第六話 塩田家(その2)
塩田城の館に着いた源七郎は範康に案内されて広間へ入る、上座には時勝がどっしりと胡坐をかいて座っていた。六十を迎えてなお背筋は真っ直ぐ伸び、その肩幅は若武者にも劣らない。日に焼けた顔には幾筋もの古傷が走り、太い眉の下から覗く鋭い眼光は、まるで獲物を見定める鷹を思わせた。
初めて会った時と変わらぬ威圧感に、源七郎は思わず背筋を伸ばす。
「戻りました、大殿」
範康が一礼すると、時勝はゆっくりと頷いた。
「ご苦労であった、範康」
そして視線を源七郎へ向ける。
「源七郎」
「はっ」
「そう固くなるな。今は戦場ではない」
低く太い声でそう言うと、時勝は豪快に笑った。
「ははは、初めて会うた時より顔が強張っておるぞ」
その笑い声に、部屋の空気が少しだけ和らぐ、源七郎も思わず苦笑した。
「少し……緊張しております」
「当然だ」
時勝はあっさりと言った。
「六つの童が親元を離れ、新しい家へ来たのだ。不安にならぬ方がおかしい」
そう言って立ち上がると、大股で源七郎の前まで歩み寄る。その体格は近くで見るとさらに大きく、まるで岩壁が動いてきたかのようであった。だが、その大きな手は意外なほど優しく源七郎の肩へ置かれる。
「まず一つだけ言っておこう」
時勝は源七郎の目を真っ直ぐ見つめた。
「今日より、おぬしは客ではない」
源七郎は息を呑む。
「塩田家の養子として迎えた以上、おぬしはもうこの家の人間だ。遠慮も要らぬ。困ったことがあればわしに言え。嬉しいことがあれば皆で笑えばよい」
時勝はゆっくりと言葉を続ける。
「父がおるなら父として叱る。師を求めるなら師として教える。戦になれば大将として共に槍を執る」
そして少しだけ笑った。
「……もっとも、まだ六つでは馬にも満足に乗れぬだろうがな」
源七郎の緊張が少しだけ解ける。
「少しなら乗れます」
「ほう」
「主水佐様に教わりました」
「忍びの馬と塩田衆の馬は違うぞ」
「違うのですか」
「まるで違う」
時勝はどこか楽しそうに笑った。
「忍びは生きて帰るために馬へ乗る、我らとは違う乗り方をするのだ」
その言葉には、自らの生き方への揺るぎない自負が滲んでいた。
「いずれ、おぬしにも教えてやろう。塩田流馬術というものをな」
源七郎の目が輝く。
「本当ですか」
「もちろんだ。ただし泣いて逃げ出しても知らんぞ」
「逃げません」
即座に返ってきた言葉に、時勝は満足そうに頷いた。
「うむ、その負けん気は結構だ」
しばらく源七郎を眺めていた時勝は、不意に視線を窓の外へ移した。
「また御牧にも連れて行ってやろう」
時勝は静かに言う。
「我らの友たる馬はそこで生まれ育つのだから」
時勝は不思議がる源七郎の横顔を見て、小さく笑みを浮かべる。
「焦る必要はない」
その声は先ほどまでの豪放さとは違い、父親のような穏やかさを帯びていた。
「武芸も軍学も政も、すべてこれから学べばよい。わしも範康も、家中の者も、おぬしを一人前の塩田家当主に育て上げる。そのために迎えたのだからな」
そう言うと時勝は再び上座へ戻り、ゆっくりと腰を下ろした。
「さて」
その声音は再び当主のものへ戻る。
「まずは、おぬしに会わせねばならぬ者たちがおる」
時勝は障子の外へ向かって静かに声を掛けた。
「入れ」
その一言とともに障子が左右へ開かれ、四人の男が静かに広間へ足を踏み入れた。誰一人として無駄な足音を立てない。それぞれ年齢も風貌も異なるが、その立ち姿だけで長年塩田家を支えてきた重臣であることが窺えた。
源七郎は思わず姿勢を正す。
時勝は四人を見渡すと、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「この者たちが、塩田家を支えてきた家老衆よ。今日より、おぬしも共にこの家を支える一人となる。今のうちによく顔を覚えておけ」
まず一人の老人が静かに前へ進み出る。髪には白いものが目立ち、顔色も優れているとは言い難い。しかし、その姿勢には少しの乱れもなく、病の身であることを忘れさせるほど眼光だけは鋭かった。その双眸には、数え切れぬ戦場を見てきた者だけが持つ静かな威厳が宿っている。
「こちらは塩野貞康」
時勝が穏やかに紹介する。
「範康の父であり、長きにわたり塩野一族を率いてきた男だ。今は病を得て表立って戦には出ておらぬが、この家の相談役としてなお誰よりも頼りにしておる」
貞康は源七郎へ静かに頭を下げた。
「塩野貞康にございます。若様のお噂は範康より幾度となく聞いております」
その声は病人とは思えぬほどよく通った。
「武芸は範康や時勝様がお教えくださるでしょう。されど家を治める道は武だけではございませぬ。家中をまとめ、人を見て、人を使うこともまた当主の務め。その折には、この老骨にもまだ少しは役目が残っておりましょう」
源七郎は深く頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
貞康は静かに微笑み、そのまま一歩退いた、時勝は続いて隣の男へ視線を向ける。
四十に届くかという年頃であろうか。武人らしい逞しさを備えながらも、どこか穏やかな空気を纏った男である。日に焼けた手には剣だこの代わりに、馬具を扱う者特有の傷跡が幾つも刻まれていた。
