第25話「あなたのために、動く手がある」
かたん、と硬い音がしました。
落ちたのが自分の匙だと分かるまでに、ずいぶん間があった。握っていたはずの指が、いつのまにか綿の紐みたいにほどけていたのです。
拾おうとして、上体が前へ流れました。
止まらない。腰から上が、そのまま卓へ雪崩れていく。肘で支えようとした腕が、支えた形のまま横へ潰れた。骨のあるべきところが、朝のうちにそっくり留守になっておりました。
「オクタヴィアさん!? わっ、なんか、ぐにゃぐにゃになってる!」
「動かないでくださいまし。今、わたくしの背骨が留守ですの」
ミントが両脇へ手を入れて引き起こそうとすると、体は起きるそばから別のところが折れていく。首を立てれば腰が落ち、腰を戻せば膝が抜ける。もぐら叩きの要領です。
鉛の日には、重くて動けませんでした。今日は軽いのに、形が保てない。厄介さの種類が違うだけで、寝台から出られないのは同じですわ。
「ポッケ、こっち持って! 頭のほう!」
「は、はい! ……あの、7号さん、肩が、肩が僕の首へ巻きついてます」
「ごめんあそばせ。そこはもう、わたくしの言うことを聞きませんの」
「ひいい、締まる、締まってますぅ!」
毛布の四隅を握ったふたりに、わたくしは荷のように運ばれました。廊下の角でポッケが腰を痛め、ミントが「男でしょ!」と叱り、ポッケが「僕、記録係なんですけど!」と泣きごとを返す。
石段では、毛布の底が一段ごとに尻を打ちました。打たれても痛くないのが、また具合が悪い。痛みは骨のほうから返ってくるものだったのですわ。運ばれる令嬢というのは、口だけがやたらと元気になる乗り物です。
治験室の椅子へ下ろされたとき、袖がずり落ちました。
二の腕の半ばまで、あざが上っている。もう夜の色を通り越して、明かりを吸いこんだあとの穴みたいに見えました。
クラウスは動かないわたくしの手首を持ち上げて、脈を取った。取り終えると、指2本ぶんだけ腕を上へたどって、藍の端へ爪の先を当てる。手順は、体が何になろうと変わらないのですわ。
「背を離すぞ。数える」
背もたれから起こされて、支えを外されました。
「1、2、3……11」
11で、わたくしは机の上へ折れた。
「昨日のお前なら、数え切れなかった」
「淑女を勘定の途中で折らないでくださいまし」
ミントもポッケも、悲鳴をあげませんでした。昨日あの部屋で聞いてしまったふたりには、これがもう驚く種類のものではないのです。
黙っているふたりのほうが、悲鳴よりよほどこたえました。
「……ミント。あなた、わたくしの指輪をお持ちなさいまし」
わたくしの口は、勝手にそう言っていた。
「母のものですの。宝石は落ちておりますけれど、台の銀は本物ですわ。弟さんの薬代の足しにおなりなさい。それから、ポッケ。報酬の残りは、あなたの実家へ回るよう書付を残します。仕送りをなさっていたでしょう。あとは、寝台の毛布を、あなた方でお分けになって。2枚ございますから——」
「なにそれ」
ミントの声が、地下の壁をびりびり鳴らしました。
いつも明るいこの娘が、こんな声を出すのを、わたくしは聞いたことがない。
「オクタヴィアさん、それ、遺言じゃん」
「段取りと申しますのよ、そういうものは」
「段取りじゃないもん!」
ミントは、力の入らないわたくしの腕を両手で掴んだ。掴んだ手のひらが、汗ばむほど熱い。
「あたし、弟のために被験者になった。それは今も変わんない。……でもね。ここでオクタヴィアさんの荷物だけ受け取って帰ったら、あたし、一生スープの味が分かんなくなる。そんなの、弟だってよろこばないよ」
「……」
「なんか言ってよ」
「言うことが、ございませんの」
……まだ死んでもおりませんのに、荷物だけ先に降ろしておりましたわ。
うつむいていたポッケが、抱えていた紙束をそっと机へ置きました。
「あ、あの。アーベントロート先生の、古い記録を写してきました。先生が昔、別の研究所で組んだ解毒薬の処方です。ぜんぶ失敗作の綴りなんですけど……7号さんのに、少しでも手がかりがあるかもしれないと思って」
「ポッケ。あの棚は、開けてはならないところでしょう」
「はい。……いけないことです。分かっていて、やりました」
一字も崩さずに書き写された数式が、震える指のあいだで繰られていく。羽根ペンの筆圧が最後の頁だけ濃いのは、夜が明けかけて手が固まったからでしょう。
クラウスはその綴りを頭から終いまで読んで、机へ戻しました。
「……よく写した。書式も正しい。だが、これじゃ足りん」
「この毒は、正面から解こうとすれば必ず取りこぼす。搦め手が要る」
足りない。その一言が、動かない腕の上へ落ちてきました。
ミントの怒鳴り声も、ポッケの夜なべも。これだけ手が集まって、まだ一つも届かない。伸ばした指の先が、椅子の肘掛けからずるりと落ちました。
「クラウス。その搦め手というのは、今日お考えになったものですの」
この方は答えなかった。
返事が来ないと、この口は勝手に隙間を埋めにまいります。
「……いいえ。今日ではございませんわね。あなたは、わたくしがここへ来た日から、正面から解く気などなかったのでしょう」
クラウスは椅子を半歩ぶん引いて、こちらとの距離をひとつ増やしました。そのあとに、いつもの声が並びます。
「ミント。棚の瓶を全部、比重の重い順に並べ替えろ。ポッケ、その綴りをもう3部写せ。書式は第三号だ」
「え、あたし、そういうの分かんないよ」
「持って軽いのが上だ。持て」
「先生、7号さんの話は——」
「ポッケ。3部だ」
こうして、この方は人に仕事を配って、質問の置き場をなくしてしまうのですわ。
ふたりが棚と紙へ散ってから、瓶がひとつ、机の上に置かれました。
わたくしの指では、それを握れない。
「ミント。手を貸してさしあげて」
「……あたしが、飲ませていいの」
ミントは瓶の首を持って、わたくしの唇へ縁を当てました。傾け方が下手で、半分は顎を伝います。3度目でようやく、熱が入りました。胸の真ん中で溜まったきり、そこから先へは配られません。
「効かないな。……立てんな、これは」
「明日には戻りますでしょう」
「戻る。骨は、戻る」
骨は、のところに妙な重みがありました。戻らないものの名を、この方は言わずに済ませたのです。
夜、寝台へ運ばれてから、わたくしはようやく指を動かせるようになりました。
手のひらを開いてみる。昼にミントが掴んだところが、まだほんのり熱を持っている。ポッケの写しのインクの匂いも、爪の際に残っておりました。
助かりたい、と思ってしまいました。
思ってしまってから、その願いをどこへ置けばいいのか分からなくなって、わたくしは開いた手をそのまま閉じました。
閉じた手のなかには、何もございません。熱だけがしばらく残って、それも夜半には冷めました。
次話:「もう間に合わない、その一言」




