第22話「時間だけは、効いてしまう」
わたくしが起き上がっても、影のほうは、まだ寝ておりました。
敷布の上に、人の形をした黒がのんびり伸びている。一拍おいて、それがのそりと身を起こした。
「ちょっと、オクタヴィアさん! 影! 影だけまだ寝てる!」
「起こしてやってくださいまし。わたくしより寝坊ですの」
手を挙げれば、影の手が挙がるのは、ひとつ数える間をおいてから。首をかしげても、影の首はまだ動かない。歩けば、名残惜しそうにあとから伸びてくる。
困りますのは、その一拍のあいだ、影のほうが正直なことです。
手を止めても、影の手はまだ何かを掴もうとしている。うつむいても、影はしばらく前を睨んでいる。一拍前のわたくしが、床の上に居残っておりますの。
ミントは大喜びで影踏みを仕掛けてきた。わたくしが跳んで逃げても、影は半歩うしろに置き去りにされる。踏まれた瞬間、足の裏に薄い痺れが返ってくるのが妙でした。踏まれているのは黒いしみのはずですのに、こちらの踵がじんと痛む。
「ふふん、また踏んだ。オクタヴィアさん弱すぎ」
「わたくしは逃げておりますのよ。逃げそこねているのは、あちらですわ」
「じゃあ、あっちのオクタヴィアさんに謝っといて」
食堂の卓へ着いてからも、影の手だけが匙を握ったままだった。豆を掬い終えたわたくしの手と、まだ掬っている黒い手。ふたりぶんの食事をしているようで、朝から胸焼けがいたします。
通りかかったポッケが床を見て、羽根ペンを取り落とした。拾う手が震えている。震えたまま紙挟みを胸から出して、行を揃えて書きつけはじめるのですから、やはり記録係ですのね。
「こ、これ、なんて書けばいいんでしょう。影が、その、本人と別行動を」
「別行動ではございません。ただの遅刻ですわ」
治験室で左の袖をめくったとき、布を戻す手のほうが先に動きました。戻しきる前に、目のほうが追いついてしまう。
手首を巻いていたあざの輪から、細い筋が前腕の半ばまで上っている。ひと晩で指2本ぶん。押しても、氷の芯はもう痛みを返してこない。触れているのが自分の腕だという手応えだけが、うっすら遠のいていた。
クラウスは筋の先へ指を当てて、そこから肘までの隙間を測った。
「……肘まで、指4本」
「そちらは、あと何日ぶんのご猶予ですの」
「言わん」
それから、この方はわたくしの影のほうを見た。
「7号。手を挙げろ」
「こうですの」
「もう一度。ゆっくりだ」
挙げるたびに、机の砂時計へ目を落としている。掌に乗るほどの、火加減を計る小さなやつです。
「遅れは1拍と3分の1。昨日はゼロだ」
「昨日のわたくしは、影と仲がよろしかったのですわね」
昼の鐘の少しあとで、ポッケが紙片を抱えて駆けこんできた。
「アーベントロート先生! 監督官どのから、正式な通達が! 本命薬の投与を、5日後の視察で、必ず執り行えと……!」
5日後。
その数が耳へ入った途端、わたくしの口は勝手に働きはじめました。
「5日。120時間ですわね。いいえ、その紙が届いたのが昼ですから、あと114時間と少し。お薬は1日に1本ですから、瓶にして4本半。半分の瓶というものがございませんなら、4本ですわ」
誰も、何も言わなかった。
ミントは袖を握った手に力を入れたきり黙っている。ポッケは紙片の縁を折っては伸ばし、折っては伸ばした。数えなくてよかったものを、こちらが数字にして卓の上へ並べてしまったのですわ。114という数は、5日という言葉より、ずっと短く聞こえる。
床のわたくしの影は、まだ口を動かしていた。喋り終えたあとまで、一拍ぶん余計に喋っている。
……数えなければ、5日はもう少し長うございましたのに。
クラウスは通達を一読して、机へ伏せた。それから砂時計を横倒しにする。落ちかけていた砂が、腹のところでつかえて止まった。
「……時間だけは、律儀に効きやがる」
顔を上げてしまいました。
効かないと毎朝おっしゃる方の口から、効く、が出たものですから。
「クラウス。その砂は、何を量っておりますの。お薬ですの。それとも、わたくしですの」
「……お前は正直だな」
わたくしにではなく、砂時計へ言ったのでした。
伏せた硝子の腹を指の先でつつきながら、それきり黙りこんでしまわれる。返事はこちらではなく、砂のほうへ向かっておりました。
「わたくしに向かっておっしゃっては、いかが」
「こいつは嘘をつかん」
「わたくしも、つきませんことよ」
「知ってる」
知ってる、の一言だけがこちらへ返って、あとはまた砂の話へ戻っていきました。
抽斗から瓶が2本出て、1本が戻された。戻すまでに、この方は栓の頭を指の腹で二度撫でている。撫でたほうを戻し、撫でなかったほうを寄こした。選び直したのだと、こちらへ言うつもりはないらしい。
「こっちだ。栓を抜け」
あおると、いつもの熱が喉から胸へ下りていく。左の腕にだけは、今日も届かない。
「効かないな。……影は、まだ遅れてる」
「では、影より一拍ぶん、わたくしのほうが先に生きておりますのね」
「その話はよせ」
「あら。影がお嫌い?」
「……時間の話に聞こえる」
羽根ペンが軸受けへ戻った。伏せた砂時計を起こしかけて、この方はそれをまた寝かせ直す。
机の下へ、目が一度だけ落ちました。隠し棚のある場所です。黒い瓶がしまわれている。板の隙間から、鉄と灰の混じったような匂いが細く漏れていた。
「クラウス。5日後のあれは、わたくしを治すものですの」
「治さん」
「では、何をするものですの」
「今は言えん。……あと4本ぶんだけ、時間をくれ。7号」
くれ、と。
減らず口ばかりのこの方が、頭の位置をひとつ下げてそう言った。
沈黙が苦手なはずのわたくしの口が、このときばかりは何も足さなかった。うなずいた自分の首を、あとから影が真似ていた。
夕餉のあいだも、影は遅れ続けた。ミントの匙に合わせて動こうとして、わたくしの黒はいつも間に合わない。厨房の女へ椀を返すとき、影の手だけが空へ差し出されたままになって、女はぎょっと壁際まで下がった。
ミントは笑わずに、その黒い手が引っこむまで待っていた。それから自分の椀をわたくしの椀の隣へ寄せて、卓の上で影がふたつ並ぶようにした。
「こうしとけば、ひとりぶんには見えないでしょ」
「……ずいぶん器用な慰め方をなさいますこと」
わたくしの影が匙を置くまで、この娘は席を立たなかった。
その夜、目を閉じてからも、影はしばらく壁に立っておりました。
わたくしが眠ってしまったあとで、あれはようやく横になるのでしょう。明かりの落ちた壁で、一拍うしろの誰かが、まだこちらを見ている。
数えるまいと思いました。思ったそばから、口のなかで数がひとつ減る。
——113。
次話:「泣きたい朝に、顔だけが笑う」