「御牧兼定」
その名を呼ばれると、男は柔らかく笑って一礼した。
「御牧一族当主、兼定にございます」
時勝は源七郎へ向き直る。
「我ら塩田家の旧き名を今なお守り続ける一族よ。我らの親族衆の筆頭でもある。御牧を管理し、数多くの軍馬を育てることを代々の役目としてきた」
「若様」
兼定は優しい口調で言う。
「馬は人の言葉を話しませぬ。されど、人の心は誰よりもよく見ております。無理に従わせようとすれば離れ、心を通わせれば命を預けてくれる。それは人も同じこと」
そう言って少し笑う。
「……もっとも、時信様は子供の頃から馬へ好かれておりましたから、私の教えることなどほとんどありませんでしたが」
その言葉に広間の空気が少し和らぐ、時勝も懐かしそうに頷いた。
「兼定は馬のこととなると三日三晩でも語り続ける男だ。覚悟しておけ」
「大殿、それではまるで私が変わり者ではありませぬか」
「違うのか」
広間に小さな笑いが広がる、源七郎も思わず笑みを浮かべていた。
続いて前へ進み出たのは、涼しげな目元をした細身の男であった。武人らしい逞しさは備えているものの、先の二人とは違い、その身から漂う空気はどこか静かで落ち着いている。歩幅一つ、礼の角度一つに至るまで無駄がなく、常に周囲を見渡しているような眼差しは、物事を俯瞰して見る癖が身についていることを窺わせた。
「別所勝治」
時勝が紹介する。
「別所家当主にして、別所温泉と周辺寺社を預かる男だ」
勝治は静かに頭を下げた。
「別所勝治にございます。若様をお迎えできましたこと、一同嬉しく思っております」
時勝は源七郎へ向き直る。
「別所家は代々、温泉の湯守を務め、生島足島神社をはじめ周辺寺社との折衝を担ってきた家だ。民の声も、僧の考えも、旅人の噂も、まず勝治のもとへ集まる」
そこで時勝は小さく笑った。
「もっとも、この男の真価はそこではない」
勝治は少し困ったような表情を浮かべる。
「大殿、そのように仰られると話しづらくなります」
「構わぬ。本当のことだ」
時勝は豪快に笑う。
「戦では騎馬を率いることもあるが、それ以上に戦の前に働く男だ。敵がどこから攻めるか、どこへ兵を置けば味方が生きるか。そうした策を考えさせれば、この塩田衆で右に出る者はおらぬ」
源七郎は思わず勝治を見つめた、勝治は照れたように小さく首を振る。
「私は武勇では大殿や範康殿には敵いません。ゆえに戦場では、少しでも皆が生きて帰れる道を考えるだけにございます」
その言葉は静かだったが、戦場を知る者だけが持つ重みがあった。
「若様」
勝治は源七郎へ穏やかな視線を向ける。
「勝つことも大切ですが、それ以上に負けぬことが大切な戦もございます。一歩退くことで百人が助かるなら退くべきですし、一日待つことで千人が救われるなら待つべきです。当主とは、槍を振るうだけでは務まりませぬ」
源七郎はその言葉を胸に刻むように頷いた、すると横から兼定が笑い混じりに口を挟む。
「もっとも、勝治は考え始めると周りが見えなくなる。時信様もよく『また始まった』と笑っておられた」
「兼定殿こそ、馬の話になれば人の話を聞かなくなるではありませんか」
「それは違う。馬の話は大事だから聞かせておるのだ」
「同じことでしょう」
二人のやり取りに広間には小さな笑いが広がる、時勝も肩を揺らして笑った。
「時信も生きておれば、きっとこの輪に加わっておっただろうな」
一瞬だけ場が静まり返る。しかし勝治はすぐに表情を改め、源七郎へ深く一礼した。
「これよりは若様をお支えいたします。戦でも政でも、何なりとお尋ねください」
その言葉には、亡き主君・時信へ果たせなかった忠義を、これからは源七郎へ尽くすという静かな決意が滲んでいた。
最後に、一際大きな影が前へ進み出る、年齢は時勝よりもやや上。身体には無数の刀傷が刻まれ、片腕には古傷のためかわずかな震えが残っている。しかし、その巨体から放たれる圧は、若い武将すら黙らせるほどであった。
「保野綱重」
時勝の声にも自然と力がこもる。
「保野党を率いる足軽大将にして、塩田衆随一の古強者よ」
綱重は太い腕を組み、源七郎をじっと見つめる。
「若様」
低く響く声が広間を震わせた。
「馬に乗る武士は華やかじゃ。じゃが、戦というものは足で勝つ。槍を支え、城を守り、最後まで踏み止まる者がおらねば、騎馬も働けぬ」
その目は鋭い。
「いずれ若様にも、それを骨身に叩き込んで差し上げよう」
そう言って綱重は豪快に笑った、源七郎は四人を順に見つめた。
武を極めた老将
馬を知り尽くした牧の長。
政と寺社を司る知将
足軽を束ねる歴戦の勇士
それぞれが異なる道を歩みながら、皆が塩田家を支えている。時勝はそんな四人を見回すと、静かに口を開いた。
「源七郎」
源七郎が顔を上げる。
「この者たちは家臣ではない。これより先、おぬしを支え、時には叱り、時には命を懸けて守る家族だ」
時勝の言葉に、四人は何も言わず深く頷いた。その姿を見た源七郎もまた、自然と頭を下げる。
この瞬間、幼い少年は初めて、自分が本当に塩田家の一員となったことを実感するのであった。




