第 ⼗ 章 ア ル マ ン
第 ⼗ 章 ア ル マ ン
ヴェルサイユを去る夜、僕は⼀つのことを決めた。
まだ誰にも⾔わなかった。⾔えなかった。しかし⾃分の中では、もう決まっていた。
その夜の⾺⾞の中で、マリーさまはずっと黙っていた。⼦どもたちは眠っていた。シャ
ルルがマリーさまの肩に頭を預けて寝ていた。マリーさまはシャルルの髪を撫でながら、窓
の外を⾒ていた。
私はその横顔を⾒ていた。
疲れていた。⽼いたとは⾔えないが、以前の輝きが薄れていた。⽬の周りに影がある。
それは今夜だけのことではなく、ここ数年で少しずつ積み重なってきたものだった。
私はこの⼈を愛していた。
⼦として、ではないかもしれない。⺟として、でもないかもしれない。もっと複雑な感
情だった。感謝と、敬意と、距離感と、そして——ある種の悲しみ。
悲しみ、というのは、彼⼥が⽴っている場所を思うから、だった。
マリーさまはわかっていなかった。⾃分が何の上に⽴っているかを。いや、わかろうと
していたが、わかることができない構造の中にいた。宮殿の中で⽣まれ、宮殿の中で育ち、
宮殿の中で考えてきた⼈間が、宮殿の外の論理を、本当の意味で理解することは難しい。
私にはわかった。どちらの側からも世界を⾒てきたから。
わかることが、私を⼆つに引き裂いていた。
彼⼥への愛情は本物だった。しかし⾰命が求めているものも、理解できた。⺠衆の怒り
が正当だということも、理解できた。どちらも本物で、どちらも無視できなかった。
チュイルリーに着いてから、私はアベ・ドバックを訪ねた。
彼は私の顔を⾒て、すべてを察したようだった。
「どうするつもりだ」と彼は訊いた。
私は答えた。
「わかった」と彼は⾔った。⻑い沈黙のあと。「君の選択だ。しかし——」彼は何かを⾔い
かけてやめた。
「しかし?」
「王妃陛下は、君のことを愛しておられる」
「知っています」
「その愛が、君を縛るか、解き放つか。それは君が決めることだ」
私はその夜、ひとりで考えた。
愛が縛るか、解き放つか。
どちらでもある、と思った。マリーさまの愛は本物で、その愛が今の私を作った。絹を
着て、⽂字を読み、哲学を学んだのは、彼⼥がそれを与えてくれたからだ。しかしその私が
今、別の場所に⽴とうとしている。彼⼥の愛が育てたものが、彼⼥の⽴つ場所から遠い⽅へ
と向かっている。
それは裏切りか。
わからなかった。わかろうとしたが、わからなかった。
ただ、⾃分が何者か、ということだけはわかった。
私は孤児だった。街道に⽴っていた⼦どもだった。偶然に拾われ、偶然に名前を与えら
れた。その偶然を、私は愛している。しかし偶然に与えられた場所が、⾃分の場所でなけれ
ば、いつかそこを出ていかなければならない。
それが、⼈間というものではないか。




