第23話「泣きたい朝に、顔だけが笑う」
今日は泣くと、決めておりました。
寝つく前から段取りは組んであったのです。ミントが朝餉へ立ったあと、寝台の隅で毛布をかぶって、四半刻だけ。声は出さない。目もとは井戸で冷やす。それだけ済ませたら、あとはいつものわたくしに戻る。地上にいた頃は、泣くのにも人目が要り用でした。ここでなら、気にする相手は自分ひとりで足ります。
毛布をかぶって、息を吸って、目を閉じて——頬の肉が勝手に持ち上がりました。
磨いた盆をのぞきこんで、わたくしは息を呑んだ。
そこには、それはそれは見事な微笑みが浮かんでおりました。目尻がやわらかく下がり、口の端が上品な高さで止まっている。舞踏の輪のいちばん内側で、生涯で一度も間に合ったことのない顔です。
毛布の下で泣く支度をしていた女が、盆の中では歓待の顔をしている。
「オクタヴィアさん、朝ごはん行こ……ひっ」
「おはようございます」
「なにその顔! こわい! なんか、こわい!」
「わたくしもそう思っておりますの」
口を動かせば、言葉のほうはいつもどおり出てくる。出てくるそばから、顔が全部を台無しにしていくのです。
朝餉の席は地獄でした。
薄い豆のスープをひと口すすった途端、顔が恍惚の域へ達した。厨房の女がそれを見て、なぜかおかわりをよそいに来る。断ろうとしたわたくしの顔は、また輝くばかりの笑みを返して、椀が3杯目になった。
「あ、あの、7号さん、その、書類を……ひっ、ひいっ!」
ポッケが紙束を落とした。
わたくしの顔は、通りかかった彼へ向けて、いきなり憤怒を貼りつけたのです。眉が吊り上がり、鼻筋に皺が寄る。一拍あとには、また聖女のごとき微笑みへ戻った。
「お待ちなさい。今のは違いますのよ」
「な、なにが違うんですかぁ!」
「怒っておりません。顔が勝手に怒っただけですわ」
「それ、いちばん怖いやつです!」
通路の被験者たちが、わたくしを見て左右へ割れていく。皿を落とした男が、こちらの微笑みひとつで這うように謝りはじめた。地上でわたくしを毒蛇と呼んだ方々にお見せしたい眺めです。あちらは睨んで恐れられ、こちらは笑って恐れられておりますの。
厄介なのは、この顔が疲れないことでした。頬の筋は朝からひと息も休んでいないのに、こわばりもしない。わたくしのほうが先に息切れして、笑みだけが涼しい顔で先を歩いている。何度も口の端を指で押し下げてみましたけれど、指を離した途端に、また元の高さへ戻るのです。
昼、ミントが弟の話をはじめました。
「あと1本ぶんで、弟の薬代が届くの。視察の日に報酬の締めがあるから、そしたら——」
視察の日。
その言葉で胸の底が冷えたのに、わたくしの顔は、ぱっと花が咲くように笑った。
「うれしそうだね、オクタヴィアさん」
違う。そう言えばよかったのです。
「ミント。これは違いますの。今のは頬の内側の筋が勝手に上がっているので、わたくしの中身とは別のところで動いておりますのよ。目尻の下がりぐあいも意思とは無関係で、朝からこうなので、つまり、今のはあなたのお話を喜んだ笑みではなく——」
言葉が途中で行き場をなくしました。
ミントの目が、だんだん平たくなっていくのが分かったからです。
「……うん。分かってる」
「ミント」
「分かってるってば」
ミントは椀を持って先に立った。板の間を蹴るように歩いていって、扉のところで一度だけ振り返る。振り返って、何も言わずに出ていった。
わたくしの顔は、その背中へ向けて、まだ愛想よく笑っておりました。
治験室では、まずクラウスに顔を眺め回されました。
「四半刻で、笑みが31。目尻の下がりが毎回同じだ。人の作る笑いは、こう揃わん」
「褒めておいでですの」
「気味が悪いと言っている」
左の袖をめくると、あざの筋は肘の窪みまで届いていた。関節の内側の、皮の薄いところ。押しても引いても、そこはもう何も返してこない。指の代わりに目で確かめるほかないのですわ。
クラウスは筋の先へ爪の先を当てて、そこから肘の骨までを測った。
「……指1本」
「明日には、越えますのね」
答えのかわりに、この方はわたくしの顔をもう一度見た。見て、すぐに外した。
小瓶が机の上を進んでくる。持っているのはポッケの手でした。クラウスは自分で寄こさず、助手に持たせて突き出させたのです。
「あの、先生が、7号さんへ、と」
「ずいぶん遠回りな給仕ですこと」
あおる。喉の奥が熱を持って、それが胃の底へゆっくり沈んでいく。左の腕は、その道筋から外されたままです。顔のほうは、飲んでいるあいだじゅう上機嫌でした。
「効かないな。……笑いが引かん」
わたくしの顔は、その一言に、満面の笑みで応えました。
「効いておりますでしょう!?」
「効いてない」
「この顔をご覧になって、まだそうおっしゃいますの」
「その中身が、お前と俺で違う」
羽根ペンの尻が、手帳の背を二度叩いた。叩く速さが、いつもの記録の拍より遅い。
「では、伺いますわ。わたくしに何が起きたら、あなたは"次だ"とおっしゃらなくなりますの」
この方は答えなかった。
かわりに、手帳の頁を何十枚も戻して、初めのほうの行を指でなぞっている。なぞって、閉じた。
「7号。……笑うな、とは言わん。だが、笑ってなくていい日は、笑わなくていい」
顔は笑ったままでした。
笑ったまま、目の奥だけが熱くなる。涙は出ませんでした。この顔には涙腺までの道が通っていないらしい。
夕方、頬の力がふっと抜けました。
鏡がわりの盆をのぞくと、そこにはもう、いつもの生意気な口もとが戻っている。泣き顔を作ってごらんなさい、と自分へ言い聞かせる。眉を寄せて、口を曲げて、待ちました。
目の奥は乾いたままです。
一日じゅう笑い倒した頬が、こわばってひりひりするばかり。泣く支度は朝のうちに使いきってしまったようでした。
寝台へ戻ると、ミントが自分の寝台の上であぐらをかいて、こちらの帰りを待っておりました。昼のことは、どちらからも持ち出さない。この娘は怒った理由を言わないかわりに、仲直りの手続きも省く人でした。
「オクタヴィアさん。今日、一日じゅう笑ってたね」
「ええ。生涯ぶんを一日で使いはたしましたの」
「じゃあ、次は泣く番だからね」
「ずいぶん親切な割り振りですこと」
「あたしが決めた」
毛布の下で、わたくしはようやく顔をくしゃくしゃにできた。
できただけでした。乾いた目のまま、頬の筋だけが泣く形をこしらえて、そのまま朝まで動かずにおりました。
次話:「わたくし、死ぬのですか」




