第20話「嘘つきの手が、少し震えて」
寝台の脚が、夜のうちに片方だけ曲がっていました。
わたくしの側の脚です。板が斜めに傾いで、藁がひと隅へ寄っている。
起き上がろうとして、上体が持ち上がらなかった。腕をつくと、掌が藁へめりこむ。首をめぐらせるだけで、肩の付け根がみしりと鳴った。
「オクタヴィアさん、朝だよー。……あれ、なんか、寝台こわれてる?」
「わたくしが壊しましたのよ。動かずに」
体は昨日と同じ形をしている。中身だけが、鉛か何かに詰め替えられていた。
立ち上がるのに三度失敗して、四度目で膝が笑った。一歩踏み出せば、石の床がこつんと鳴る。忍び歩きという概念が、今日は存在しません。
「ねえ、その重さ、どのくらい?」
「量る道具がございませんの。……この寝台が答えでよろしければ」
「かわいそうに、この板」
「その板の心配が先ですのね。……本日、わたくしより先に憐れまれたもの、これで3つ目ですわ」
食堂までの廊下で、床板の継ぎ目を2枚ほど踏み割った。厨房の女に睨まれ、すれ違う被験者に道を空けられ、椅子はひとつ犠牲になった。長椅子の端に腰かけたつもりが、反対の端に座っていた男が宙へ跳ね上がったのである。
ミントが跳ね上がった男へ、両手を合わせに走っていく。
「ごめんね、ごめんねー! 今日ちょっと重いの!」
「ちょっと、で済む重さではございませんわ。……あの方、天井まで届いておりましたもの」
治験室までの階段は、四半刻かかった。
降りきったところで息が上がっている。歩いただけで、走ったあとの喉になった。
クラウスは分銅の箱を出して、天秤ではなく床のほうを見ていた。わたくしが一段降りるたび、石の目地に落ちる埃の量を数えている。
「ポッケ。板の反りを測れ。中央から端まで、指何本ぶん沈む」
「ぼ、僕がですか。あの上へ、その、体重をかけるんですか」
「7号が立つ。おまえは見る」
「よかった……いえ、よくないです、床が」
「昨日の4.6倍。床の板がたわむ計算だ。廊下は真ん中を歩け。端は根太が細い」
「淑女の体重を、倍率でお示しにならないで」
「そうしないと桁が足りん」
手首を取られた。脈を数え、袖をめくり、藍色を見る。この3つは、体が何倍になろうと変わらない。
藍色のほうも変わらなかった。手首の骨を越えたあたりで、昨日と同じ濃さのまま居座っている。
「変わりない、か」
「その染み、そんなに面白うございますか。毎朝ご熱心なこと」
「記録だ。それ以上でも以下でもない」
いつもの調子で返ってくる。
けれどわたくしの目は、染みより、その手のほうへ吸い寄せられていた。
手帳へ文字を走らせる指先が、ほんのわずかに心もとない。字の太さが、行の途中で二度変わる。狐の姿で役人を追い払ったあの日から、この震えが頭の隅に居座って離れない。
「クラウス。あなた、少しお疲れなのではなくて」
「……なぜだ」
「手」
羽根ペンの走りが速くなった。書き終えた行の下へ、日付だけがもう一度書かれる。
「先月ぶんの瓶だ。番号は73。飲め」
「話をおそらしになりましたわね、今」
「気のせいだ」
取りつく島もない。栓を抜いてあおると、いつもの熱が喉の奥から指の先までめぐっていく。
効いてくるまでのあいだ、この方はこちらを見なかった。かわりに机の下の隠し棚へ、ちらと目をやる。黒い瓶をしまいこんだ場所だ。その視線の重さだけで、こちらの胸まで塞いでくる。
鉛の一日は、日が落ちるまで解けなかった。
匙が持てないのではありません。持てるのに、持ち上げたあとが重いのです。椀を口へ運ぶ途中で腕が下がり、スープが顎へ落ちる。ミントが匙を横から支えてくれるまで、わたくしは三度それを繰り返した。
「あーん、して」
「そのような真似を、この歳でいたしますか」
「じゃあ、あと3回こぼして」
「……あーん」
厄介なのは、夜になっても解けなかったことです。
寝台へ横たわると、板がまた片側だけ沈んだ。
喉が渇いている。水瓶は治験室の隅。そこまで降りるには石段を二十いくつ、こつんこつんと鳴らして歩くほかありません。
それでも渇きには勝てず、わたくしは寝台を抜け出した。
一段ごとに、石が返事をする。踏むたびに音の高さが違うのは、段によって奥の空洞の大きさが違うからだと、今夜はじめて知りました。
治験室の扉の隙間から、細い灯りが漏れている。
のぞくと、机に向かう背中があった。昼間の黒い瓶ではない。透きとおった、星のかけらのような小瓶を前にしている。
灯りへかざす。それから、まだ何も書かれていない白い頁へ、何かをぽつりと書きつけた。
その手が、また震えていた。
昼間より、はっきりと。
硝子の匙を持てずにいる。舌打ちをして匙を置き、両手で顔を覆った。無表情のあの方が、誰も見ていないと思っている夜に。
「……間に合わせる。今度こそ」
低い声が、独り言のように落ちた。
わたくしは石段の途中で、鉛の体を柱へ預けたまま動けなかった。動けば、床が鳴る。
「7号」
顔は上げないまま、声だけが飛んできた。
「水だろう。水瓶は隅だ。持っていけ」
「……あの、わたくし、水を飲みに来ただけですのよ。治験室には近づいておりませんし、扉の隙間ものぞいておりません。灯りが見えたのも、たまたまで——」
「聞いていない」
水瓶の柄杓は、鉛の手には藁のように軽かった。飲みほして、戻す。それで済むはずでした。
済まなかったのは、扉の内側の灯りが消えなかったからです。
柄杓を戻す音が、思ったより高く鳴った。鉛の指では加減が利かない。
「クラウス。間に合わせる、とおっしゃいましたわね」
「……」
「何に、間に合わせますの」
白い頁が閉じられた。日付だけを隅に載せた、あの頁が。
「早く寝ろ。床が抜ける」
「そのときは、あなたの真上へ落ちてまいりますわ」
「真下は貯蔵庫だ。俺は無事だな」
「そこは案じてくださるところですのよ」
寝台へ戻っても、板は片側だけ沈んだままだった。
瞼を閉じると、震える指が浮かぶ。まっさらな白い頁。あの低い声。
効かない薬しか作らないと嘯くあの手が、夜ごと何を組み上げているのか、わたくしはまだ知りません。知らないまま、明日の朝も、わたくしはあの手から瓶を受け取るのですわ。
次話:「消えないあざを、隠す袖」




