第29話「今度はわたくしが、あなたの前に立つ」
巻物の一行目に、わたくしの名前が書いてございました。
番号ではなく、家名つきのほうです。オクタヴィア・ヴァレンフェルト。久しく紙の上で見ていない並びでした。
瓦礫があらかた片づいて、通気口が外の熱をそのまま吐き出すようになった頃。石の壁が汗をかき、朝から被験者服の背中が湿ります。王家の紋を掲げた使者が、被験者服のままのわたくしの前で、その巻物を広げたのです。
継母ブランカの罪状。断罪の取り消し。侯爵家への復籍と、名誉回復の打診。
「オクタヴィアさま。どうか王都のお邸へ、お戻りくださいませ」
「あら。地下の粗末なスープに、すっかり舌が肥えてしまいましたのに」
使者が目を白黒させております。傍らでミントが噴き出しました。
「オクタヴィアさん、もう7号じゃないんだ! 侯爵令嬢さまだね!」
「……侯爵令嬢では、ございませんの」
「え? だって、そこに書いて——」
「オクタヴィア、と申しますの。前にも後ろにも、何もつきません」
ミントが口を半分開けたまま、こちらを見上げております。
手放すのに、ずいぶん薬を飲みましたこと。
「……うん。オクタヴィアさんだ」
「ええ。それで足ります」
その祝いの空気を、革の長靴の音が断ち切りました。
監督官ヴォルフが、兵を連れて治験室へ入ってきます。視線の先にいるのはわたくしではありません。机の前で手帳を閉じた、クラウスです。
「アーベントロート。貴様には、国家錬金物たる本命薬の治験を、意図的に妨害した嫌疑がかかっている。職を解き、王都の裁定所へ同行してもらう」
息が詰まりました。
妨害。この方は毎朝、効かないと言い張りながら、わたくしに薬を飲ませ続けた。それがなければ、わたくしはとうに継母の毒で死んでおります。
人の命を延ばした行いが、罪に数えられるというの。
クラウスは抗いもせず、両手を前へ差し出しました。いつもわたくしへ「手を出せ」と言ったその手が、今日は縄を待つ形をしています。
兵が縄を解いて、結び目の数を数えはじめました。クラウスは、それを一緒に数えておりました。口のなかで、静かに。
「お待ちなさい」
わたくしはヴォルフと兵のあいだへ割って入りました。
「その方を裁くというなら、まず、わたくしの話をお聞きなさい」
「被験体の証言に、証拠能力はない」
降ろしたばかりの名を、今日だけは道具にいたします。
「ええ。ですから、被験者7号としてではなく、ヴァレンフェルト侯爵家の名において申し上げますわ。……格好がつきませんから、少々お待ちになって」
懐から、崩れた朝にクラウスが押しこんだ一本を取り出しました。
栓の封蝋の色に覚えがあります。体をすっかり作り変えられて、声まで別人になった、あの一本。栓を抜いてあおると、喉の奥が痺れて、熱が背骨を駆けのぼっていきました。
背が伸び、肩が張り、被験者服がぱつぱつに突っぱります。
「な——」
兵たちが後ずさりました。
目の前に立っているのは、天井につかえそうな大柄の男。それが令嬢の言葉づかいで喋るのですから、無理もございません。
「下がりなさい。この声で凄めば人が泣く、と前に申し上げたことがございますの。お試しになる?」
兵の足が止まりました。
番号の娘には見向きもしなかった監督官が、大柄の紳士の一喝には耳を貸す。世の中というのは、ずいぶん目方で回っておりますのね。
「監督官どの。アーベントロートの妨害とやらは、ひとりの侯爵令嬢が継母の呪毒で謀殺されるのを防いだ行いです。彼が引き延ばさなければ、王家は今ごろ、名家の令嬢殺しを見逃した恥を末代まで背負っておりました」
「……」
「効かない薬で人を助けた罪、というものが、この国にはございますの」
ヴォルフの眉が、片方だけ持ち上がりました。
この減らず口の紳士が、たった今まで被験者服を着ていた娘だと気づいたのです。呆れとも感心ともつかない目で、この人はわたくしを上から下まで測りました。
「監督官どの。あなたの靴音は、行きも帰りも11歩でしたわね。この地下で、いちばん狂いのない目盛りですわ」
「……それが何だ」
「あれほど正確に数えられる方が、一度も数え損ねたことがない、とは思えませんの。……合わなかった日が、あなたにもおありでしょう」
ヴォルフは答えませんでした。
答えないかわりに、次の息がひとつ、遅れて出てまいります。
「その日から数えなおしていらっしゃるのなら、人を死なせないために職務を曲げた者の気持ちも、少しはお分かりになりますでしょう」
ヴォルフはしばらく黙っておりました。
その視線が、床の縄とクラウスの手をゆっくり往復します。それから兵へ手を上げて、下がるよう合図しました。
「……治験の遅延は、被験体の容態悪化による正当な医療判断であった。私はそう報告書に記す」
張りつめていた空気が、ようやくゆるみます。
そこで口を閉じておけばよかったのです。
「ご立派ですこと。……その報告書を半年前に書いてくださっていたら、この方の手は、震えずに済みましたのに」
治験室が、しん、となりました。
ヴォルフは何も言い返さず、兵の見ている前で、わたくしへ深く頭を下げたのです。国の監督官が、被験者上がりの大男へ。
ミントが「うわ……」と小さく漏らしました。
「お前、勝った後が下手だな」
「存じておりますわ。生まれつきですの」
わたくしは男の姿のまま、クラウスへ向き直りました。
そして、いつかこの方がわたくしにしたように、片手を差し出します。
「手を出しなさい、クラウス。……今度は、わたくしが連れて帰る番ですわ」
クラウスは無骨な男の手とその持ち主を、交互に見比べました。それから、こらえきれないというふうに肩を震わせる。泣き笑いの、へたくそな顔でした。
「……7寸ばかり伸びたな。前に測ったときより高い」
「そこをお測りになるところですの、今」
「測る。ほかにやることがない」
「早く元へお戻りなさいと、おっしゃればよろしいのに」
「……オクタヴィア。頼むから、元に戻ってくれ」
侯爵家の名が戻ったその日のうちに、わたくしはミントの弟の薬代を家の金庫から出すと約束しました。難病を治す錬金薬も、腕のいい錬金術師さえいれば作れるそうです。
「その錬金術師の心当たりでしたら、さいわい、目の前にひとりおりますのよ」
「……先生、できる?」
「作る。材料が要る。遠国の草だ。金貨で殴れ」
「殴りますわ。いくらでも」
ミントは目を潤ませかけて、それから、いつもの調子で笑いました。
毒は抜けました。名誉も身分も帰る家も、みんな戻ってきた。この地下にいる理由など、もうどこにもございません。
……はずが、わたくしの足は治験室から一歩も出ていかないのです。
そんなわたくしへ、クラウスがいつぞやの星のかけらの小瓶を差し出しかけて——手を引っこめました。
「……いや。これは、また今度だ」
作るものはみんな効かないと言い張る方が、最後の一本だけは、まだ手の内に握ったままでした。
次話:「目を開けたら、そこにいたのは」




