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真田異子伝  作者: 海野快斗
第一章 滅亡 二節 新たな地にて

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第八話 藤

夕餉を終えた頃、源七郎は時勝に呼ばれ、館の奥にある居室へと足を運んだ。障子の向こうでは時勝が一人、燭台の明かりを傍らに置きながら静かに書状へ目を通している。長篠の戦より日が浅い今なお、塩田家には各地から戦死者や負傷者、失われた馬や田畑に関する報せが絶えず届いており、昼夜を問わず当主として裁かねばならぬことは山のように積み重なっていた。それでも源七郎が入室すると、時勝は手にしていた書状を畳み、穏やかな表情で彼を迎えた。


「参りました」


「うむ、そこへ座れ。安楽寺での学びはどうであった」


「谷仙和尚はとても物知りなお方でした。武田や村上だけでなく、昔の国司や朝廷のことまで教えてくださいます。分からぬことばかりですが、不思議ともっと知りたいと思えました」


時勝は満足そうに頷いた。


「それでよい。武士は槍や馬だけで戦うものではない。人を率いる者は、学をもって人を知り、政を知り、国を知らねばならぬ。谷仙殿に預けた甲斐があったというものよ」


源七郎はしばらく膝の上へ視線を落としていたが、やがて意を決したように顔を上げる。


「大殿、一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「何だ」


「今日、安楽寺で一人の女子《おなご》に会いました」


その一言だけで、時勝の表情から笑みが静かに消えた。


部屋を流れる空気が変わる。


時勝は源七郎から目を逸らすように障子の外へ視線を向け、しばらく何も語らなかった。その沈黙は決して源七郎を責めるものではなく、遠い記憶を呼び起こすための静かな時間であるように思われた。


やがて長く息を吐いた時勝は、低く、しかしどこか寂しさを滲ませた声で語り始めた。


「……あれは時信の娘じゃ。名を藤という」


その声には、塩田家当主ではなく、一人の祖父としての情が滲んでいた。


「藤は生まれたその日に母を亡くした。時信の妻は難産の末、藤をこの世へ送り出すと、そのまま二度と目を開かなかった。ゆえにあの子は母というものを知らぬ。幼い頃から父である時信だけを頼りに育ち、時信もまた、その寂しさを埋めるように、誰よりも藤を可愛がっていた。戦場から戻れば必ず抱き上げ、馬へ乗せ、暇さえあれば膝へ座らせて話を聞かせる。それほどまでに、あの子にとって父は世界のすべてであった」


時勝はそこで言葉を切る。


燭台の火が静かに揺れ、その明かりが刻まれた古傷を照らした。


「……その父も、長篠で逝った」


短い言葉であったが、その重みは源七郎にも十分伝わった。


「戦の報せを聞いてから、藤はほとんど口を利かなくなった。館にいても誰とも話さず、父の部屋へ入り、帰りを待つように座っておる日もあった。今のあの子には父が『帰って来ない』という現実だけが胸に残る。家中の者も皆あの子を案じておったが、どう接すればよいのか誰にも分からなんだ」


時勝は静かに目を閉じた。


「谷仙殿より『今は静かな場所で心を休めるべきでしょう』との言葉をいただき、安楽寺へ預けることにした。塩田家嫡流の血を引くただ一人の子を寺へ預けることに迷いがなかったと言えば嘘になる。しかし、あのまま館へ置けば、毎日が父を失ったことを思い知らされるだけであったろう。祖父として、当主として、それが最善であると信じるしかなかったのだ」


源七郎は時勝の話を聞き終えると、膝の上へ置いた手を静かに見つめた。


自分には母の記憶がない。父とも六年前に別れ、それ以来、親と呼べる存在は出浦盛清であった。だからこそ、父を失うという悲しみそのものは想像するしかなかったが、唯一の拠り所を失う心細さだけは、幼いながらに少しだけ分かるような気がしたのである。


長い沈黙の後、源七郎はゆっくりと顔を上げた。


「では、あの女子は……ずっと一人なのですね」


時勝は静かに頷いた。


「家中の者は皆、あの子を大切に思っておる。範康も、勝治も、兼定も、綱重も、それぞれ気に掛けてはおるのだが、あの子にとって父親の代わりになれる者などおらぬ。わしも祖父として出来る限り傍へおってやりたいと思うておるが、長篠の後始末に加え、家中の立て直しもある。当主としての務めが、祖父としての務めを許してはくれぬのだ」


