エピローグ「番号のない、わたくしの朝」
名前で呼ばれて、目が覚めました。
「オクタヴィア。起きてるか」
扉の向こうから、相変わらず愛想のない声です。おはようの一言もございません。それでも、名前のほうから一日が始まります。据わりのよろしいこと。
「まだ寝台の上ですけれど、口はとうに動いておりますわ」
「なら、そっちを信じる」
枕もとの水差しごしに、油皿の淡い光が落ちております。吐く息がほんのり白い。
階段の上から降りてくる匂いが、いつのまにか焼き栗に変わりました。
この地下ではじめて目を閉じた早春の夜、枕に散らばっていたのは七色の髪でした。あれから春と夏が過ぎて、秋も終いに近づきました。髪はとうに元の栗色を取り戻しております。
……はずが、右の耳のあたりに一房だけ、虹が居残っておりました。
副作用の薬など、もう何ひとつ飲んでおりませんのに。この体は季節の変わり目になると、思い出したように昔の名残をひとつふたつ、寝床へ置いていくのです。
先だっての朝など、目が覚めたら左の小指だけが豆粒の寸法に縮んでおりました。匙も握れやしません。巨大化やら透明化やらでさんざんこき使われた体の、ささやかな意趣返しかしら。
とはいえ、虹の一房や豆粒の小指ごときで取り乱すには及びません。この地下で叩きこまれた図太さだけは、令嬢に戻っても抜けてくれそうにございませんの。
わたくしは今も王立錬金術研究所に居ついております。
侯爵家へは籍だけ戻して、月に幾度か義理で顔を見せる程度。名家の令嬢がまずいスープの地下暮らしを続けるなど前代未聞だと、家令はいまだ卒倒寸前ですけれど、こればかりは譲る気がございません。
「7号さん——じゃなくて、あの、オクタヴィアさん。新しい方が3人、入られました」
「まあ、ポッケ。あなた、まだ番号で呼びかけますのね」
「口が、その、癖で」
「その癖、直しておしまいなさい。番号で呼ばれるのは、思いのほか肌に障りますのよ」
「先生に言ってください! 元凶はあっちです!」
この青年は、近ごろわたくしの減らず口へ言い返してくるようになりました。羽根ペンを落とす回数も減りましたし、落としても、拾う手が震えません。
新しく来た方たちに、施設の作法を教えるのがわたくしの役目になっております。
まずいスープの飲み方も、副作用で頭を抱えないための心構えも、みんな昔ミントがわたくしに授けてくれたものです。
番号で呼ばれて不安げにしている新入りには、決まって名前を尋ねることにしております。地下でいちばん最初にわたくしの名を呼んだ、あの娘の真似ごとのように。
「あの、ここ、朝に何が起きるんですか」
「日によりますわ。昨日は隣の方が、頭から湯気を噴いておいででした」
「そ、それ、大丈夫なんですか」
「夕方には止まります。止まらないときは、厨房へおいでなさい。鍋の火の番に重宝されますわ」
「働かされるんですか!?」
「ええ。それはもう、ありがたがられて」
新入りの顔から、血の気がきれいに引いていきました。
この顔を、わたくしも最初の朝に一度こしらえております。あのときは、笑ってくれる相手が隣におりませんでしたけれど。
そのミントは、弟のもとへ帰っていきました。
クラウスがとうとう薬の調合を仕上げたのです。侯爵家の伝手で遠国の草をかき集めて、金貨で殴って、それはもう派手に殴りました。
「オクタヴィアさん、あたし、絶対また来るからね!」
「相部屋の寝台はひとつ空けておきますわ。埃をかぶらせておきますから、ご自分でお払いなさい」
「ひどい! そこは掃いといてよ!」
「掃いてしまったら、あなたが帰ってくる仕事がなくなりましてよ」
旅立ちの朝のことです。涙も笑いも出し惜しみしないあの娘は、その両方をいっぺんに顔じゅうへ広げて、盛大にべそをかいておりました。
石段の下からいつまでも手を振って、途中で転んで、それでもまた手を振っておりました。
監督官ヴォルフは、危うい本命薬の開発をいったん棚上げにしたと、風の噂に聞きました。
あの方が何を思い直したのかは存じません。ただ、報告書に一行書き足すという仕事を、この頃はずいぶん時間をかけてなさるそうです。
そしてクラウスはといえば、今日も「効かない」を口癖に、湯気の立つ新しい薬を煮ております。
もう、誰かを守るための嘘ではなく。
わたくしはその隣で欠けた椀のスープをすすりながら、彼の手帳を横からのぞきこむのが、すっかり毎朝の慣わしになりました。
脈だの爪の伸びだのを細かく書き連ねた頁の隅に、近ごろ小さく「顔色、良い」と添えられております。
測った数ではありません。数えられないものが、頁の隅からこっそり漏れ出しておりますの。見て見ぬふりをしておきました。
「クラウス。今朝もまた、髪が一房だけ虹色に戻っておりましたのよ」
「……そうか。効かないな」
「効いておりますでしょう。この耳のあたりをご覧になって」
「見てる。さっきから見てる。……根元から栗色が上がってきてるな。昨日より、指の幅ひとつぶん」
「そこをお測りになるところですの、今も」
最初の日と寸分たがわぬやりとりに、けれど番号だけが、もうどこにもございません。
言い終わってから、わたくしはいつものように余計な一言を足しました。足したところで、誰も凍りません。ポッケは「また始まった」と紙を抱えて逃げ、新入りの3人はぽかんと口を開け、クラウスは測った数を手帳へ書きつけております。
止めどころを間違える口は、そのままでした。
変わったのは口ではなく、その口が響いていく先のほうでした。
「オクタヴィアさん、ここ、いつもこんな感じなんですか」
「ええ。慣れておしまいなさい。……ところで、あなたのお名前は?」
「え。あの、僕、8号って言われました」
「番号ではなく、名前のほうを伺っておりますのよ」
「……ケイ、です」
「よろしい。ここでは、それを忘れないのが最初の作法ですわ」
番号で呼ばれ、番号で薬をあおった日々は、遠い早春の底へ沈んでいきました。
今朝もわたくしは、名前で呼ばれて目を覚まします。
耳もとに虹の名残をひとつ残して、番号のない朝は、今日もろくでもなく賑やかに始まってまいります。




