第18話「効かせたくない薬が、ここにある」
机の上に、黒い瓶。
中身がわたくしの喉を通るまでの猶予は、3日だそうですわ。
——順を追って申し上げます。今朝のわたくしは、薬缶でした。
肌の表面から、ふつふつと湯気が立ちのぼる。息を吐けば白い蒸気がもわりと漏れ、頭のてっぺんからは湯を沸かした薬缶みたいに細い筋が立つ。熱があるのとは違って、湯気のわりに額はぬるい。
「オクタヴィアさん、湯気! 顔から湯気出てる! 温泉みたい!」
「本日3人目ですわ、それをおっしゃったの。……この身ひとつで暖がとれるとは、経済的ではありますわね」
困ったことに、この湯気は周りの迷惑もお構いなしだった。食堂で椀に顔を近づければ視界が真っ白に曇り、廊下を歩けば後ろに白い尾を引く。ミントが面白がって、わたくしの頭上へ濡れた布をかざした。
「洗濯物、乾くかな?」
「人を物干し台になさらないで」
布の端から、ぽたりと落ちた雫が額に当たった。ミントは真剣な顔で布を裏返している。
感情が昂るほど、湯気の勢いは増した。腹を立てれば噴き、恥じ入れば噴き、笑っても噴く。腹の内が量で出るぶん、色で出た玉の日よりたちが悪うございます。
石壁に触れると、触れたところだけ露が結んで、ひと筋垂れた。冷えた石と湯気の相性はとことん悪いらしく、わたくしの通ったあとの廊下は、雨上がりのように濡れていく。厨房の女に「拭いてから歩け」と怒鳴られ、拭いた布から湯気が上がって、また怒鳴られた。
その暢気な湯気が剣呑な音を立てはじめたのは、昼の鐘の前だった。
監督官ヴォルフが、前ぶれもなく地下へ降りてきたのだ。供も連れず、靴音の間隔だけが、あの日と寸分変わらない。
治験室に入るなり、彼はクラウスの手帳を無造作に取り上げて頁を繰った。目がすっと細くなる。
「アーベントロート。前の視察から、ずいぶん経つな。本命薬の第一投与を始めろと、私は確かに命じたはずだが」
「準備が整っていない。被験体の耐性データが、まだ足りない」
「足りない、足りない。貴様はいつもそう言う。半年前から変わらん台詞だ。……いい加減、分かってきたぞ。貴様、わざと引き延ばしているな」
クラウスの横顔が、ほんのわずか強張った。
わたくしの頭から立つ湯気が、しゅうっと勢いを増す。ヴォルフの視線が、ちらとこちらへ流れた。
「湯気を噴く実験材料か。国が求めているのは、こんな道化芝居ではない」
ヴォルフは懐から小さな黒い硝子瓶を取り出し、机の上へことりと置いた。中の液体は光を吸いこむように黒く、とろりと澱んでいる。ひと目見ただけで背筋が冷えた。毎朝わたくしが飲まされる乳白色とは、まるで違う。
「本命薬だ。これを被験体7号に投与しろ。今、ここで」
「……できない」
クラウスの声が低く沈んだ。いつもの平坦さの下に、はっきりとした拒絶がある。
彼は黒い瓶を手に取り、掌の上で軽く上下させた。それから机の分銅の横へ置いて、目盛りを読む。
「重い。同じ量で、うちのより2割重い。沈むものが入っている。……これを飲んだ被験者を、俺は3人知っている。3人とも、戻ってこなかった」
「知らぬわけがあるまい」
「承知の上で置いていくのか。……7号に飲ませれば、どうなるか分からん。効かせるわけにいかない」
効かせるわけにいかない。
効かない、が口癖のこの方が、今日は効かせたくないと言っている。
湯気が、ごうっと噴き上がった。
「恐れながら、監督官どの。この方は引き延ばしていらっしゃるのではありません。毎朝わたくしの脈を数えて、袖をめくって、手首の色を見本と突き合わせて、それから瓶を寄こしていらっしゃるのです。あんな面倒を、怠けている人がなさいますか」
言い終えた瞬間、部屋の温度が下がった気がした。
ヴォルフが手帳を開き直す。頁を戻し、指をとある行の上で止めた。
「……手首の、色」
「あ」
「アーベントロート。被験体の爪の伸びが1行、脈が1行。この染みだけが、なぜ5行ある」
クラウスは何も言わなかった。
頭の上の白い筋が、すっと細くなって消えた。噴くべき感情の名前が、見つからなかったからです。
「情に流されたか、アーベントロート。被験者を7号ではなく、名のある人間として見はじめた顔だ。……忠告しておく。その情が、いずれ貴様を殺す。知っている顔だ、それは」
灰色の目の奥に、ほんの一瞬、クラウスと同じ翳りがよぎった気がした。それはすぐ、鉄の職務の下へ隠される。
「だからこそ、私は情を捨てた。国のために薬を仕上げるのが私の職務だ。3日のうちに本命薬を投与しろ。従わなければ、担当を替える」
靴音が、来たときと同じ間隔で遠ざかっていった。
治験室に重い沈黙が落ちる。クラウスは黒い瓶を睨んだまま、しばらく動かない。いつも減らず口の絶えない方が、今日はひとことも軽口を言わなかった。ポッケが手順書の綴じを胸に抱えたまま、扉のところで立ちつくしている。
「クラウス。……わたくし、その黒いお薬を、飲まなければいけないの?」
「飲ませない」
即答だった。振り向いた目に、いつもの気だるげな色はない。
「何があってもだ。それだけは約束する」
「言葉より、理由を伺いたいのですけれど」
「約束だ」
「効かないお薬を毎日くださる方が、なぜ"効かせたくない"薬のことだけは、そんなに必死になりますの」
返事の代わりに、いつもの乳白色が寄こされた。傾けると、乳白色は瓶の肩を這い上がってから底へ落ちる。初日からずっとそうだ。黒いほうは、傾けても這い上がってこないのでしょうね。
いつもの喉を通した。
「効かないな。……湯気の量は、朝より落ちてる」
「クラウス。あの、黒いお薬は」
「お前が気にすることじゃない」
いつもの「次だ」を、今日この方は口にしなかった。
夜、寝台で膝を抱えた。湯気はもう出ない。出ないぶん、体の中に熱が溜まっている気がする。
「オクタヴィアさん、湯気止まったね」
「ええ。おかげさまで」
「……ねえ。あたし、今日、廊下にいたよ」
「……お茶でもお持ちになればよろしかったのに」
ミントは寝返りを打って、それきり黙った。息の浅さで、眠っていないのが分かる。
黒い瓶は、今も机の隅に置かれたままだ。片づける者がいないからではなく、片づけていい物ではないからでしょう。
わたくしがあの一言を口にしなければ、あの帳面の5行は、まだ誰にも見つかっていなかった。庇うつもりの口が、この地下でいちばん見せてはいけない頁を、灰色の目の前で開いてみせたのですわ。
目を閉じると、瞼の裏で黒い液が揺れる。あれはとろりと重たくて、傾けても瓶の肩を這い上がらない。乳白色は這い上がるのに。
……ずいぶん、遠いお薬ですこと。毎朝わたくしの喉を通っていくものとは。
次話:「窮地に、ふさふさのしっぽ」