そう語る時勝の声音には、戦場で数え切れぬ敵を討ち倒してきた武人とは思えぬほど深い悔恨が滲んでいた。


「戦というものは、命を奪うだけでは終わらぬ。残された者の心まで傷付ける。時にその傷は、槍で受けた傷より深く、生涯癒えぬことすらある」


その言葉は、誰に聞かせるでもない独白のようであった。


長篠で失ったのは嫡男だけではない。塩田衆にも多くの若武者が討たれ、それぞれの家に父を失った子、夫を失った妻、子を失った親が残された。そのすべてを見届けてきた時勝だからこそ、言葉の一つ一つに重みが宿っていた。


「源七郎」


「はい」


「おぬしは優しい子じゃ。あの子を放ってはおけぬと思うたのであろう。しかしな、優しさというものは時として相手を傷付けることもある。悲しみに沈む者へ無理に笑えと言えば、それは慰めではなく苦しみになる」


時勝は源七郎を真っ直ぐ見据え、穏やかに続けた。


「何か特別なことをしてやる必要はない。ただ、いつものように学び、あの子が居れば挨拶してやれ、あの子が話したくなれば耳を傾けてやればよい。それだけで十分じゃ。人の心というものは、励ましの言葉よりも、何気ない日々の積み重ねによって少しずつ癒えていくものなのだからな」


源七郎は静かに頷いた。


「……はい」


時勝はようやく柔らかな笑みを浮かべる。


「もっとも、おぬしもまだ六つの童じゃ。難しく考える必要はない。同じ年頃の子として接してやれ。それで十分よ」


その夜、源七郎は床に就いてからも、夕暮れの境内で見た藤の寂しげな横顔を思い返していた。自分を見た途端に逃げ出した小さな背中と、今しがた聞いた時勝の話が重なり、胸の奥に言いようのない感情が残り続けたのである。


やがて季節はゆるやかに移ろい始めた。


それからの日々、源七郎は毎朝塩田城を発ち、別所勝治や時には別所一族の者に伴われて安楽寺へ通う生活を続けた。谷仙和尚の教えは日を追うごとに深まり、文字を書き写すことから始まった学びは、やがて兵法や歴史、領地の治め方、さらには人の心を知ることの大切さにまで及んでいく。谷仙は決して知識だけを教えることはなく、「なぜそのようになったのか」「おぬしならばどうする」と問いを重ね、源七郎自身に考えさせることを何より重んじた。その教えは幼い源七郎にとって難解なものも少なくなかったが、不思議と学ぶことを苦には感じなかった。


境内の掃除や薪割り、畑仕事もまた修行の一つであった。武家の嫡男であれば家人へ任せるような仕事であっても、谷仙は「人の営みを知らずして人を治めることはできませぬ」と言い、自ら手を動かすことを求めた。源七郎もまた泥にまみれながら畑を耕し、薪を背負い、寺へ訪れる農民や旅人と言葉を交わすうちに、武士とは戦うだけの存在ではなく、多くの人々の暮らしによって支えられているのだということを少しずつ理解していった。


そんな日々の中で、藤の姿を見掛けることも少なくなかった。


最初のうちは、源七郎が近付くだけで木陰や堂の裏へ隠れてしまい、声を掛けても返事はない。それでも源七郎は時勝の言葉を思い出し、無理に追い掛けることはせず、朝に会えば「おはよう」、帰り際には「また明日」と、それだけを告げるようにしていた。


返事はなかった。


しかし、それでよいのだと源七郎は思っていた。


ある日、境内を掃いていると、風に飛ばされた竹箒を藤が黙って拾い上げ、小さく差し出してくれたことがあった。


「ありがとう」


源七郎が笑って礼を言うと、藤は何も答えなかったが、以前のように逃げ出すこともなく、小さく頭を下げてその場を去っていった。


またある日には、井戸から水を運ぶ源七郎の桶が重そうに揺れているのを見ると、藤は何も言わずもう一つの桶を持ち上げ、二人で並んで本堂まで運んだこともあった。


言葉はなくとも、その沈黙は以前とは違っていた。


互いの存在を少しずつ受け入れ始めた者同士だけが共有できる、穏やかな静けさであった。


その様子を谷仙は縁側から静かに眺め、小さく目を細めていた。


「花は無理に咲かせようとしても咲きませぬ。春を待ち、雨を受け、陽を浴びて初めて花開くものです。人の心もまた、それと同じなのでしょうな」


その言葉を聞いた勝治は何も答えなかったが、境内で並んで歩く二人の小さな後ろ姿を見つめながら、ようやく藤の歩みに迷いがなくなってきたことを、誰よりも嬉しく思っていたのである。


こうして源七郎は、学問を通じて知を養い、人との関わりを通じて心を育んでいった。


そして翌年の春、谷の雪がすっかり消え、塩田平に若草が芽吹き始めた頃、時勝はようやく長篠以来の慌ただしさから一息つき、源七郎を呼び寄せてこう告げる。


「今日からは、わし自らがおぬしへ塩田衆の武を教える。まずは、塩田流馬術から始めよう」

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