第21話「消えないあざを、隠す袖」
吐く息が、白うございました。
地下の石はもう夜のうちに温むというのに、口から漏れるものだけが真冬みたいに凍って立ちのぼる。指の先はかじかんで、爪の色が薄紫に沈んでいた。
「わっ、オクタヴィアさんの息、白い! 見て見て、はー、って。……あれ、あたしのは出ないや」
「あなたのは至って健やかな初夏でしてよ。わたくしのだけ、季節を3つ先取りしておりますの」
ミントは面白がって、わたくしの鼻先へ何度も手をかざした。そのたびに「つめたっ、ほんとに冬だ!」とはしゃいで、飽きもせず繰り返す。
吐息が白くなるだけなら、この時季はいっそ涼やかで悪くありません。悪くない、はずでした。
妙なのは、この冷えが体じゅうに散らばらないことです。冷気はまるで、左の手首の一点へ吸いこまれていく。そこだけが、氷を握らされたように痛い。
いやな予感がして、左の袖をめくった。
喉の奥が、ひとつ鳴った。
昨日の何倍も濃い藍が、手首をぐるりと巻いている。指先ほどだった染みが輪になって、その縁から手の甲へ、細い蔓のような筋が伸びかけていた。押すと、氷の芯を埋めこまれたような冷たさが骨まで刺してくる。疼きが腕を伝って肩まで這いのぼった。
……一晩で、ここまで。
これまでは、飲んだ日に濃くなって翌朝には薄く戻る。それが決まりでした。今朝のこれは飲む前から、飲んだあとよりも黒々としている。
虹の髪も狐のしっぽも、翌朝には行儀よく引いていったのに。この染みだけが居座って離れない。
ミントが振り向く前に、わたくしは袖を手の甲まで引きおろした。
理由はうまく言えません。見せなければ何も進んでいないことにできる。そんな子供じみた願かけを、袖の一枚に託しただけですわ。
「オクタヴィアさん、今日は左手を使わないの?」
「淑女は右で食すものですのよ」
「うそだ。昨日は両手で椀持ってたもん」
「作法は日ごとに変わりますの」
木の匙を右手だけで操るのは、思いのほか難しい。豆のかけらが椀の底で逃げまわる。
袖のほうも難物でした。手の甲まで下ろしておくと、汁を掬うたびに袖口が椀へ落ちる。落ちれば濡れる。濡れれば布が透ける。透ければ、隠した意味がなくなる。
結局わたくしは、左の袖をずっと右手で押さえながら、右手ひとつで匙を使うという離れ業に挑むことになりました。
膝の上に置いた左手は、氷を握らされたまま小さく震え続けていた。冷えは指先から手首、手首から肘へと、じわじわ縄張りを広げていく。
「ねえ。ほんとに右利きの日ってあるの?」
「ございますわ。今日がそうですの」
「ふーん」
「その相槌は、こういう日にこそ効きますのよ」
豆をひとつ、また取り逃がした。
治験室で左手を差し出すとき、袖口を握る指にわれながら力がこもった。
クラウスはいつものように手首をとって、そこで指の動きが速くなった。
なぞる。戻る。もう一度なぞる。輪の縁から手の甲の筋まで、指先が同じ道を三度たどった。記録の手つきではありません。傷の深さを測る手つきです。
「……いつからだ」
「今朝、目が覚めたら、この有様でしたの。ずいぶん派手に育ちましたでしょう。冬の息まで、おまけについて」
「冷えるか。左腕が」
「ええ。そこだけ、氷を抱いているみたいに」
クラウスは色見本を出して、いちばん端の一枚を当てた。夜そのものの色をした小片である。
当てて、外して、また当てる。
「……見本の外だ」
「まあ。あなたの物差しから、はみ出しましたのね」
「ポッケ。用紙を寄こせ」
「あ、はい。……あの、7号さん、腕、痛くないですか」
「ちっとも。氷枕を巻いているようなものですわ」
「それ、痛いやつです」
この人は、こちらを見ないようにしながら訊いてくる。顔は手帳のほう、爪先だけがこちらを向いておりました。
答えは返ってこない。かわりに、あざの上へ手のひらをかぶせられた。
その手が、昨夜と同じように震えている。悟られまいとしてか、すぐに引っこめられた。
「73番の次だ。栓を抜け」
「これを飲めば、この冷えも、この色も、朝には引きまして?」
「……引く。必ず引く」
効かない、以外の断言をこの方の口から聞いたのは、数えるほどしかございません。
だからこそ、その一言が胸をざわつかせました。自分に言い聞かせている人の言い方だったので。
言われるまま、あおる。
けれど今日は熱の巡り方がおかしい。胸まで下りた熱が、左手首の一点にだけ届かないのです。氷の芯は薬をあざ笑うように、そこだけ真冬のまま居座っている。
「効かないな。……熱が、手首の手前で折り返してる」
いつもの高さから、半音だけ下りた声でした。
この方はあざをもう一度見つめて、そのあとの言葉を継がなかった。次だ、が来ない。
その沈黙が、どんな副作用よりも不吉に思えます。
「クラウス。……次だ、は?」
「今日は言わん」
「なぜ」
「次があるかどうかを、俺が数え直している」
抽斗が開いて、閉まった。開けた意味のない開け方だった。
「勘定の中身は、瓶の本数ですの。それとも、日にちのほうですの」
抽斗の色見本が、一枚ずつ順番どおりに仕舞われていく。仕舞う手つきだけが、やけに丁寧だった。
その日は一日じゅう、左腕だけが冬のままだった。
夕餉の椀を持つ手がかじかんで震える。厨房の湯気に手をかざしても、冷えはちっともほどけない。ミントが自分の毛布まで貸してくれた。それでも手首の氷は溶けなかった。
夜、吐く息はいつのまにか白くなくなっている。副作用のほうは、ちゃんと引いていく途中ですのに。
毛布を2枚重ねても、左腕だけが布の内側で冷たい。毛布は熱を閉じこめる道具であって、ないものを作る道具ではないのですわ。
「オクタヴィアさん。手、まだつめたい?」
「……いいえ。もうすっかり」
「そう」
言ってから、この娘はわたくしの寝台の脚を、指の背でとんと叩いた。
「その毛布、お返ししますわ。あなたのぶんが足りなくなりましてよ」
「あたし、寝てると熱いから平気」
「嘘がお下手ですこと」
「オクタヴィアさんよりは上手いよ」
ミントはそれ以上訊かなかった。訊かないかわりに、寝返りを打ってこちらへ背中を向け、毛布の端をわたくしの側へ寄せてよこした。
わたくしは袖の上から手首を握りしめた。握った下で、氷の輪は昨日より確かに太い。
眠れない夜を、冷たい腕とふたりで過ごしました。毛布の下で、右と左が最後まで別々のままでした。
次話:「時間だけは、効いてしまう」




