↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢ですが毎日実験台にされています——その新薬、絶対に効きませんけれど  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/32

第19話「窮地に、ふさふさのしっぽ」

地下じゅうの匂いが、いっぺんに押し寄せてきました。


 厨房の煮豆。薬草の青くささ。ポッケの髪につけた椿油。三つ隣の寝台の男が昨日こぼした酒。それが遠い順に層をなして、いちどきに重なってくる。


 ……それから、治験室の机の下から、あの禍々しいもの。


 起き上がろうとして、寝台の上で銀色の大きなしっぽがぱたんと跳ねた。自分のものだと気づくのに、しばらくかかる。


 両手は肉球のついた前足になり、顔の先はつんと尖って、頭には三角の耳が立っている。磨いた盆をのぞけば、銀の毛並みの狐が間の抜けた顔でこちらを見返していた。毛玉になったときの倍はある。


「オクタヴィアさん、きつね! もふもふのきつねさんになってる! しっぽ、さわっていい!?」

「よろしくありません。……と申し上げたところで、この体は聞きませんのよ」


 案の定でした。ミントが手を伸ばした瞬間、しっぽがぶわりと膨らみ、体は梁の上へ飛びのいている。着地してからようやく、跳んだことに気がついた。


 鼻も体も、持ち主の許しを取らずに先へ行く。廊下を歩けば、壁の向こうの厨房で誰が何を刻んでいるかまで分かってしまう。


 昼の鐘の前に、監督官の名代を名乗る役人が治験室へ入ってきた。


 脇に抱えた紙挟みには赤い封蝋。3日の猶予は、まだ2日残っている。


「本命薬の第一投与に立ち会う。手順書は受け取っている。被験体を出せ」

「早いな」

「監督官が繰り上げた。被験体の記録に、報告になかった項目があったそうだ」


 あざの5行ですわ。


 わたくしが余計な弁護をしなければ、まだ誰も見つけていなかった行。それが2日ぶんの猶予を削って、今日ここへ役人を連れてきている。狐の耳が、勝手にぺたりと後ろへ倒れた。


 クラウスは慌てなかった。ちらとこちらを見て、それから役人へ淡々と告げる。


「見てのとおり、被験体は今、獣化の副作用の最中だ。この状態で本命薬を投与すれば、獣の本能と薬効が干渉して、まず間違いなく暴走する」

「かまわん。予定どおりやれ」

「死んだ体からは何も出ん。……どうしてもとおっしゃるなら、監督官の署名をここへ」

「……なに?」

「命じた者の名を、書面へ残していただきたい。それが手順だ」


 役人がためらった。


 その隙に、無表情がこちらへ向いた。何も言わない。


 言わないまま、視線が動く。薬棚の高いところ。役人の帽子。床の空いた場所。


 ……ああ。そういうことですのね。


 わたくしは獣の喉を思いきり反らして、こおおん、と甲高く鳴いた。


 しっぽを鞭のようにしならせ、棚から棚へ跳びうつり、役人の帽子を前足でさらって振り回す。書類が宙を舞い、硝子瓶がからからと転がって、治験室はたちまち獣の修羅場になった。


「な、なんだこの獣は! 誰か、誰か捕まえろ!」

「わー、逃げた逃げたー! そっち! そっちいったよー!」


 ミントの案内はことごとく逆を指している。役人が右へ走れば、狐は左の棚から役人の襟へ跳ぶ。


「きょ、今日の投与記録は、まだ様式が揃っておりませんのでぇ! 第三号様式の副本が、その、まだ写しの途中で!」


 ポッケが震え声で書類の不備をまくし立てた。声は裏返っているのに、言っている中身だけは正確である。


 役人は帽子を諦めた。投与は体調が落ち着いてから改める、と捨て台詞を残して、扉の外へ逃げていく。


 閉まった扉の内側に、奇妙な沈黙が落ちた。


 狐のわたくしは舌を出したまま、机の上へぽすんと着地する。無茶な大立ち回りで、獣の体でも息が上がっていた。毛の間に汗をかく仕組みがないぶん、熱の逃げ場がどこにもない。


「……上出来だ。7号。おまえ、案外、芝居が上手いな」

「芝居ではございません。あれは地でしてよ」


 クラウスは机の縁へ肘をついて、わたくしのしっぽを見ていた。


「尾の振れが、1呼吸に3往復。……感情の出力が体表に出るタイプだな。脈より読みやすい」

「わたくしのしっぽで算術をなさらないで」

「する。前足では脈が取れん」


 言うなり、耳の後ろへ指を当てられた。獣の脈を、この方は人のときと同じ手つきで数えている。数え終わると袖の——毛皮の下の、あの位置を探して、指の腹で毛を分けた。藍色は今日も、毛の下からちゃんと透けて出ている。


 手順を変えてでも、この3つだけは飛ばさないのですわ。


「クラウス。次もお声がけくださいまし。わたくし、暴れるのは得意ですのよ」


 言ってしまってから、部屋の空気の質が変わった。


 ポッケの羽根ペンが、紙の上で宙ぶらりんになっている。今のは記録係の前で、担当者と被験体が示し合わせて役人を追い返したと、声に出して認めた形になる。


 ……口約束をひとつ、記録係の前で結んでしまいましたわ。


「今日はポッケの書式の指摘が効いた。俺は何もしていない」

「まあ。ずいぶん気前よく、手柄をお配りになりますのね」

「ぼ、僕もなにもしてません! 様式の話をしていただけですぅ!」


「ねえ、あたしは?」

「ミントは大声を出しただけだ」

「じゃああたしも、なにもしてない」

「そういうことになさいまし。……方角の案内だけは、次から練習なさって」


 全員で何もしていないことにする、という不思議な合意が、この場で成立した。


 小皿が前へ寄せられる。狐の舌でぴちゃぴちゃと舐めると、喉の奥に薬草の苦みが降りていった。


「効かないな。……狐になっても、悪知恵だけは人間並みだ」

「光栄ですこと」

「褒めてない。……助かった。次だ」


 助かった、と。


 しっぽが床をぱたぱたと打つ。前足で押さえにかかったら、押さえた前足まで一緒に跳ねた。


 浮かれていられたのは、そこまででした。


 薬瓶を棚へ戻すクラウスの手が、瓶の首をつかみ損ねて、二度目でようやく掴んだ。麦粒を1粒ずつ載せていたあの指が。


「クラウス」

「なんだ」

「効かないお薬を作る手が、なぜ今日にかぎって震えますの」


 棚の扉が閉まる音だけが返ってきた。


「オクタヴィアさん、しっぽ、まだ動いてるよ」

「動かしておりません。勝手に動いておりますの」

「じゃあ、それが本音ってことじゃん」


 毛布を頭からかぶった。かぶった中で、しっぽだけが律動を崩さずに床を打っている。


 その夜、丸くなりながら、稼いだものを数えてみた。1日。役人の帽子ひとつ。記録係の前でした口約束。


 黒い瓶は、まだ机の下で息をひそめている。


次話:「嘘つきの手が、少し震えて」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。