第24話「わたくし、死ぬのですか」
石の床に、指で「お」と書きました。
水差しの雫を指の先につけて、寝台の脇へ一画ずつ。「お」「は」「よ」。書いているあいだに最初の一画から乾いていくので、書き終える頃には挨拶の頭が消えている。
「オクタヴィアさん、なにしてるの……あっ、声! 声出ないやつ!?」
うなずきました。
喉に手を当てて息を送っても、かすれた空気が漏れるばかり。唇だけが手順どおりに形を作っては、音を置き去りにしていくのです。
「じゃあ、身振りでやろ。あたし、当てるの得意だから」
わたくしは朝餉の椀を指し、次に喉を押さえて、首を横に振った。
「えーと……"スープがまずい"?」
それは合っておりますけれど、今は別の話をしております。
「あ、ちがうんだ。じゃあ、"厨房の人を許さない"?」
首を振ります。
「分かった! "灰にして継母に送りつける"!」
首がもげるほど横に振りました。この娘の頭のなかのわたくしは、日ごろから放火の献立を練っているらしい。
「あ、あの、ミントさん、たぶん違います。7号さん、さっきから喉を押さえてるので、その、喉の話かと」
「え、喉? ……あーっ! 声! 声が出ないんだ!」
「僕も、さっきからそう言おうとして、その、割りこめなくて」
「ポッケ、なんで先に言わないの」
「言おうとしました! 3度もです!」
ポッケは記録用の紙を一枚くれました。震える手つきで羽根ペンまで添えてくれる、気の利く方です。
わたくしは書きました。〈朝の豆は水が多うございます。厨房の女に、匙をもう一度〉
「えっと……"朝の豆は水が多うございます。厨房の女に、匙をもう一度"……あの、これ、僕が言うんですか」
紙の端を、彼のほうへ押しやりました。
「言いました! 言いましたけど、あの人、僕のほうを睨みました! 7号さんは笑ってるだけじゃないですかぁ!」
紙に書いた毒舌は、ちっとも刺さらないのですわ。文字は温度を運びませんし、運び手が震えていては、なおのこと。
左の袖をめくったのは、そのあとでした。
あざの筋は肘を越えている。関節の窪みを乗り越えて、二の腕の付け根へ、指の幅ほど食いこんでいた。色はもう藍というより、明かりを吸ったあとの夜です。
つねってみる。何も来ない。爪を立てても、遠くの誰かの腕をつまんでいるような手応えしかない。
……ここは、わたくしの腕ではなくなりましたのね。
虹の髪は3日で抜け、狐のしっぽは翌朝には引いていった。巨大化した体は縮むときに服を破き、透けた足の親指は4日で戻る。ぜんぶ、行儀よく帰っていったのです。
この染みだけが、帰らない。
戻らない副作用など、あるのかしら。
そう考えて、考えたそばから、頭のどこかがそれを押し返しました。いいえ。順番が違いますわ。
飲んだ日に濃くなって、翌朝わずかに薄くなる。それを副作用の証しだと思っておりました。けれど、濃くなるものと薄くするものが同じ薬であるはずがない。濃くしているのは、これ。薄くしていたのが、あの人の薬。
膝の裏がすうっと冷えました。頭のほうが先に着いて、胸があとから追いついてくる。
治験室の扉を押すと、クラウスは机に向かっていた。
手もとにあるのは、星のかけらのような、透きとおった小瓶です。あの夜、震える指が持てずにいたやつ。硝子の匙で量りかけていた手が、こちらの気配で下ろされた。
ミントとポッケが、わたくしの後ろから入ってくる。
喉に力をこめました。息の底を引っ掻くようにして、やっと、ひとかけらの音が出る。
「これ、……副作用では、ないのでしょう」
風の音みたいな声でした。
それでも、クラウスの背は、はっきりと硬くなった。
「……気づいたか」
「教えて。この染みは、何」
絞るたびに喉が焼ける。クラウスは長いこと黙っていた。それから、机の縁へ両手をついて、こちらを向いた。
