第27話「ふざけた薬たちが、盾になる」
石の床が、足の裏で震えておりました。
見回りの気だるい歩き方ではありません。革の長靴が石を蹴る音が、そろわないまま幾つも重なって近づいてくる。
わたくしの心の臓は、その足音に合わせるでもなく、相変わらず間の抜けた拍を落としておりました。
扉が開いて、松明の熱が先に入ってきました。
男たちを従えて、絹の裾を引いた婦人がひとり。地下の黴くささへ、甘い香りが真上から降ってくる。忘れようもない匂いです。
「……お継母さま」
「まあ、オクタヴィア。ずいぶんおやつれになって。こんな湿ったところで」
扇が半分だけ開きました。
その陰の目が、あらわになったわたくしの左腕へ流れていく。肩の手前まで来た夜の色を確かめて、満足そうに細くなった。
「あら。もう、そこまで。……思ったより、長くもったこと」
息が浅くなりました。
この方は知っている。この色が何なのかを、最初から知っている。
「……あなたが、わたくしに」
「今さらでございましょう? あなたを庇う人など、どこにもいなかったのですから」
微笑みは崩れません。崩れないまま、声だけが氷の温度になりました。
「オクタヴィアさん。この人、だれ」
「わたくしを産まなかったほうの、母ですわ」
ミントがわたくしの背へ回りこみました。ポッケは扉の陰で紙束を抱えたまま固まっている。
ここで黙って、二人を風の通る側へ押しやれば、それで済んだのです。
済ませられませんでした。
「お継母さま。ずいぶん長らくお待たせして、申し訳ございません。次は、もう少し働きのよい毒をお選びになって」
扇が音を立てて閉じました。
「……その口。ほんとうに、あなたのお母さまに似ませんこと」
「よく言われますの」
「壺を。急ぎなさい」
男たちが壁ぎわの小さな壺へ次々と火を移していきます。壺の口で、毒々しい紫がふくらんでは沈み、ふくらんでは沈む。地下ごと落とすための錬金の炸薬でした。
……逃げ道の話をしておりましたのに、この口は挨拶を始めましたわ。
「7号!」
治験室の側から、クラウスが走ってきました。手には七色の濁った液の入った瓶。栓を抜くより早く、わたくしの手のなかへ押しこまれる。
「1本目、髪。2本目、鼻。3本目、姿。4本目、腕。この順で来る。数えろ」
「あの、クラウス、これはいったい——」
「壺は9つ数えるあいだにひとつ脈を打つ。8つに縮んだら弾ける。今は9つ半だ。走りながら聞け」
言いながら、もう一本の小さな瓶がわたくしの懐へ押しこまれました。中身の説明はございません。
問いの入る隙が、どこにもありませんでした。
あおる。喉の奥でいくつもの熱がいっせいに口を開けて、骨という骨が内側から鳴りはじめる。
髪が根元から虹に染まりました。
世界の色が、いっぺんに増えます。壁ぎわの壺が、目に痛いほどの紫の塊として浮かび上がった。脈の間隔まで見える。9つ。9つ。……8つ半。
「ミント、ポッケ! こちらへ!」
鼻の奥が、いきなり地下の見取り図になりました。黴、松明の脂、男たちの汗。その奥の奥に、細い外気の筋がひとつ。崩れかけた古い通気口です。
毛玉になった日に覚えた鼻が、道を見つけました。
「クラウス。9つ半が、8つになりましてよ!」
「聞こえてる。走れ」
「あなたも走っていらっしゃるの?」
「俺は数えてる」
数を落とさずに走る背中でした。その背中に遅れないことだけを考えて、足を出します。
体が獣のように軽い。ミントの手を掴み、腰の抜けたポッケの襟を引きずって、男たちの間を縫って走ります。松明の輪の真ん中を通り抜けたのに、誰ひとり振り向かない。姿の薄れる体質が、気配ごとわたくしたちを消してくれておりました。
「オクタヴィアを逃がすな!」
ブランカの声と同時に、壺がいっせいに弾けました。
天井が鳴って、崩れてくる。ミントの真上へ、抱えきれない大きさの石が。
考えるより先に、腕が膨らみました。
受け止めた重さで足が床へめりこみます。骨が軋んで、歯の根が鳴った。それでも、ミントとポッケの頭の上に、腕でつっかい棒の屋根ができている。
「オクタヴィアさん、腕! 腕がっ!」
「口より足をお使いなさい! その先の風の道へ!」
ミントがポッケの襟首を掴んで、渾身の力で引きずり出していきました。
崩れた通路の向こうから、別の松明の列が押し寄せてきます。監督官ヴォルフと、その兵たちでした。
「動くな。研究所の破壊と、被験体への加害の現行犯だ」
「アーベントロート。この惨状の説明を」
「あとにしろ。7号の心臓が止まりかけてる」
「か、監督官どのをお呼びしたのは、僕です! ブランカさまが、7号さんを亡き者にしようと——! 証拠は、そこの壺です!」
ポッケの声は裏返っておりましたけれど、指の先はまっすぐ壺を差しておりました。
ヴォルフの目が、くすぶる壺と絹の裾を順に射抜きます。優雅な微笑みが、そこでとうとう剥がれ落ちました。
石を支える腕の力が、ふっとゆるみました。
見ると、虹に染まった腕の上で、夜の色が薄らいでいきます。指の先から順に、砂が水へ溶けるように。
「……消えて、いく」
瓦礫の隙間で、クラウスがわたくしの腕を掴みました。消えていく色を目で追う指が、震えている。
「足場を、失ったんだ。お前の体が、毒を留めておけなくなった」
「クラウス。あのばかばかしい薬たちは、ぜんぶ、今日の一日ぶんでしたのね」
「……ああ」
ヴォルフの兵が、ブランカと男たちを取り押さえました。
石の床へ落ちた扇が、澄んだ音を立てて割れる。慈母の顔をなくした継母は、それでもこちらを見て低く笑いました。
「毒は、もうあなたの中よ。染みが消えたところで、じきに死ぬわ」
その声が届いたときでした。胸のなかで、とん、と一拍が大きく跳ねます。
次が来ません。
「ねえ、クラウス」
「喋るな」
「喋りませんと、止まってしまいそうですもの」
「……喋れ。数えててやる」
この方は、わたくしの手首を取って、来ない拍を待ちはじめました。
「……クラウス」
「あざは消えた。だが、毒そのものはまだ体の中を漂ってる。足場をなくして、暴れてる。……このままだと、心の臓へ行く」
「……毒には、効きまして?」
「……効かない」
毎朝の返事でした。毎朝は聞き流していたものが、今日にかぎって耳から落ちてくれません。
膝から力が抜けていきました。
崩れた瓦礫の隙間から、白みかけた空の光が一筋だけ落ちてくる。夏の入り口の、まだ湿った色の光でした。
次の一拍を待ちます。
待っても、待っても、来ませんでした。
次話:「はじめて、番号じゃない名前で」




