第19話「窮地に、ふさふさのしっぽ」
地下じゅうの匂いが、いっぺんに押し寄せてきました。
厨房の煮豆。薬草の青くささ。ポッケの髪につけた椿油。三つ隣の寝台の男が昨日こぼした酒。それが遠い順に層をなして、いちどきに重なってくる。
……それから、治験室の机の下から、あの禍々しいもの。
起き上がろうとして、寝台の上で銀色の大きなしっぽがぱたんと跳ねた。自分のものだと気づくのに、しばらくかかる。
両手は肉球のついた前足になり、顔の先はつんと尖って、頭には三角の耳が立っている。磨いた盆をのぞけば、銀の毛並みの狐が間の抜けた顔でこちらを見返していた。毛玉になったときの倍はある。
「オクタヴィアさん、きつね! もふもふのきつねさんになってる! しっぽ、さわっていい!?」
「よろしくありません。……と申し上げたところで、この体は聞きませんのよ」
案の定でした。ミントが手を伸ばした瞬間、しっぽがぶわりと膨らみ、体は梁の上へ飛びのいている。着地してからようやく、跳んだことに気がついた。
鼻も体も、持ち主の許しを取らずに先へ行く。廊下を歩けば、壁の向こうの厨房で誰が何を刻んでいるかまで分かってしまう。
昼の鐘の前に、監督官の名代を名乗る役人が治験室へ入ってきた。
脇に抱えた紙挟みには赤い封蝋。3日の猶予は、まだ2日残っている。
「本命薬の第一投与に立ち会う。手順書は受け取っている。被験体を出せ」
「早いな」
「監督官が繰り上げた。被験体の記録に、報告になかった項目があったそうだ」
あざの5行ですわ。
わたくしが余計な弁護をしなければ、まだ誰も見つけていなかった行。それが2日ぶんの猶予を削って、今日ここへ役人を連れてきている。狐の耳が、勝手にぺたりと後ろへ倒れた。
クラウスは慌てなかった。ちらとこちらを見て、それから役人へ淡々と告げる。
「見てのとおり、被験体は今、獣化の副作用の最中だ。この状態で本命薬を投与すれば、獣の本能と薬効が干渉して、まず間違いなく暴走する」
「かまわん。予定どおりやれ」
「死んだ体からは何も出ん。……どうしてもとおっしゃるなら、監督官の署名をここへ」
「……なに?」
「命じた者の名を、書面へ残していただきたい。それが手順だ」
役人がためらった。
その隙に、無表情がこちらへ向いた。何も言わない。
言わないまま、視線が動く。薬棚の高いところ。役人の帽子。床の空いた場所。
……ああ。そういうことですのね。
わたくしは獣の喉を思いきり反らして、こおおん、と甲高く鳴いた。
しっぽを鞭のようにしならせ、棚から棚へ跳びうつり、役人の帽子を前足でさらって振り回す。書類が宙を舞い、硝子瓶がからからと転がって、治験室はたちまち獣の修羅場になった。
「な、なんだこの獣は! 誰か、誰か捕まえろ!」
「わー、逃げた逃げたー! そっち! そっちいったよー!」
ミントの案内はことごとく逆を指している。役人が右へ走れば、狐は左の棚から役人の襟へ跳ぶ。
「きょ、今日の投与記録は、まだ様式が揃っておりませんのでぇ! 第三号様式の副本が、その、まだ写しの途中で!」
ポッケが震え声で書類の不備をまくし立てた。声は裏返っているのに、言っている中身だけは正確である。
役人は帽子を諦めた。投与は体調が落ち着いてから改める、と捨て台詞を残して、扉の外へ逃げていく。
閉まった扉の内側に、奇妙な沈黙が落ちた。
狐のわたくしは舌を出したまま、机の上へぽすんと着地する。無茶な大立ち回りで、獣の体でも息が上がっていた。毛の間に汗をかく仕組みがないぶん、熱の逃げ場がどこにもない。
「……上出来だ。7号。おまえ、案外、芝居が上手いな」
「芝居ではございません。あれは地でしてよ」
クラウスは机の縁へ肘をついて、わたくしのしっぽを見ていた。
「尾の振れが、1呼吸に3往復。……感情の出力が体表に出るタイプだな。脈より読みやすい」
「わたくしのしっぽで算術をなさらないで」
「する。前足では脈が取れん」
言うなり、耳の後ろへ指を当てられた。獣の脈を、この方は人のときと同じ手つきで数えている。数え終わると袖の——毛皮の下の、あの位置を探して、指の腹で毛を分けた。藍色は今日も、毛の下からちゃんと透けて出ている。
手順を変えてでも、この3つだけは飛ばさないのですわ。
「クラウス。次もお声がけくださいまし。わたくし、暴れるのは得意ですのよ」
言ってしまってから、部屋の空気の質が変わった。
ポッケの羽根ペンが、紙の上で宙ぶらりんになっている。今のは記録係の前で、担当者と被験体が示し合わせて役人を追い返したと、声に出して認めた形になる。
……口約束をひとつ、記録係の前で結んでしまいましたわ。
「今日はポッケの書式の指摘が効いた。俺は何もしていない」
「まあ。ずいぶん気前よく、手柄をお配りになりますのね」
「ぼ、僕もなにもしてません! 様式の話をしていただけですぅ!」
「ねえ、あたしは?」
「ミントは大声を出しただけだ」
「じゃああたしも、なにもしてない」
「そういうことになさいまし。……方角の案内だけは、次から練習なさって」
全員で何もしていないことにする、という不思議な合意が、この場で成立した。
小皿が前へ寄せられる。狐の舌でぴちゃぴちゃと舐めると、喉の奥に薬草の苦みが降りていった。
「効かないな。……狐になっても、悪知恵だけは人間並みだ」
「光栄ですこと」
「褒めてない。……助かった。次だ」
助かった、と。
しっぽが床をぱたぱたと打つ。前足で押さえにかかったら、押さえた前足まで一緒に跳ねた。
浮かれていられたのは、そこまででした。
薬瓶を棚へ戻すクラウスの手が、瓶の首をつかみ損ねて、二度目でようやく掴んだ。麦粒を1粒ずつ載せていたあの指が。
「クラウス」
「なんだ」
「効かないお薬を作る手が、なぜ今日にかぎって震えますの」
棚の扉が閉まる音だけが返ってきた。
「オクタヴィアさん、しっぽ、まだ動いてるよ」
「動かしておりません。勝手に動いておりますの」
「じゃあ、それが本音ってことじゃん」
毛布を頭からかぶった。かぶった中で、しっぽだけが律動を崩さずに床を打っている。
その夜、丸くなりながら、稼いだものを数えてみた。1日。役人の帽子ひとつ。記録係の前でした口約束。
黒い瓶は、まだ机の下で息をひそめている。
次話:「嘘つきの手が、少し震えて」




