第七話 安楽寺
塩田家の重臣たちと初めて顔を合わせ、己がこれから背負う家の大きさを知った日の終わり、館の広間にはすでに夕暮れの光が差し込んでいた。障子越しの西日は赤く畳を染め、庭では蜩が鳴き始めている。家老たちがそれぞれ一礼して部屋を辞すると、広間には時勝と源七郎だけが残された。
時勝はしばらく庭を眺めていたが、不意に源七郎へ向き直る。
「今日は疲れたであろう」
「……はい」
「無理もない。一日で覚えねばならぬことが多すぎた」
源七郎は小さく頷く。真田家を離れ、塩田城へ入り、新たな父と出会い、重臣たちとも顔を合わせた。六歳の童には、あまりにも濃密な一日であった。
時勝は静かに笑う。
「じゃが、これで終わりではない。お主には明日より当主となるための学びを始めてもらう」
源七郎の表情が少し明るくなる。
「馬術でしょうか」
「いや」
時勝は首を横へ振った。
「まず学ぶべきは、武ではない」
源七郎は目を丸くした、塩田衆といえば信濃屈指の騎馬集団である。当然、最初に馬へ乗るものと思っていた、その様子を見て時勝は豪快に笑う。
「皆そういう顔をする」
そして穏やかな口調へ戻る。
「戦は武だけでは勝てぬ。民がおり、田畑があり、寺社があり、人の暮らしがあってこそ国は成り立つ。武だけを知る者は良き将にはなれても、良き当主にはなれぬ」
源七郎は黙って耳を傾けた。
「範康もわしも、今しばらくは長篠の後始末に追われる。各家との折衝、武田家への報告、戦で失った兵の立て直し……やるべきことが山ほどある」
長篠の敗北は、一度の戦に留まらない。多くの将を失い、多くの家が跡継ぎを失い、武田家そのものが揺らいでいた。その渦中にいる時勝には、一日たりとも気を抜く余裕はない。
「そこでだ」
時勝は源七郎を見据える。
「しばらくは別所温泉にある安楽寺で学べ」
「お寺ですか」
「そうだ」
時勝は静かに頷いた。
「安楽寺の谷仙和尚は、儂が若き頃より世話になっておる方だ。経だけではない。学問、歴史、人の治め方まで広く知っておられる」
少しだけ目を細める。
「時信も幼き頃は、あそこで随分と鍛えられた」
その言葉に、一瞬だけ父の顔が浮かんだ。しかし時勝はすぐに笑みを戻す。
「おぬしにも、まずは世の理を知ってもらいたい」
源七郎は静かに頭を下げた。
「分かりました」
「うむ」
時勝は満足そうに頷いた。
「迎えは勝治が行く。あやつなら寺への道も、塩田のことも道すがら教えてくれよう」
翌朝
山々にはまだ朝靄が残り、塩田平には涼やかな風が吹いていた。源七郎が支度を終えて館の玄関へ出ると、そこには一頭の栗毛馬と、それを引く別所勝治の姿があった。
「おはようございます、若様」
勝治は穏やかに一礼する。
「彦次郎殿はまだまだ戦の後処理に追われておりますので、本日は私がお供いたします」
源七郎も礼を返した。
「よろしくお願いします」
「そこは『頼む』で結構でございますよ、若様」
そう言った勝治と笑い合い、源七郎は館を後にする。
塩田城を出て西へ馬を進めるにつれ、景色は少しずつ変わっていった。
城下を囲む田畑はさらに広がり、山裾には幾筋もの湯煙が白く立ち昇っている。夏の朝風に乗って硫黄の香りが微かに漂い、それがこの地へ足を踏み入れた者へ、ここが古より湯の里として知られた別所であることを静かに告げていた。
別所温泉は信濃最古の湯とも伝えられ、その歴史は遠く奈良の御代にまで遡るという。古くは東山道を往来する役人や旅人が疲れを癒やし、武士が戦傷を治し、修験者や高僧が身を清める霊湯として栄えた。塩田平が「信州の鎌倉」と呼ばれるようになる以前から、この地には人が集い、文化が育ち、信仰が根付いていたのである。
とりわけ鎌倉時代、塩田流北条氏がこの地を治めるようになると、別所は飛躍的な発展を遂げた。京や鎌倉から僧侶や学僧が招かれ、数多の寺院が建立される。禅宗のみならず天台・真言の教えも広まり、山々には読経の声が絶えることがなかったという。今なお山腹に点在する寺院の多くは、その頃の名残を留めていた。
