃いてる」
一晩のうちに、腰までだった髪が床を這うほど伸びていた。爪も獣の鉤爪みたいに、にゅうっと伸びきっている。
伸びた髪が廊下を掃き、爪が扉に引っかかる。ポッケは伸びゆく爪を見て腰を抜かし、ミントは大喜びでわたくしの髪を三つ編みにして遊びだした。編んだ先から、また畳を這うほど伸びていく。
朝食の席では、伸びすぎた前髪がスープの椀へだらりと垂れた。具のかわりに自分の髪を煮る朝です。匙は爪が邪魔で握れず、椀に直接口をつけるほかない。
髪というのは、伸びると重い。首の後ろに濡れた縄を巻きつけたような重さで、俯くと肩ごと引かれる。爪のほうは逆に軽くて、そのぶん厄介だった。何にでも先に当たる。長椅子の背に当たり、椀の縁に当たり、自分の頬にまで当たる。持ち主の許しを取らずに、この体はどこまでも前へ出ていく。
「ミント。この地下で、いちばん優雅でない令嬢はどなただと思って?」
「はい!」
「手を挙げなくてよろしい」
治験室では、栓より先に手首が取られた。数える指の下で、脈が思ったより速い。袖はそのあとで上がる。
クラウスは机の抽斗から薄い板を出して、藍色のわきへ並べた。染料屋が使うような色の見本で、藍の濃さが段になって刷ってある。端のほうは水のように薄く、反対の端は夜そのものだ。並んだ小片を一枚ずつ当てて、目を細める。
いつからこんなものが抽斗にあったのかしら。少なくとも、わたくしが降りてきた日の机には載っておりませんでしたわ。
「昨日の色より、藍が半段浅い。……いや、灯りのせいだ」
「ご自分の見立てを、その場で取り下げなさいましたわね」
「取り下げた。記録には両方書く」
瓶をあおる。舌の付け根から順に痺れが降りていって、それが引くのと入れ替わりに、左手首の藍色がすうっと色を濃くした。宵闇の深さへ沈んでいく。
わたくしはその一部始終をじっと見ていた。
薬を飲む。あざが濃くなる。そして翌朝には決まって、前より少しだけ薄い。これまで何度も繰り返された連動を、今日はなぜか見過ごせなかった。
「効かないお薬でも、飲んだ日は、この染みがきちんと返事をいたしますのね」
「返事ではない。反応だ」
「効かないものに、反応するものかしら」
声が返ってこない。この方の語尾だけが、さっきより半音低くなっている。
「……今日は髪が伸びる。喋ると疲れる。寝ろ」
「まだ日も高うございますけれど」
言ったきり、この方は色見本を抽斗へしまった。しまう手つきだけが丁寧だった。
「効かないな。……髪も爪も、よく伸びる」
「ええ。おかげで妖怪呼ばわりされましてよ」
「そうか。……次だ」
効かない、次だ。その響きに、今日はすがるみたいに耳を澄ませた。効かない。そう、効かないのですわ。あざが濃くなるのも、翌朝薄くなるのも、なにもかも偶然。
偶然、で片づけるには、点が多すぎるのですけれど。
廊下でポッケを捕まえたのは、その帰りだった。捕まえるつもりなどなかったのです。爪の長い手で袖をつかんでしまって、離す前に口が動いた。
「ポッケ。ひとつ伺いますわ」
「ひっ、爪、爪が刺さって——」
「あの手帳の、下から5行目まで。あれは全部わたくしの手首のことですのね」
ポッケの踵が、半歩ぶん後ろへ逃げた。
「そ、それは、その、記録の細かさは先生の判断で」
「半年も治験を遅らせて、監督官に叱られてまで、あの方が引き延ばしていらっしゃるのは何ですの」
「僕は、あの」
「あなた、消した跡から名前が読めたとおっしゃいましたわね。あの記録簿には、他に何が書いてありましたの」
目の縁が、みるみる赤くなった。帳面を胸に抱えて、もう一歩下がる。
「……言えません。言えないんです。僕が言ったら、あの人が」
「先生がどうなると、あなたはお考えなの」
「7号さんも、ほんとは、聞かないほうがいいと思います」
声が裏返って、語尾が長く伸びた。この人が泣きそうになるときの、いつもの鳴き方だ。
袖を離した。爪の跡が、布に4本残っている。
……訊けない相手の代わりに、訊きやすい方を選んでおりましたわ。
ポッケは謝った。謝られる筋合いなど、どこにもございませんのに。
その日一日、わたくしは髪を引きずって地下を歩いた。歩けば埃が集まり、集まったぶんだけ重くなる。廊下の角を曲がるたび、髪の先が遅れてついてくる。
歩きながら、ばらばらだった点が勝手に手をつなごうとするのを、片端から振りほどいた。
効かないと言いながら、毎日欠かさず飲ませること。手首の欄だけ文字の詰まった手帳。半年遅れの治験。夜ごと隠れて何かを作る背中。あの薬液の底にあった、甘い花の匂い。
線が引かれてしまう前に、わたくしは目をつぶった。
この地下は湿っていて、ぬるくて、薬草くさい。絹の寝台も専属の侍女もない。それでも目が覚めて落胆しなくなってから、ずいぶん経つ。
あの夜会の広間も、真実がひとつ出ただけで空になりましたもの。
「オクタヴィアさん、髪、結んであげよっか。引きずってると危ないよ」
「……お願いいたしますわ」
「めずらしい。素直だ」
「今日は、手が使えませんもの」
ミントの指が髪を分けていく。頭の後ろで、編み目がひとつずつ増えていく音がした。編んでも伸びるのだから、意味などないのです。意味がなくても、誰かが後ろで手を動かしている音は、悪くありませんでした。
「ねえ、オクタヴィアさん。なんかあった?」
「なにも」
「ふーん」
「その相槌はおやめになってと、申し上げましたでしょう」
その夜、寝台で左の手首をそっと胸に抱えこんだ。濃くなった藍色が、暗がりでもわかるほどはっきり浮いている。明日の朝にはまた少し、薄くなっているのでしょう。
どうか、と思う。どうか、このまま何も気づかせないでほしい。効かない薬に、意味などありませんように。あの方の隠しごとが、わたくしとはなんの関わりもありませんように。
髪は夜のうちに縮んで、朝には腰の高さへ戻っていた。編み目だけが、ほどかれないまま残っている。
次話:「捨て駒だと、笑って言えたら」




