第30話「目を開けたら、そこにいたのは」
迎えの馬車は、7度目で来なくなりました。
はじめは家令が参りました。次は家令と侍女。そのあとは書付だけになって、6度目には「お考え直しを」の一文が短くなり、7度目でとうとう途絶えます。侯爵家の忍耐というものにも、ちゃんと目盛りがあるのですわ。
通気口から入る風の匂いが、いつのまにか変わっております。石段へ迷いこんでくる葉も、まだ青いまま乾いて丸まっていました。
名誉ある令嬢が、好きこのんで地下暮らし。家令が卒倒するのも無理はございません。それでも、金の匙より欠けた木の椀のほうが、今のわたくしの手にはよく馴染むのです。
クラウスはいつもの机で手帳を繰っておりました。
……繰っているというより、めくっては閉じ、また開いております。同じ頁を3度めくったところで、こちらは数えるのをやめました。
「クラウス。その頁に穴が開きましてよ」
「開かん」
「では、開きかけているのはあなたのほうですのね」
「……7号」
「あら。せっかく名前を覚えてくださったのに、逆戻りかしら」
「オクタヴィア」
言い直した声が、わずかに掠れておりました。
「……その手のなかに、何かございますのね」
「まだ何も出してない」
「そのお返事が、いちばん雄弁ですこと」
抽斗の奥から、小さな硝子瓶がひとつ出てきました。
見覚えがあります。夜ふけの治験室で、誰にも隠れて煮つめていた、あの一本。中で透きとおった雫が、砕いた星のかけらを溶かしたみたいに、ちろりと光っている。
「まあ。その抽斗の奥から出てくるものに、ろくな覚えがございませんこと」
「今日のは、当たりだ」
「最後の一本だ。飲め」
「まあ。今日はいったい、何に化けさせられますの」
「化けない。……これを飲めば、お前が一番会いたい奴のそばへ帰れる」
椀を持つ手が下りました。
スープの湯気が、指の隙間からゆっくり上っていきます。
「空を飛ぶわけでも、遠くへ運ばれるわけでもない。すぐ隣にその気配があると、体のほうが思いこむ。……そういうふうに効く」
「ずいぶん回りくどいお薬ですこと」
「薬はみんな、体にしか効かん」
「ずいぶん不便でございますこと」
「そういう作りになってる」
「では、わたくしはどういたせば」
「目をつぶれ。開けるのは、お前の勝手だ」
平坦な声はいつもどおりです。
いつもどおりなのに、この方はこちらと目を合わせません。
「毒は抜けた。名誉も家も戻った。お前がこんな地下にしがみつく理由は、もうどこにもない。……だから、それを飲んで行け。どこへでも行っていい」
——ああ。
この方はたった今、わたくしを手放そうとしております。
効かない効かないと毎朝嘘を通した方が、最後にこっそり仕込んでいたのが、わたくしを自分の手もとから逃がすための一本だなんて。
行くな、の三文字が言えないものだから、行くための薬をこしらえる。何本の瓶を無駄になさったのかしら。
「……本当に、飲んでよろしいの」
「お前が決めろ」
わたくしは黙って栓を抜きました。
薬草の底に、覚えのある甘い花の匂いがひそんでおります。この地下ではじめて一本目を飲んだ日、髪が虹に染まる直前に嗅いだのと同じ香り。
ひと息にあおると、喉の奥がぴりりと痺れて、熱が指の先まで駆けめぐっていきました。
目を閉じます。
瞼の裏がふうっと明るみました。
胸の奥に小さな灯がともって、じんわりと全身へ広がっていくのが分かります。会いたい。いちばん会いたい人のそばへ、体ごと引き寄せられていく。
銀色の無造作な髪。効かないが口癖の、そっけない低い声。人の爪の伸びまで手帳に書きつける、世にも珍妙な変わり者。
その気配が、すぐ隣まで近づいてきます。ほら、もう手が届いて——
目を開けました。
……何ひとつ、変わっておりません。
石を削った天井も、錬金炉のくすぶる匂いもそのまま。景色は指の先ほども動いていない。そしてわたくしの目の前には、さっきと寸分たがわぬ場所に、クラウスが立ち尽くしております。
薬が効かなかったのだと、はじめは思いました。
けれど、胸に灯った明かりは、今もちゃんとともっている。会いたい人のすぐそばにいる、あの温かい心地は、こうして体じゅうに満ちたままなのです。
……つまり、そういうこと。
わたくしがいちばん会いたい方は、はじめから、この目と鼻の先に立っていた。だから体が帰ろうとした先も、一歩も動かずに済む場所だった。
目の縁がじわりと熱くなってきます。泣くものかと奥歯を噛んだのに、視界の端が薄くにじんでいく。
わたくしは瓶を机へ戻し、精いっぱいの澄まし顔で顎を上げました。
「クラウス。あなたのお薬、やっぱり効きませんでしたわ」
「……そうか」
「ええ、これっぽっちも。一歩だって動けやしませんもの。——だって、わたくしの一番会いたい方が、こんなに近くで、世にも無粋な顔をして突っ立っているのですから」
クラウスの目が大きく見ひらかれました。
氷のようだった瞳の奥が、ゆっくりとほどけていきます。何か言おうとして、言葉を探しあぐねて、この方らしくもなく口を半端に開けたまま固まっている。
それから、机の上のわたくしの足もとを、目で測りました。
「……一歩も動いてない。0だ」
「ええ。0ですわ」
「0という数は、記録に向かん」
「では今日は、書きにくいものをどうぞ」
「効かせるつもりで、作ったのに」
「あら。効かないお薬を毎日せっせと飲ませてきたのは、どちらさまでしたかしら」
クラウスは観念したように、片手で目もとを覆いました。
指の隙間からのぞいた頬が、ほんのり赤い。
「……これも、効かないな」
「ええ、まるで」
「なら——次は、もういらない」
いつもなら「効かない。次だ」と続くはずの口癖から、この方は"次"の行き先を消してしまいました。
かわりに、机に置いたわたくしの手へ、そっと自分の手のひらを重ねてきます。骨ばった指が、確かめるみたいにゆっくり絡んでくる。
いつも薬を差し出すばかりだったその手が、今日はわたくしを放すまいと、不器用に力をこめておりました。
わたくしはその温かさを、しばらく黙って受け取っておりました。
黙っていられたのは、そこまででした。
「……では、明日は何を飲まされますの」
クラウスの指が、笑いをこらえて震えます。
……せっかくの間を、明日の献立で埋めてしまいましたわ。
「明日は、なんでもない水だ」
「まあ。それはずいぶん、よく効きそうですこと」
「水は効かん」
「わたくしには効きますわ。あなたが寄こすものでしたら」
地下の炉が、ぱち、と小さく鳴りました。
それきり、何の音もいたしません。重ねた手のぶんだけ机が温かくて、そのほかには、本当に何も起きませんでした。
次話:「番号のない、わたくしの朝」