元弘三年、新田義貞の軍勢によって鎌倉幕府が滅びるとそれに殉じた塩田流北条氏も滅亡し別所温泉も衰退する。しかし、人は去らなかった。湯は今も変わらず湧き続け、寺は幾度となく再建され、塩田衆もまたその復興に力を尽くしたのである。
勝治は馬を進めながら、懐かしむような眼差しで温泉街を眺めた。
「若様。この別所は、塩田家にとって城と同じほど大切な土地でございます」
「温泉だからですか」
「それもございます。しかし、それだけではありませぬ」
勝治はゆっくりと言葉を続ける。
「人は湯を求めて集まり、寺を求めて集います。商人も旅人も僧侶も武士も、この地へ足を運びます。ゆえに世の動きも、人の心も、この別所へ来れば自然と耳へ入ってくる。戦の情報も、諸国の噂も、まずここを経ることが少なくありませぬ。」
それは軍師を務める勝治らしい視点であった。戦は城だけで行われるものではない。人が集まる土地を押さえ、その声を聞き、その流れを読むこともまた、国を治める者の大切な務めなのである。
やがて街道は杉木立の中へと入り、喧騒は次第に遠ざかっていく。
木漏れ日が石畳へ落ち、谷を渡る風が梢を揺らした。その静寂の先に、長い歳月を生き抜いた茅葺きの山門がゆっくりと姿を現す。勝治は手綱を緩めた。
「若様、あれが安楽寺にございます」
塩田流北条氏が栄えた時代より、この地の学問と信仰の中心としてあり続けた古刹の一つ、安楽寺。その門前には、戦乱の世であることを忘れさせるほど穏やかな空気が流れていた。
勝治に導かれて山門をくぐると、安楽寺の境内には外界とはまるで異なる静寂が満ちていた。風が杉木立を渡る音だけが絶え間なく耳へ届き、石畳の上には幾百年もの歳月を踏みしめてきたような丸みが刻まれている。境内には堂宇が整然と並び、その一つ一つが決して豪壮ではないものの、武家の館にはない落ち着きと気高さを漂わせていた。ここには戦の気配も、権勢を誇る者の喧騒もない。ただ学び、祈り、人として生きる道を求める者だけが歩いてきた時間が、静かに積み重ねられているのである。
その石畳の先から、一人の老僧がゆっくりと歩み寄ってきた。
白髪を後ろで束ね、年季の入った法衣をまとったその姿は質素そのものであったが、その眼差しには深い知恵と慈しみが宿り、一目見ただけで多くの人々を導いてきた人物であることが分かる。
勝治は静かに両手を合わせ、深く頭を下げた。
「和尚、ご無沙汰しております。若様をお連れいたしました」
老僧はゆるやかに頷くと、源七郎の前まで歩み寄り、その幼い顔をしばらく見つめてから穏やかに微笑んだ。
「この子が源七郎殿ですな。話は時勝殿より伺っております。ようこそ安楽寺へ。これより先は武家の若君ではなく、一人の学ぶ者としてお迎えいたしましょう」
源七郎は慌てて頭を下げる。
「源七郎にございます。よろしくお願いいたします」
「うむ、良い返事です。しかし学ぶ者に最も大切なのは礼儀でも知識でもありません。知らぬことを恥じず、知ろうとする心を失わぬこと、それだけは決して忘れてはなりませぬ」
その言葉は穏やかでありながら、不思議と胸へ染み入る重みを持っていた。谷仙は源七郎へ歩み寄るよう促し、ゆっくりと境内を歩き始める。
「この安楽寺は、古く鎌倉の頃、塩田の地が信州の鎌倉と呼ばれていた時代より、多くの僧が集い学問を修めてきた寺でございます。代々の塩田家当主もまた、この寺への崇敬の念を忘れず、堂宇を整え、学僧を招き、この地の人々が仏法と学問を学べるよう力を尽くされました」
谷仙の語る声に合わせるように、境内を吹き抜ける風が梢を揺らす。
「寺とは祈るだけの場所ではありません。書を学び、歴史を学び、人の道を学び、世の理を知る場所でもございます。武士が剣を磨くように、僧は心を磨き、為政者は学によって己を磨く。そのための場所なのです」
源七郎は周囲を見回した。
堂宇はどれも古く、柱には長い年月を物語る風合いが刻まれ、軒先には幾度も雪や雨を耐えてきた痕跡が残っている。その中でも一際目を引いたのは、境内の奥の山中にある塔だった。
谷仙はその視線に気付くと、小さく笑った。
「あれが気になりますか」
「はい。あれは何でしょうか」
「あれは八角の塔にございます」
そう答えた谷仙は、どこか誇らしげにその塔を眺めた。