「お前の体には、毒が入ってる。遅効性の、質の悪いやつだ。手首から始まって、心臓まで行く」
毒。
その一語が、声の出ない喉の奥へ、鉛の粒みたいに落ちていきました。
背中で息を呑む音が、ふたつ。
ミントが両手で口を押さえている。ポッケの手から紙束が落ちて、床で扇のように広がった。
「……先生。それ、治るんですよね」
「ミント。声を落とせ」
「治るのかって訊いてるんだけど!」
「ミントさん、あの、今はやめたほうが」
「ポッケも黙ってて!」
……この二人に、聞かせるつもりはございませんでしたのに。
訊く相手を選び損ねたのではなく、聞かせる相手を選び損ねましたわ。
「いつから」
「お前がここへ来る前からだ」
来る前から。この地下へ落ちてくる、あの断罪の頃から。
まぶたの裏を、優雅な微笑みが一度だけよぎりました。継母の顔です。……いいえ。今は考えますまい。考えれば、立っていられなくなる。
わたくしは息を継いで、いちばん訊きたくなかったことを、掠れた声で押し出しました。
「……わたくし、死ぬのですか」
治験室が静まり返った。
クラウスは答えない。ミントが「先生」と呼んだ声も、誰にも拾われませんでした。
答えないことが、答えでした。
「死なせない」
やっと出た声は低く、岩みたいに固かった。
「そのために、俺はここにいる。だから——お前は、まだ諦めるな」
わたくしは、机の上の小瓶へ目をやりました。灯りを受けて、透きとおった液が縁で細く光る。
「あなたが毎朝数えていらしたのは、わたくしの脈ですの。それとも、残りですの」
クラウスは、その問いに答えるかわりに、机の上の小瓶を手のひらで隠した。
「"それは何だ"と訊きたいんだろう。訊いていい。……答えん」
「ずるうございますこと」
「知ってる」
それから、左の手のひらを上へ向けて差し出した。
「昨日の空瓶を出せ」
隠しから空の瓶を取り出して、載せました。載せた重さのぶんだけ、入れ替わりに新しい瓶が手のなかへ下りてくる。言葉のいらない受け渡しです。
あおる。喉が焼けた。痺れの底から、掠れた声がわずかに厚みを取り戻していく。
「効かないな。……声も、色も、まだ届かん」
いつもの「次だ」は、今日も来ませんでした。
かわりに、この方はわたくしの手のなかの空瓶を、なかなか取り上げなかった。骨ばった手が、瓶ごと、冷えた指を包んでいる。
「息を吸え。長く」
吸って、吐く。
「4拍。……声のあった日は、20は続いた」
「淑女の息を、拍で数えないでくださいまし」
「数える。ほかに測れるものがない」
「ずいぶん心細い物差しをお使いですこと」
「そう思うなら、明日は5まで吸え」
夜、声はゆっくりと戻ってきました。
喉の奥がほどけて、いつもの音が出るようになる。出るようになってから、言いたいことがひとつも見つからないのです。毒。死ぬ。そのふたつが天井の染みと重なって、いつまでも動いてくれない。
寝台の脇に、人の気配がふたつありました。
ミントが床へじかに座って、寝台の縁へ頭を預けている。その隣で、ポッケが膝を抱えて、紙束を胸に抱いたまま船をこいでいた。
「あなた方、寝台へお帰りなさいまし」
「やだ」
「ポッケなど、明日も記録がございましょう」
「起きたら帰ります……起きたら……」
「もう半分お寝みですのね」
「あたしが起こすから、大丈夫」
「起こす気のない人の言い方ですこと」
「うん」
ミントはこちらへ背を向けて、それきり動かなかった。毛布を分けてやろうと手を伸ばしたら、その手を掴まれて、寝台の縁へ戻された。
戻ったばかりの声で、諦めるな、をなぞってみました。誰にも聞こえない大きさで。
声に出してみると、それは命令ではなく、頼みごとの形をしておりました。
次話:「あなたのために、動く手がある」




