第28話「はじめて、番号じゃない名前で」
口のなかに、鉄の味がしておりました。
瓦礫の粉と、血と、松明の煤。それが遠くなっていきます。味も匂いも、水の底から聞く物音のように薄れていく。指の先が、順番に他人のものになっていきました。
ああ、これで終いですのね。
そう思った途端、頬を固いものがはたきました。
「7号! 目を閉じるな。こっちを見ろ」
打たれた痛みで、意識が岸へ戻ってきます。
唇へ瓶の縁が押し当てられました。覚えのある苦さです。いつか舌が異様に冴えて、スープの塩の粒まで数えられた、あの日の味。
「クラウス。これは」
「舌の薬だ。前に一度飲ませた」
「いちばんまずかったやつですのね」
「そうだ。まずいほうが、よく効く」
「今それをおっしゃいますの」
「言う。……口を開けろ」
顎を掴まれて、瓶の中身が流しこまれました。
「舌を思い出せ。お前の舌は、どんな毒でも見分ける。……その舌で、体のなかの毒を捕まえろ。ほかの誰にもできん」
苦い雫が喉を伝っていきます。
萎えていた舌の根が、ぶわりと起き上がりました。
味が洪水になって押し寄せてきます。血の鉄気。骨の髄の甘み。それから——体の芯を這いまわる、甘くて昏い花の味。いつか器の底で舌が拾ったのと、同じ味でした。
この舌は、一度味わったものを忘れません。
逃げまわる一滴一滴に、舌が名前をつけていきます。名前をつけられた毒は、そこから先へ進めずに萎んでいく。持ち主を苦しめるばかりだった舌が、今このときのために研がれていたのです。
まずいスープも、焦げた豆も、みんなここへ続いておりました。
わたくしは苦さに涙をこぼしながら、体じゅうを舐めるようにして、それを鎮めていきました。
とくん。
止まりかけていた心の臓が、鳴りました。
次が来ます。その次も、そのまた次も。間延びしていた拍が、少しずつ小走りに近づいていく。
指の先へ感覚が戻ってきました。冷たかった左腕に、血の温さが巡りはじめる。あれほど重たかった夜の色は、腕のどこにも残っておりません。
息を吸うと、埃っぽい地下の空気が胸いっぱいに広がりました。こんなまずい空気を、おいしいと思う日が来るなんて。
「オクタヴィアさん! 息してる! ねえ、息してるよ!」
「ミント。耳もとで叫ばないでくださいまし。せっかく戻った鼓膜が」
「どこから帰ってきたの!? あの世!?」
「さあ。ずいぶん遠くまで行っておりましたわ」
「ぼ、僕、監督官どのをお連れしました! ちゃんと、走りました!」
「存じておりますわ。裏返ったお声が、瓦礫の向こうまで届いておりましたもの」
ポッケはそこで安心したのか、瓦礫の縁に座りこんで泣き出しました。ミントがその襟を引いて、二人ぶんの足音が石の向こうへ遠ざかっていきます。
行きぎわに、ミントがこちらを一度だけ振り返りました。何も言わずに、行きました。
わたくしを抱えたまま、クラウスが動きません。
石の粉で汚れた腕が、こちらをきつく抱えている。指が背中の布を掴んで、離さない。
顔を上げたその頬を、透明なものが伝いました。
ぽたりと落ちた雫が、わたくしの頬で弾けます。
「……効かない、なんて、嘘だ」
絞り出すような声でした。
「クラウス。効かない、と、あなたは毎朝おっしゃいました」
「……ああ」
「あれは、どちらの意味でしたの。わたくしに何も起きないという意味? それとも、毒に届かないという意味?」
「……後ろだ。ずっと、後ろのほうだ」
「では、前のほうは」
「効いてた。……全部、効いてた」
「虹の髪も、天井につかえた背丈も、狐のしっぽもだ」
「ぜんぶ、お前の体を、毒に負けない体へ造り替えるためだった。効かないふりをして、俺は毎日お前を——守ってたんだ」
……そこで、わたくしの口が動きました。
「"守ってたんだ"。過去形ですのね」
クラウスの息が、そこで半分だけつかえました。
……あの方が何年もかけて言った一言に、わたくしは半拍で朱を入れましたわ。
「……いや」
この方は、濡れた顔のままで首を振りました。
「過去形じゃない。今もだ。……これからもだ」
訂正のほうが、よほど破壊力がございました。
「昔、俺の薬で被験者をひとり死なせた。目の前でだ」
声が低くなります。
「情を持てば、救えなかったときに壊れる。だから番号で呼んだ」
涙がぼたぼたと落ちてきます。
毎朝あの調子で嘘をつきながら、ひとりでその重さを持っていたのですわ。番号という壁の内側で、誰にも寄りかからずに。
腕の色より、胸のほうが痛みました。
「守れた。……今度は、守れた」
クラウスはくしゃくしゃの顔で、わたくしの手を握りしめました。骨ばった指が、すがるように絡んでくる。
「クラウス。なぜ、番号でお呼びになりましたの。……今、聞かせて」
答えは返ってきませんでした。
かわりに、この方は掠れた声で、その名を呼んだのです。
「……オクタヴィア」
番号ではありません。わたくしの、名前でした。
その音が、毒よりも深いところまで届いてきます。
「……ひどい方。番号のうちに、言ってくださればよろしかったのに」
「無理だ。あのころは、どうしても言えなかった」
「ふふ。……悪くない呼び名ですこと」
返事が来るまでに、拍がふたつありました。
何でも数える人の、いちばん間の悪い沈黙です。
「そうか」
「ええ。7号よりは、音の数が多うございますし」
「11音だ。前のは4音で済んだ」
「そこは、はりきってお使いなさいまし」
「オクタヴィア」
「なんですの」
「……いや。呼んだだけだ」
クラウスの指が、脈のある場所へ伸びてきました。
「……数えられん」
指が震えて、数が拾えないのです。二度やり直して、三度目でその手が下りました。
天秤へ麦粒を数えて載せた、あの指です。
「では、わたくしが数えますわ」
自分の指を自分の手首へ当てて、声に出して数えました。1、2、3。
クラウスは、それをじっと聞いておりました。数えているのはわたくしの脈なのに、なぜだか、聞いている側の呼吸のほうが合っていく。
瓦礫の隙間から、朝の光が細く落ちてきます。
夜が明けきる頃には、超過敏だった舌もいつもの淑女の舌へ戻っておりました。口に残ったのは、毒の苦みではなく、涙のしょっぱさだけ。
いつもなら、ここで「効かない。次だ」と、そっけない一言が続くはずでした。
今日は、それが来ません。
かわりに、わたくしの名前を呼びます。何でも数える口が、今日は名前ばかり数えている。
わたくしは返事をせず、その肩へ額を預けました。返事をしてしまえば、この人がまた喋りはじめる気がしたので。
次話:「今度はわたくしが、あなたの前に立つ」