後世、この塔は安楽寺八角三重塔と呼ばれ、国宝に指定されることとなる。一見すると四重塔にも見えるが、一層目に見える部分は裳階(ひさしのこと)であり、実際には三重塔である。この独特の構造を持つ建築は日本に現存する最古の禅宗様建築として高く評価され、松本城とともに長野県で最初に国宝へ指定された建造物となった。
源七郎はその塔を今一度見上げた。
何百年も先まで残る建物など、この時の彼には想像もできなかった。ただ、不思議と目を離せない美しさだけは幼い胸にも刻まれていた。
谷仙は源七郎へ向き直った。
「源七郎殿も同じです。今日学んだことが明日すぐ役立つとは限りませぬ。しかし十年後、二十年後、あるいは次の世代になって初めて意味を持つ学びもございます。焦らず、一つ一つ積み重ねてまいりましょう」
源七郎は力強く頷いた。
「はい」
その日から、源七郎の学びの日々が始まった。
書を読み、筆を執り、歴史を学び、武田や村上、北条のみならず、さらに古い時代の国司や朝廷の仕組みまで教わる。昼には境内の掃除をし、薪を割り、僧たちと共に食事を取り、時には近隣の農民の話を聞くこともあった。
谷仙は決して答えを教えなかった。
「なぜそう思うのです」「おぬしならどうする」と問いを重ね、源七郎自身に考えさせることを何より大切にしたのである。
後世、広く真田家及び塩田家の歴史書として知られる『真田三代実録』
その編纂者として名高いのは弟子である安楽寺有仙だが、その師にして最初の編者である安楽寺谷仙は当時知る人ぞ知る智者の一人であり、その教育は源七郎に多大な影響を与えることになる。
そして、その日の学びを終えた夕刻。
西日が山の端へ傾き始め、境内にも長い影が落ちる頃、迎えの勝治を待つため山門へ向かって歩いていた源七郎は、本堂の裏手へ続く小道で、一人の少女の姿を見つけた。
年の頃は自分より一つか二つ下であろうか。
淡い小袖をまとい、小さな身体で石段へ腰掛けたまま、夕焼けに染まる空をじっと見つめている。その横顔には幼さが残っているにもかかわらず、どこか年齢に似つかわしくない寂しさが漂い、まるで心だけが遠く離れた場所へ置き去りにされているようにも見えた。
源七郎は思わず足を止める。しばらく迷った末、おそるおそる声を掛けた。
「こんにちは」
少女は驚いたように肩を震わせ、ゆっくりと振り返る。二人の目が合ったのは、ほんの一瞬であった。その瞳には深い悲しみと怯えが宿っており、源七郎がもう一歩近付こうとした途端、少女は立ち上がると何も言わず駆け出し、木立の奥へ姿を消してしまった。
「あっ……」
呼び止めようとした声は、静かな境内へ吸い込まれていく。
源七郎はしばらくその場へ立ち尽くしていたが、やがて背後から馬の足音が近付いてきた。
「若様、お待たせいたしました」
迎えに来た勝治であった。源七郎は先ほどの出来事を思い出し、すぐに尋ねる。
「勝治殿、このお寺には女子がいるのですか、さっき話しかけたら逃げられてしまいましたが」
勝治は一瞬だけ歩みを止めた。その穏やかな表情が、ごく僅かに曇る。
しばらく沈黙した後、小さく息を吐いた。
「……若様、そのことにつきましては、私の口から申し上げることはできません」
源七郎は首を傾げる。
「どうしてですか」
勝治は静かに首を横へ振った。
「事情を知る者だからこそ、私から語るべきことではないのです。もし気になられるのであれば、大殿に直接お尋ねください。おそらくお話くださるはずです」
それ以上、勝治は何も語らなかった。源七郎はなおも少女の消えた木立を振り返ったが、その姿はもうどこにもなく、ただ夕暮れの風が杉の梢を静かに揺らしているだけであった。
注:安楽寺
史実における安楽寺は樵谷惟仙によって事実上開山された信州最古の禅寺である。この人物は鎌倉建長寺で有名な蘭渓道隆とともに来日した。鎌倉時代は塩田流北条氏によって保護されたが室町以降衰退。1580年に曹洞宗の僧侶高山順京によって再興された。
この物語では塩田流北条氏滅亡後も塩田家(当時御牧家)により保護されたため衰退していない。
真田三代実録は架空の歴史書です。




