第26話「もう間に合わない、その一言」
「……ん。だれか来た?」
ミントが寝ぼけ声でそう言って、寝返りを打ちました。
誰も来てはおりません。廊下は暗いままです。
とくん、と低い音が石の壁を打ちました。もう一度。それから、ずいぶん長い留守番があって——また、とくん。
自分の胸に手を当てて、わたくしはようやく合点がいきました。
鳴っているのは、わたくしの心の臓でした。胸の内側に収まっていられなくなって、部屋じゅうへ漏れ出しているのです。
「オクタヴィアさん、これ、オクタヴィアさんの音だ。……なんか、すごくゆっくりだね」
「地下の太鼓ですわ。夜な夜な自分で鳴っておりますの」
「太鼓のわりに、やる気がないね」
「打ち手が疲れておりますの」
ミントは寝台の縁へ耳を寄せて、しばらく真面目な顔で聞いておりました。それから自分の胸に手を当てて、首をかしげる。
「あたしの、こんなに速いよ。ほら、とととととって」
「あなたのは小走りで、わたくしのは柱時計ですわね」
朝餉の食堂では、居合わせた被験者が3人ばかり、わたくしの音に合わせて匙で卓を叩きはじめました。悪気はないのです。鳴っているものがあれば、手のほうが勝手に合わせにまいります。ポッケなど、羽根ペンの尻で正確に拍を刻んでいて、途中で自分に気づいて青くなっておりました。
「す、すみません! 僕、なんてことを!」
「かまいませんわ。踊りたければ、どうぞ」
「踊れません! 遅すぎます!」
「オクタヴィアさん、みんなして下手くそだね」
「わたくしの拍に付いてこられる方は、この地下にはおりませんの」
拍と拍のあいだが、日ごとに伸びております。
とくん、と鳴って、それから沈黙が来る。次が来るまでのあいだ、地下がまるごと息を止める。その静けさのたびに、自分の半分がもうここにいないような心地がしました。
左の袖は、もうめくる勇気が出ません。
それでも指が勝手に布をたぐってしまう。あざは二の腕を越えて、肩の手前まで来ておりました。あと指2本ぶんで鎖骨に届く。つねっても、叩いても、腕は遠い他人のものです。
治験室の扉を押すと、紙とインクの匂いが顔へぶつかってきました。
炉が冷えています。灰が掻き出されないまま、口のところに白く固まっていた。油皿は3つとも灯りっぱなしで、油の減り方から見て、昨日の宵からそのままです。
机の上も床も、処方の紙で埋まっている。ポッケの写しも、この方の手帳も、片端から床へ崩れ落ちていた。氷みたいに動じないはずの人が、髪を掻きむしって同じ数式を睨み返しています。
紙のどれもに、赤い印。失敗の印です。
「……先生。少しは、お休みになったほうが」
「うるさい」
「あの、お水を」
「いらん」
ポッケの差し出した器は、机の端へそっと移されました。
わたくしは、その背中へ向かって、いちばん言ってはいけないことを言いました。
「クラウス。もう、およしなさいまし」
「……」
「明日、あの黒いお薬をお飲ませになって。記録をお出しになって、監督官に褒めていただいて、あなたはこの部屋を続けるのがよろしいわ。わたくしのことは、勘定から外してくださいまし」
羽根ペンが紙の上で軋みました。
この方は、こちらを見ないまま、手帳へ向かって数を読みはじめた。
「乳鉢の目、11。粉の粒、揃わん。溶けが遅い。水を落とす。反応、鈍い。温度、上げる。……上げても同じだ」
わたくしにではなく、紙に向かって喋っている。返事の要らない相手を選んだのですわ。
言い終えた口の中が、やけに乾いておりました。
「クラウス」
「反応、鈍い。温度、上げる。……上げても」
羽根ペンの先が、紙の途中で紙を裂きました。
「……間に合わない」
その一言が、床の紙の上へ落ちました。
部屋がしんと静まりました。わたくしの心の臓が、とん、と大きく飛ぶ。次の拍が来るまでのあいだが、これまでのどれより長うございました。
ミントが自分の膝の布を握りしめる。ポッケの手から、置いたばかりの器が転がって割れました。
「……せんせい」
「言うな」
「言ってません! 先生が言ったんです!」
ポッケは割れた器の破片を拾おうとして、指を切って、それにも気づかずに拾い続けました。
「クラウス。毎朝の、あの平たいお声でおっしゃって」
「……」
「間に合わない、ではなく。効かない、と」
答えはございません。
わたくしは膝を折って、床の紙を一枚だけ拾い上げました。手帳の頁でした。落ちた拍子に糸から外れたのでしょう。
そこには、日付とともに、几帳面な字が並んでおりました。
虹色の髪。天井に届いた背丈。消えた姿。狐のしっぽ。声の出なくなった日。骨の抜けた日。ばかばかしい変身の一覧が、抜けも重なりもなく、頭からずっと。
どの行にも、投薬の刻限と、あざの寸法が添えてある。寸法の数字は、日ごとに増えたり減ったりを繰り返していました。それでも全体としては、ずいぶんゆっくりとしか増えていない。
指でその字をなぞりました。なぞりながら、胸の奥で何かがことりと動く。
「クラウス。……これだけ無茶苦茶なものを、あなたは毎朝、順番を決めてわたくしに飲ませてきましたのね」
「……」
「ぜんぶ何の意味もございませんでした、なんて。わたくし、どうしても思えませんの」
顔を上げたこの方の目が、見開かれました。
紙の山へ手を突っこんで、下のほうから何枚も引き抜く。並べる。並べ替える。羽根ペンを咥えたまま、指で頁を追っている。
「……全部を、いっぺんに」
何を掴んだのかは、わたくしには分かりません。
分かったのは、白旗を握っていた手が、もう一度だけ拳の形に戻ったことだけです。
心の臓が、とん、と飛びました。次の拍は——ちゃんと来ました。
わたくしは抽斗を自分で開けました。手前の列のいちばん端に立っているのが、今朝の1本です。この方に渡してもらうのを待っていたら、夜が明けてしまいますもの。
栓を抜いて、あおる。熱は肩の付け根まで上ってきて、そこで戸を閉められたように引き返しました。
「効きませんわね」
自分で言ってみました。言い慣れた方の代わりに。
「……次だ」
紙の山の向こうから、遅れて返ってきました。
その晩、地下の空気がいつもと違いました。
厨房の物音がやけに早く絶えて、見回りの足音が刻限になっても聞こえてこない。誰かが誰かに何かを伝えて、それが順に、静かに広がっている気配がします。
「オクタヴィアさん。起きてる?」
「ええ」
「外、静かすぎない?」
「知らせが回りましたのね。わたくしたちを飛ばして」
とくん、と壁が鳴りました。
ミントは、その音が消えるまで待っておりました。
「あたし、明日はどこにも行かないから」
「行き先のある方が羨ましゅうございますこと」
「そんな話してないんだけど」
「存じておりますわ」
ミントはそれきり何も言わず、寝台と寝台のあいだへ手を垂らしました。垂れた手は、朝までそこにございました。
わたくしの心の臓は、その静けさの上へ、間の抜けた拍を落とし続けました。
とくん、と鳴って、長い留守番。
その留守番のあいだじゅう、わたくしは暗がりで目を開けて、明日のほうから来る足音を待っておりました。
次話:「ふざけた薬たちが、盾になる」




